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魚鳥池神社・熊鰐があわてた皇后の船の座礁


魚鳥池神社
ぎょちょうがいけ
北九州市若松区払川
熊鰐があわてた皇后の船の座礁

日本書紀の神功紀でも印象深いのが、洞(くき)の海で皇后の船が立ち往生して、
熊鰐(くまわに)があわてて池を掘ったというお話です。
調べて行くと、なんとその現場が伝わっているではないですか!

そこで閃いてクミリンに案内を頼んだら、ばっちり彼女がよく知っている所でした!
ふふふ。彼女の案内なしには決してたどり着けやしなかった。誰もね。
だって、こんな所だもん。


見渡す限り、田んぼです!ここは海だったのですが、江戸時代に干拓されました。
かつての岬は丘になっています。ここで皇后の船が立ち往生したと伝えています。
鳥が飛んでいる下辺りの黄色い田んぼの先にちょっと茂みがある所に石碑があります。

田んぼの真ん中への道案内をいったいどうしたらいいのだ…。

まずは県道26号線で快適に車を走らせると、福岡からだったら、
払川(はらいかわ)の信号から左折して、札幌ラーメン「えぞっ子」の横の道を右折。
(周りには人家がないからラーメン屋さんはすぐ分かる)
次に出て来る一軒家の隣に改良の記念碑が出て来ます。
その横に魚鳥池(ぎょちょうがいけ)の説明板があります。


ここです。この石碑は関係なく、右にある小さな看板が説明板です。


ガードレールの切れ目から奥に進むと井戸の跡がありました。
説明板から。
(前略)後の人は、この池を魚鳥池と呼び、石を組んで井戸にしました。
かつてこの付近は汐(しお)の入口でしたが、貞享年間(1684~1688)に干拓され、新田となりました。この池からはどんな日照りでもかれることなくおいしい水が湧き出、人々は飲料水としました。そのためこの池は、皇后の遺徳の賜(たまもの)と敬われました。(後略)
この海を江戸時代に干拓したけれども、湧水地が残って井戸になったようです。
皇后の遺徳の賜と敬ったという事なので、ここで起こった出来事を
江戸時代までは忘れられずにいたようです。


さて、井戸から振り返って田んぼの向こうを見ると、遠くに石碑が見えます。
分かりますか?
目印として、すぐ隣に倉庫があります。この写真は入口になる道を撮ったものです。
これじゃあ分からない?
確かにね。でも幸いな事にこんな道は一本だけです。


石碑に近づきました。
さきほどの説明板から。
この魚鳥池には次のような伝説があります。
むかし、仲哀天皇が熊襲征伐のため神功皇后と長門より筑紫へ向かいました。皇后は別の船で洞海(くきのうみ・洞海湾)から入りましたが、この辺りで潮が引いて船が進む事ができませんでした。

水先案内の熊鰐(崗県主・おかのあがたぬしの祖)は、恐れおののき、すぐさま魚沼(うおいけ)・鳥池を造り、魚や鳥をことごとく集めました。皇后はここに魚鳥のたくさん遊ぶさまをみられ、怒りの心もようやく和らぎました。(日本書紀)
まさに、ここのお話なんですね。
この何もない所に、よくぞ伝承が伝わっていました。
熊鰐たちが浅瀬に入って穴を掘ったのを、当時の人は遠くから見ていて、はらはらしたでしょうね。

説明板のつづき。(前掲の井戸の文が間に入る)
(中略)
このことを長く世に伝えるために明治35年、この池の西側に「魚鳥池の碑」が建立されました。

碑の中に「この魚鳥池は皇后の御心を慰め奉りし霊池なり。御休憩の間、御輿を掛けられたという御輿掛松の左側に魚鳥池神社あり、神功皇后を祀り奉れり。」と記されています。
この「魚鳥池神社」は、ここから北西の小高い松林の中にあります。
  北九州市教育委員会
そうか。皇后は船から降りて輿で岬の所に移動したんだ。
これじゃあ、ますます熊鰐は冷や汗もの。


石碑から魚鳥池神社へと向かう道です。丘の右の方に鳥居があるのが見えますか?
この道をまっすぐ行くと三叉路になっています。
右に曲がってくねくねと丘を目指すと辿り着きました。道幅は車が一台通る程度です。


魚鳥池神社です。この右に御輿掛の松があったそうですが、確認していません。


石段を上るとけっこう広い境内です。両脇は斜面で、岬の地形です。
ご祭神は神功皇后 素盞鳴尊ほかです。


拝殿から魚鳥池の方を見ました。緑の田が青い海だったんですね。
正面の山の向こうでは仲哀天皇が待っています。
次の満潮を待っていたら日が暮れそう…。何せ1月です。
日暮れは早いし、寒い事この上ない。

熊鰐が池を掘って慰めたというのがどうも気になるのですが。
大人の女性が鳥や魚で長時間楽しめる?

