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古代あさくらツアー・卑弥呼・神功皇后・斉明天皇の足跡を巡る


古代あさくらツアー
卑弥呼・神功皇后・斉明天皇の足跡を巡る

嬉しいな!
ついに古代史ツアーが出た。
これまでの逍遥で、歴史や産物の豊かな所に沢山出会っていました。
そんな魅力的な市町村の観光と古代史を組み合わせたプランが出来たらいいなと
ずっと思っていたので、この古代朝倉のツアーにうれし涙。

タイトルは

「古代あさくらを駆け抜けた 卑弥呼・神功皇后・斉明天皇
ゆかりの地を巡る歴史探訪モニターバスツアー」


―原鶴温泉、農家レストラン、直売所で買い物、夜は郷土史家と歴史談義
2012年5月31日(木)~6月1日(金)
ときたもんだ。


行程表を見ると、無理なく廻れるコースを組んである。



神功皇后が仲哀天皇の仇討ちをするために羽白熊鷲を攻略するルート。
卑弥呼の里の候補地―平塚川添遺跡。
斉明天皇が突然亡くなって、天智天皇が殯をした恵蘇八幡宮。
そして橘広庭宮の候補地。

そんな場所を巡るんですよ~。
朝倉と言えば三連水車。
夜は原鶴温泉だ。
筑後川流域は今は小麦が黄金色。
果物もおいしい所です。

私も各神社をリンクして応援します (^o^)/
下調べに利用してね。

砥上神社とがみ 朝倉郡 皇后軍が駐屯して砥石で武器を磨いた
栗田八幡宮(松峡八幡宮) まつお 朝倉郡 羽白熊鷲攻撃の大本営を築いた
大己貴神社 おおなむち 朝倉郡 神功皇后は大三輪の神を祭った
恵蘇八幡宮
恵蘇八幡宮と木の丸殿(1)筑紫で亡くなった斉明天皇のモガリの宮
恵蘇八幡宮(2)なんと縁起に斉明天皇陵の所在地が書かれていた。
恵蘇八幡宮(3)一筋縄では行かない地名の特定・明日香村の地名の変遷が分からない
恵蘇八幡宮(4)こんな所に漏刻(水時計)があったよ



問い合わせ・申し込み
朝倉広域観光協会 歴史探訪モニターツアー事務局
TEL 0946-24-6758 FAX 0946-24-9015
e-mail:aakankou@apricot.ocn.ne.jp


途中であの埴輪くんに会えるかも!

仙道古墳
http://lunabura.exblog.jp/15708317/

















朝倉市










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# by lunabura | 2012-05-26 20:42 | にっき | Trackback | Comments(0)

百済の前方後円墳(5)中国正史に「倭国」と「日本」 二つの王朝が書いてある…


百済の前方後円墳(5)

中国正史に「倭国」と「日本」 二つの王朝が書いてある…
まずは『旧唐書』倭国伝を読んでみよう

日本書紀を気ままに訳していました。
我が国の事を古い時代は「倭国」と書いていたはずなのに
継体天皇の時代には「日本」という表記が出て来ました。
いったいいつの間に「倭国」から「日本」になったんだろう。

そう思いながら『旧唐書』(くとうじょ)をパラパラとめくっていると、あれあれ?
目次に「倭国」「日本」と二種類書いてあるのです。
これはいったい何だ!
日本が二種類だって?
二つ並んでいるという事は、唐は明らかに「日本列島に『二つの王朝』がある」
と認識していることを示しています。

「倭国」と「日本」は別なのか?
読み始めるといきなり「倭国」の場所が書いてありました。
目が点 (@_@;) 何じゃあ、これは!
それは良く良く知っている所でした。
それはこのブログでずっと歩きまわった所―奴国だと書いてあるではないですか。

それじゃあ、「日本」は、ど、何処?
と驚いたのですが、訳して読まないと、どうしようもない…。
と、ぼちぼちとチャレンジするのでありました。
という事で今回は『旧唐書』倭国伝です。

倭国
倭国はいにしえの倭の奴国のことである。唐の都の長安を去ること1万4千里。新羅の東南の大海の中にある。倭人は山ばかりの島に依り付いて住んでいる。倭国の広さは東西は5か月の旅程で、南北は3か月の旅程であり、代々中国と通じていた。

その国の町などには城郭が無く、木で柵を作り、家の屋根は草で葺いている。

四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。制定する官位は12等級ある。訴訟する者は匍匐(ほふく)して前に出る。

倭国には女が多く、男は少ない。かなりの漢字が通用している。俗人は仏法を敬っている。人々は裸足で、ひと幅の布で身体の前後を覆っている。

貴人は錦織の帽子をかぶり、一般人は椎髷(さいづちのようなマゲ)で、冠や帯は付けていない。

婦人は単色のスカートに丈の長い襦袢を着て、髪の毛は後ろで束ねて、25センチほどの銀の花を左右に数枝ずつ挿して、その数で貴賤が分かるようにしている。衣服の制(つくり)は新羅にとても似ている。

貞観5年(631)。倭国は使いを送って来て、地方の産物を献上した。太宗は道のりが遠いのをあわれんで、所司(=役人)に命じて毎年朝貢しなくてよいように取りはからわせ、さらに新州の刺史(しし=長官)高表仁に使者のしるしを持たせて倭国に派遣して、てなずけることにした。ところが表仁には外交手腕がなく、倭国の王子と礼儀の事で争いを起こして、国書を述べずに帰国した。

貞観22年(648)になって、倭国王は再び新羅の遣唐使に上表文をことづけて太祖へ安否を伺うあいさつをしてきた。

以上が「倭国伝」です。この『旧唐書』は945年に成立しています。

唐の太祖(在位626年 - 649年)の時代のエピソードが書かれているので、
皇極天皇の642年の即位、白村江の戦いの663年と比較すると、
「倭国の王朝」がまだ存在して、「日本」と併存している事になります。
しかし、この後の『新唐書』ではもう「倭国」についての記述は消えてしまいます。

やはり白村江の戦いで倭国の兵士たちが海の藻くずとなった事が
倭国の滅亡へとつながったのでしょうか。

「倭国とはいにしえの倭の奴国だ。」という事は福岡県の北部を指しています。
奴国(なこく)。那の国。儺の国。表記がいろいろとあります。
そう。そこはこのブログでずっと歩いてきた所なのです。

奴国は現在の福岡市を中心にして、もう少し広い領域が相当します。
これまでの聞き取りでは東は福津市の東郷川まで、あるいは宮地嶽古墳あたりまで分かっています。
西は那珂川町が『儺の国の星』のタイトルが示すように奴国に入ります。
北は志賀島あたりまでかな?南限は未調査です。

倭国(奴国)の王の姓は代々アマ・アメと書いてあります。
これを見てちょっとショックでした。だって日本の神話によく出て来る名前ですから。

どこに住んでいたのでしょうか。
候補地の一つに聞き取りでは粕屋郡の志免町があります。
また、仲哀天皇の時代はもちろん儺の県―福岡市東区香椎ですね。
(ただし仲哀天皇が倭国の王のアマ氏かどうかはよく分からない。)

中国正史の他の本をパラパラとめくると都は
『新唐書』には筑紫城。
『隋書』には邪靡堆。即ち邪馬台だと書いてあります。
邪馬台も奴国にある事になってしまいます。
まだ一部しか読んでいないので、結論は出せませんが、これはいったいどういう事なのでしょうか。
都というものは時代の変化に合わせて転々とするけど、奴国の中でという事になります。

これがいわゆる「九州王朝」を指すのは明らかです。
こりゃあ「九州王朝説」とは、説ではなく、「事実だ」よ。だって中国の歴史書にそう書いてあるんだもん。

朴天秀氏が明らかにした百済の前方後円墳から割り出される「古代九州勢力」が
この「倭国」であるというhurutakaimasakiさんの指摘もまちがいありません。

中国史の部分しか読んでないので、全容を早く知りたいなあ。
誰か既に論文書いてないかなあ…。ズボラしたいよ。
公開日記に書くには問題が大きすぎますよね。


さてさて、話は全く変わりますが、ここに描かれた倭人のファッションが気になります。
人々は裸足で、ひと幅の布で身体の前後を覆っている

これは庶民の格好の話ですが、いったいどんな格好?