本当は脱出路を掘ろうとして間に合わず、
あきらめて満ち潮を待ったのだろうなと考えているのですが、
今では潮が引いた時に船が傾かないように、掘ったのかもしれないとも考えています。

それというのも大善寺玉垂宮の伝承に、新羅で津波の潮が引いて敵の船がひっくり返り、
皇后の船もひっくり返りそうになったという伝承があるのを知ったからです。
確かに潮が引けば船は傾くんだ。
だから熊鰐は必死で掘った。う~ん。軍配はどっちかな。

それにしても、日本書紀に書かれた現場がこうしそのまま残っている事に
けっこう感動したんですよ。
この近くを走る時、「ここは海だっただろう」といつも話していたのですが、
神功皇后の伝承地とは思ってもいませんでした。

さて、近くの神社伝承を調べていると、皇后の足跡がもう一つありました。
貴船神社です。次回はそちらに行きましょう。

地図 魚鳥池神社







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# by lunabura | 2012-01-31 14:03 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(0)

若松恵比須神社・竹内宿禰は海の底に光る石を祀った


若松恵比須神社
北九州市若松区浜町
竹内宿禰は海の底に光る石を祀った 

洞海湾の入口に若松南海岸というレトロな港の風景が残る通りがあり、
そこから区役所の裏手に向かうと若松恵比須神社があります。

神社は境内の三方向から入ることが出来て、
車は右側から入って許可を受けて境内に止める事が出来ます。
ここへ向かう目印は赤い若戸大橋です。


「若戸」の名は「若松と畑」の文字を組み合わせたもので、
前回の戸畑から若松に行くにはこの橋を通らずにはいられず、
こうして境内に立つと、神社の境内を削って出来たのかなあ、
お世話になってるんだなあと思いました。


これは正面のようす。橋の下から撮っています。


これは左側にある一の鳥居です。


かつてはすぐ近くまで波が打ち寄せていたそうです。
埋め立てが進んでいますが、それでも海のそばに来た開放感があります。
砂利の色が蜜色で、海の砂のように丸いです。


恵比須神社の名の通り、拝殿には恵比須様の絵が。
本来の名前は事代主(ことしろぬし)です。

「若松」と言う地名は竹内宿禰がかつての美しい松林を愛でた事から付いた名だそうです。
あるいは手植えしたとも言われます。
そう、竹内宿禰は仲哀天皇一行と一緒に来ているのですね。

立札があったので、由緒を読みましょう。
由緒
当社は約1650年前の創建と伝えられ、往古、仲哀天皇・神功皇后が熊襲征伐のため、筑紫の国へ行幸啓された折、洞の海へと向かう皇后の船が進まず、武将・武内宿禰が漁夫に海中を調べさせたところ、「海底に光る石」が見つかり、「是は海童(えびす)神の心なり」という天皇の仰せによって、神祠に祀ったことに由来する。

武内宿禰はその後、再び当社近くの美しい海浜を訪れ、若々しい松が連なる姿を愛でたことから、この地を「若松」と呼ぶようになったと伝えられています。
この由緒をもし3年前に読んだとしたら、あまりよく分からなかったのだろうなと思います。
今では、御馴染みの三人組という感じで、な~るほどという印象です。

前回の飛幡八幡宮で、
戸畑の北の海にあった千曳(ちえい)の岩を仲哀天皇が祀った話が出て来ましたが、
そこで天皇と皇后は別の船に乗り換えて、広い洞海湾の入口を渡ったのでしょうか。
皇后の船が進まなくなって、船を寄せると、海の底に光る石を見つけて、
それを恵比寿神(事代主神)として祀りました。それが御神体となっているそうです。
他にも伝承がいくつかありますが、海の中の石を祀ったという骨子は同じです。