この写真の中央の人は「貫頭衣に一枚の布を前後に覆った」格好です。
左の人は貫頭衣だけ。右の人は貫頭衣の上から一枚の布を肩で結んでいます。
「顔が濃い人たち」が着ると「弥生人の貫頭衣」とは全く違うように見えますが…。
どうみても貫頭衣です。


阿部寛さん以外は現地のローマ人。似た人、ご近所にいませんか?

貴人は錦織の帽子をかぶり、一般人は椎髷(さいづちのようなマゲ)で、冠や帯は付けていない。

男子でも身分が高くなると帽子をかぶり、
一般人は「さいづちのようなマゲ」を結っています。
才槌は木の槌ですから、こんな感じかな?
これは『三国志』(180~280)の髪型です。日本では弥生時代ですね。
竹内宿禰が軍勢にこの髪型にさせて、弓の弦を隠させたのを思い出します。
ということは彼らは普段は違う髪型だった訳ですが。


参考までに同じ『三国志』の冠や甲のようすです。
倭国の王族アマ氏は毎年、唐に朝貢していたというのですから、
このような服装の影響を受けていただろうとも思えるのですが。
いったいどんな格好をしていたんでしょうね。

上は竹原古墳の壁画の武人。ブーツはいてるね。

婦人は単色のスカートに丈の長い襦袢を着て、髪の毛は後ろで束ねて、25センチほどの銀の花を左右に数枝ずつ挿して、その数で貴賤が分かるようにしている。衣服の制(つくり)は新羅にとても似ている。

身分の高い女性はスカートに襦袢です。
襦袢(じゅばん)の語源はアラビア語の「ジュッパ」がポルトガル語「ジヴァン」に変化して、漢字をあてたものだそうです。
高松塚古墳(700年前後)の壁画の女性たちは後ろで髪を束ねてスカートを履いて、襦袢を着ています。
壁画のスカートはカラフルですが、倭国の場合は単色でした。
ヘアースタイルはトップは少し逆毛を立てて、あとは後で束ねています。
銀の花の髪飾りを揺らすにはもう少し上の方で結った方が良さそう。




良く似ているという新羅の女性の服装です。
こっちの方が銀の花の髪飾りが似合いそう。
倭国の婦人たち。どんなファッションだったのでしょうね。

次は同じ『旧唐書』の「日本伝」を読んでみましょう。

(つづく)










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# by lunabura | 2012-05-23 00:05 | 百済の前方後円墳 | Trackback | Comments(18)

百済の前方後円墳(4)中国から見た事情・『宋書』倭国伝―倭の五王


百済の前方後円墳(4)
中国から見た事情
『宋書』倭国伝―倭の五王
 

さて、hurutakaimasakiさんのコメントを理解するために、今日は中国の方を調べましょう。
コメントの順を入れ替えて行くのを了承してください。

――更に、5世紀は倭の五王の時代で、「倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の称号の示す様に、半島南部の支配者だったのですから、彼らも又九州の王、倭国は九州となりますね。

ーーあの「倭の五王」の時代ですね!
というか名前だけよく知ってて内容は知らないんですが。
日本書紀には書かれていないのに、中国の正史に書かれている王たちです。
その正史とは『宋書』だそうです。
とりあえず何て書いてあるか、原典に当たりましょう!
例の調子で、へっぽこ訳で~す。

『宋書』倭国伝

倭国高句麗の東南の大海の中にあって、代々我が国に朝貢してきた。
高祖(南朝宋の武帝)永初2年(421)。高祖・武帝
倭の讃王は万里も離れている所から朝貢して来る。遠くからでも朝貢する誠意を考慮して官職を授けよう。」と言った。

太祖(宋の文帝)の元嘉2年(425)。讃王はまた司馬の曹達を派遣して上表文を奉り、特産品を献上した。

讃王が死んで弟の珍王が即位し、使者を送って朝貢してきた。みずから(都督の最高位である)使持節・都督・倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東大将軍・倭国王と名乗り、上表文を奉って正式に任命されるよう要望してきた。

文帝は勅命を下して安東将軍・倭国王に任命した。珍王はまた倭の隋ら13人に平西・征虜・冠軍・輔国などの将軍の称号を授けるように要望した。文帝はこれらすべて許可した。

元嘉20年(443)。倭国王の済王(せいおう)が使者を送って朝貢してきた。そこで安東将軍・倭国王と任命した。

元嘉28年(451)。使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事の称号を加えて、安東将軍は元のままにした。ならびに上表された23人を将軍・郡長官に任命した。(※百済の名が消えていることに注意。)

済王が死んだ。世継ぎの興王(こうおう)が使者を遣わして朝貢してきた。世祖(孝武帝)の大明6年、(462)孝武帝
「倭王の世継ぎ興王はこれまでと変わらず忠心を示し、我が国を守る外海の垣根となり、我が国の文化に感化されて辺境を守り、うやうやしく朝貢してきた。興王は先代の任務を受け継いだのだから、爵号を授ける。安東将軍・倭国王と称号せよ。」と勅命を下した。

興王が死んで弟の武王が即位した。みずから使持節・都督・倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・七国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称した。

順帝の昇明2年(478)倭国の武王は使者を送って上表文を献じて、
「封国である我が国は偏遠の地にあって、外の垣根の役割をしています。昔から祖先はみずから甲冑を身につけ、山川を跋渉し、ひとところに安んじて留まる暇はありませんでした。

東の方は毛人の55国を征し、西の方は衆夷(しゅうい)66国を征服し、海を渡って北の95国を平らげました。皇帝の王道は広く溶け込み、封土は広大です。

我が国は先祖代々宋国に入朝するのに時節を誤った事はありません。わたくしは愚か者ではありますが、かたじけなくも先祖の偉業を継いで、統治する人々を率いて天極である宋国に帰順しています。通う道は百済を通って船路です。

ところが高句麗は無道者で、百済を飲み込もうとして国境の人民を略奪し、殺害しています。常に朝貢の道は滞って、我が良風を失わせようとしています。貴国に行こうとしても通じたり、通じなかったりします。

臣下であるわたくしの父済王は実に高句麗が宋国へ通う道を塞ぐことを怒り、弓矢を持つ兵士100万、義憤の声を挙げて奮いたち、大挙して攻めようとしましたが、にわかに父王と兄王が亡くなって後一息で成功する時に、さいごの一撃が出来ませんでした。わたくしは国に居て喪に服しているので兵士たちを動かさないでいます。こうして戦いをやめて兵士を休めて、高句麗に勝たずにいます。

されども、今こそ兵士を鍛錬して父と兄の志を全うしようと思います。我が義士も勇士も文官も武官も力を発揮して敵と刃を交えようとも命は惜しくはありません。

もし皇帝の徳によって、我らを援護していただければ、この強敵をくじき、地方の乱れを収め、祖先の業績にも劣ることはありません。

勝手ながら、わたくしに開府儀同三司を任命され、ほかの諸将にもみなそれぞれに任命されて、貴国に忠節をつくすように勧めて下さい。」と。

そこで順帝は武王を使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東大将軍・倭国王に任命した。
これで『宋書』倭国伝はすべてです。
長~い役職名を書き写していると、百済の名前が出てきたり消えたりしています。
最後の方では武王が順帝に7国を望みますが、6国に減らされています。
百済は宋国に強力に政治活動をしたのでしょうか。
なんだか、気になりますね。

倭国の五王たちは遠い宋国にまで常に朝貢していたというのです。
そして朝鮮半島全体の大将軍に任命されていたというのですから、驚きです。
船で通っていたのですね。
途中、百済を通って、高句麗を通らねばならないのに、妨害されていた。
倭国は何としても高句麗をやっつけたかった。
そっか~。


画像出典 Wikipedia より

さて、これで予習が出来ました。
Hurutakaimasakiさんのコメントを読んでみましょう。

――『宋書』「倭国伝」によれば、元嘉28年(451)に「済」が文帝から「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東将軍」に、昇明2年(478)に 「武」が順帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」任ぜられています。