このような由来から御祭神は
事代主命(ゑびす様)、武内宿禰命
大山咋神、大物主神(だいこく様)
天照大神、豊受大神、素盞鳴大神
となっています。
恵比須神社に日吉神社が合祀されたそうです。


拝殿横には「若松」の名にちなんで松が植えられていました。


これは境内社「笠森稲荷神社」。
御祭神は宇賀魂神、イザナギ、イザナミ神、椎根津彦神、猿田彦神


もう一つの境内社「天満神社」
御祭神は菅原道真公、応神天皇、恵比寿幸魂
ここは交通の要衝だったのでしょう。
菅原道真公の伝承もちらほらと出て来ます。


厳しい環境の中で御神木は命をつないでいます。


珍しい方位石がありました。
境内の一角の波打ち際に置かれていたものを移設したそうです。
江戸時代末期のものと推定されています。

さてさて日本書紀によると、不思議にもここから天皇と皇后は別行動を取ります。
仲哀天皇は外海を通り、皇后は洞の海(くきのうみ)を通ります。
これについては、女性は波の穏やかな内海を通ったのではないかという説がありますが、
別の事情が見えて来ました。
さあ、次回からその航路を辿って行きましょう。
 

地図 若松恵比須神社









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# by lunabura | 2012-01-29 17:19 | (ヤ・ラ・ワ行)神社 | Trackback | Comments(2)

飛幡八幡宮・仲哀天皇は危険を察知して千曳の岩を祀った


飛幡八幡宮
とびはたはちまんぐう
北九州市戸畑区浅生
仲哀天皇は危険を察知して千曳の岩を祀った 

飛幡八幡宮は戸畑区の区役所や図書館、浅生球場に囲まれた丘陵地帯にありました。
区役所前の広い道から図書館に向かって坂を上り、
さらに上の駐車場を目指していくと、境内に出ました。


広々とした境内と空です。


菊の紋が目に入ります。
神社の由来が書かれていました。
飛幡八幡宮御由来
御祭神 右殿 須賀大神(須佐之男命)
     中殿 八幡大神(神功皇后・応神天皇・比売大神)
     左殿 名護屋大神(道祖大神)
後鳥羽天皇建久5年、遠賀郡花尾山城主・上野介重業(のち麻生と称す)は武を重んじ、敬神の志篤く城の鬼門に当たる枝光村宮田山に、八幡大神を崇敬、枝光―戸畑―中原の三村人の産土神として恭敬す。

天正年間、戸畑汐井崎より戸畑お坂(現鳥幡)に遷座せられ村人ことごとく崇敬の誠を尽くせり。

かくては戸畑は長足に進歩し、大正6年より現在の浅生を宮地と定め、御社殿の御造営に着手し、大正9年10月13日竣工並び同日御遷座を執行せられ現在に至る。
これによると、花尾山城鬼門を守るために八幡神を祀ったのが由来のようですね。
何カ所か遷座して現在地に至ったのでしょうか、これは地元の人でないと、よく分かりません。

さて、私がここに来たのは仲哀天皇の伝承があるからなんです。
神功皇后の名は各地に残っているけど、仲哀天皇の名は珍しい。
しかし由緒書きの祭神を見ても仲哀天皇の名前は出ていませんでした。


陽光あふれる境内が丘の上にあるのは分かったけど、
古代の地形を想像するよすがもなく、手掛かりなく帰らないといけないのだろうか、
と思った時、石碑に気づきました。


「霊厳」と彫られています。そして、説明板がありました!(訳します)
「千曳ノ岩」(ちえいのいわ)
日本書紀
名護屋大済(なごやのおおわたり)を西の門とし、(中略)皇后は別の船で洞の海(くきのうみ)より、ここに入る。」
ここには千曳の岩というものがあった。(仲哀天皇は)海路の妨げとなって危険だという事を配慮して、その岩を(岐)の明神として崇められて、海路の安全を祈られた。
名護屋の当社の縁起の写しに書いてある。また里の古老も言い伝えていた。

江戸寛文年間(霊元天皇1660年頃)、「お坂」に御遷座した時、名護屋社殿の下からこの岩が出てきた。
昔神霊の岩として、発見された御代にちなみ、「霊厳」と刻字されていた。
太古から幾多の年暦を積んだ野座の御神体として今に伝えられる慶事である。