武は昇明元年、これに「百済」を加え自称しますが、結局宋は百済を除外しています。これは倭国が百済の一部を支配したが、全体として百済は主権を保っている状況を示すものと考えます(前方後円墳の百済南西部集中はその表れです)。


――なるほどですね。百済の王の任命権を日本は握っていたけど、百済は主権を持っている。
その微妙な立場が宋国の与える称号からも伺えるわけです。

――その遺跡・遺物が九州と一致・類似するのは、半島南部を支配していた倭国とは九州を指す事になります。
更に、5世紀は倭の五王の時代で、「倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の称号の示す様に、半島南部の支配者だったのですから、彼らも又九州の王、倭国は九州となりますね。

残念なのは、朴氏が埋葬された倭人を「百済王権に仕えた倭系百済官僚」で「百済王権に臣属」していたと「百済中心主義」で解釈している事です。
それなら、割譲後も倭人が残り墳墓も作って然るべきなのに消滅している。これは百済でなく倭国の支配を示すものです。
韓国の古墳と『書紀』は一致して「5世紀の九州なる倭国の半島支配と6世紀初頭の撤退」を証明しています。


――そうですね。前方後円墳の出土品が九州のもので、九州の倭国が韓半島を支配していた。考古学と文献学が一致するんですね。

さあ、せっかく『宋書』倭国伝を訳したので、
これは『古事記の神々』の方に、ストックしておきましょう。久々のUPだなあ。

(つづく)






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# by lunabura | 2012-05-19 23:44 | 百済の前方後円墳 | Trackback | Comments(0)

百済の前方後円墳(3)そこは倭国の支配下だったー四県割譲事件


百済の前方後円墳(3)
そこは倭国の支配下だったー四県割譲事件

話は双方から聞いてみるもんだ。
この百済の地に出現した前方後円墳について(1)と(2)では
朴天秀氏の論文を参考にして、被葬者が北部九州の倭人である事が分かりましたが、
その身分について問題が出て来たので、
今回は予定を変更して、hurutakaimasakiさんの話を紹介します。

朴天秀氏は「百済における前方後円墳の被葬者」は
「倭人で、百済王権に臣属しながら倭王権と百済王間の外交で活躍した人物」
と書いていますが、「臣属」という表現についてhurutakaimasakiさんから
「栄山江流域の支配は百済でなく、倭国である」という指摘をコメントでいただきました。

Hurutakaimasakiさんはこの時代について大変詳しく研究されています。
「倭の五王」「磐井の君と継体天皇」という興味深い時代なので
今回はそのコメントを道しるべに、この時代を逍遥しましょう。


Hurutakaimasakiさんのコメント(青い字)を少しずつ読みながら、
例の調子で、るなの感想などをつらつらと。

「韓国栄山江流域は、哆唎・牟婁と言われた地域で、
『書紀』では継体6年(513)に倭国から百済に割譲されています。
つまり割譲以前は倭国の支配地で、倭人が支配層として駐留して当然。
割譲後は百済人が支配し、倭人は姿を消す、朴氏の言う遺跡状況と一致します。
その遺跡・遺物が九州と一致・類似するのは、半島南部を支配していた倭国とは九州を指す事になります。」




―むむ。現在テーマにしている、百済の前方後円墳の集中するエリアはもともと倭国で、百済に割譲されたのですか。

コメントにある哆唎(たり)と牟婁(むろ)という地名については左のような場所が推定されています。














それについて日本書紀に書いてあるので、さっそく訳してみましょう。
継体6年の夏、4月6日に穂積臣押山(ほづみのおみおしやま)を百済に派遣しました。その時、筑紫国の馬40頭を贈りました。

冬12月に百済は日本に使いを送って朝貢してきました。別に上表文を書いて、任那国の上哆唎(おこしたり)・下哆唎(あろしたり)・娑陀(さだ)・牟婁(むろ)の四県(こおり)を譲渡するように請願しました。

哆唎国守(みこともち)の穂積臣押山が
「この四県は百済に近く、日本からは遠く隔てています。哆唎と百済は近くて朝夕通い易く、鶏や犬がどちらの国のものか分からないほどです。今、哆唎を百済に与えて合併させるのは手堅い政策で、最良のものでしょう。しかし、たとえ百済と合併させても(他国からの侵略に対して)まだ危ういといえますが、それでも百済と切り離して置いたなら、数年も守りきれないでしょう。」と奏上しました。

大伴の大連金村も詳しくこの事情を知っていて同じ内容を奏上しました。そこで物部の大連・麁鹿火(あらかひ)を勅命を伝える使者としました。

物部の大連・麁鹿火は難波の客館に出立して、百済の使者に勅命を伝えようとしましたが、その妻が強くいさめて、
「そもそも住吉大神が初めて海の向こうの金銀の国、高句麗、百済、新羅、任那などを、胎中天皇と言われる誉田天皇に授けられました。だから大后の息長足(おきながたらし)姫の尊(神功皇后)が大臣の武内宿禰と国ごとに官家(みやけ)を初めて置いて、海外の属国として長年経っているのです。そのように由緒あるものです。

もしそれを裂いて他の国に与えたなら本来の区域と違ってしまいます。永く世のそしりを受けて人々から非難されるでしょう。」
と言いました。

大連(おおむらじ)は
「そなたが言うのも道理だが、勅命があった以上は、反対すれば天皇の命令に逆らう事になる。」
と言いました。妻は強く諫めていいました。
「病気だと言ってあなたが伝えなければいいのです。」
大連は妻の言葉に従いました。そのため、改めて使者が選ばれて、勅文に下賜の物を付けて、百済の上表文に応じて任那の四県を与えました。

勾大兄(まがりのおおえ)皇子はこの件に関して全く知らず、あとで勅命があった事を知りました。驚いて悔いて変更する命令を下しました。
誉田天皇の御代から官家(みやけ)を置いていた国を軽々しく隣国が乞うがままにたやすく与えられようか。」と。
すぐに日鷹吉士(ひたかのきし)を遣わして改めて百済の客人に伝えました。

百済の使者は言いました。
「父の天皇が便宜を図られて既に勅命を与えられたのです。子である皇子がどうして父帝の勅命を変えて、みだりに改めて言われるのですか。きっとこれは虚言でしょう。もしそれが真実ならば大きな頭の杖を持って打つのと小さな頭の杖を持って打つのとどっちが痛いでしょうか。(もちろん天皇の勅命が重く、皇子の命令は軽い。)」
と言って帰国しました。

のちに「大伴の大連と哆唎国守の穂積臣押山は百済のワイロを貰ったのだ」という噂する者がいました。
やあ、思いがけず神功皇后が出て来ました。
ホムダワケ皇子を妊娠したまま韓半島に渡ったという事で、
皇子は母の腹の中にいる時に勝利したという意味で胎中天皇と呼ばれています。
それが誉田天皇であり、別名応神天皇です。
(やっぱり一人の天皇が二つも名前を持っているのは変だし、ややこしいゾ。)

あの神功皇后の新羅制圧の後はずっと韓半島は倭国の属国となっていたのですね。
ところが継体天皇の時代に、四県を百済が譲渡してほしいと言ってきて、
あっさりと承諾してしまいます。
こうして南韓半島の四県の支配権は日本から百済に移りました。

日本書紀からすると、確かに朴氏の表現は誤解を生みます。
「四県譲渡」について触れられる方が良いのではないかと思いました。

いや「四県譲渡事件」は常識なので、述べるほどの事もないとしたら、
るなの勉強不足でした。いやはや失礼しました。(汗)

「残念なのは、朴氏が埋葬された倭人を『百済王権に仕えた倭系百済官僚』で『百済王権に臣属』していたと
『百済中心主義』で解釈している事です。それなら、割譲後も倭人が残り墳墓も作って然るべきなのに消滅している。これは百済でなく倭国の支配を示すものです。」


―そう。これでやっと、このhurutakaimasakiさんのコメントの意味がよく分かりました。

(つづく)




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# by lunabura | 2012-05-16 21:45 | 百済の前方後円墳 | Trackback | Comments(0)
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