泰山木 咲かせ千曳の 岩祀る  涼二
北九州文化連盟 戸畑郷土史会
 (日本書紀・仲哀天皇紀・筑前風土記・福岡県地理全誌・筑前名所書・古老伝記)
おお。これこれ。私が探していたのはこれです。
名護屋とは熊鰐が自分の領地を説明するシーンに出て来るんですね。


これは「ゆふま」という郷土雑誌に載っていた竹中岩夫氏の絵図に色を付けたものです。
右端に名護屋があります。
その南に戸畑がありますね。この神社はその付近のようです。
(この神功皇后のルートが少し違っていた事を、のちに紹介します。)

この千曳の岩は海の中に暗礁としてあったのでしょうか、
それを見て仲哀天皇は祀る事でかえって海路の安全の神に変えたようです。
説明板には明神と書かれていますが、「岐」が省略されています。
「岐」とはイザナギ神かなと思ったのですが、如何でしょうか。
(翌日、洞(くき)の海のクキかも…とも思ったのですが。)

この伝説の岩が名護屋の社殿の下から出てきたという事ですが、
そこの神社は今はどうなっているのでしょうか。
やっぱり埋め立てられてしまっているのかな?
地元の方、御存知でしたら教えて下さいね。

地図 飛幡八幡宮 






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# by lunabura | 2012-01-27 22:48 | (タ行)神社 | Trackback | Comments(0)

勝山勝田神社・大倉彦の領地で竹竿を切り出した


勝山勝田神社
かつやまかつた
北九州市八幡東区勝山
大倉彦の領地で竹竿を切り出した 

勝山勝田神社は大蔵という所の大蔵小学校の裏にありました。
地形を見ると、大蔵川から神社に向かう参道の上に小学校が建っています。
ですから、この神社に行くには小学校の壁に沿ってぐるりと廻って行きました。
小学校と神社の間の道は車が一台分通るだけで、車は止められません。


鳥居の向こうにはうっそうとした杜が!


石段をちょっと上れば境内で、社殿は横向きに建っていました。


境内に入った途端、深山の中に入り込んだ趣です。
境内はさほど広くなく、振り返れば小学校の屋上が見えます。
その向こうは川ですから、一気に高度を上げた所に神社があるのが分かります。
ここには神功皇后の伝承が残っています。
向こうに山が見えますが、向こうにも神功皇后の伝承を伝える乳山神社があります。

ここは「大蔵谷」です。
そこに「勝山勝田」という名前が神社に付いた由来が書かれていました。
神社名 勝山勝田神社
御祭神 大山津見神・武御雷神(たけみかづち)・賦都主神(ふつぬし)
相殿 大倉主神社 大倉彦神 大久羅姫神
相殿 貴船神社 宇気持神・高龗神・闇龗神
相殿 疫神社 大禍津日神
相殿 大日神社 大日靈神 
相殿 恵比須神社 事代主神・伊古那姫神
  (神功皇后・武内大臣)

御由緒およそ1700年昔、神功皇后朝鮮出兵の折、洞海湾にて船団をつくり、「大蔵」の地名の由来と云われる大倉彦神の治めていたこの大蔵谷より、皇軍の御旗竿として竹を伐り出した。

その「めでたい」縁で、帰朝後「勝山」と名づけ、神功皇后みづからお社をまつられたと言われている。

筑前藩主、黒田守政公はこの勝山の名をめでて、藩主の旗竿とされ、代々の殿様の信仰あつく、祭礼の折、特に芝居や踊りの興行が許され、大蔵谷にとどまらず広く信仰された。

宝暦年中、(西暦1751年)には江戸幕府より「神社帳」に書きだすように幕命をうけ、また安永7年(1779年)御社殿建立の折、布目のついた古瓦が出たことが記録に残されています。その勝山のいわれによって勝運、武勇、海運の神様として信仰されています。
年中祭事
1月1日 歳旦祭、1月15日 どんど焼祭、2月3日 節分祭、10月12日 秋祭、12月31日除夜祭     (一部改変しました)
下関の豊浦宮(忌宮神社)に皇居があった時代、
仲哀天皇は船を造らせていて、各地に材木を調達した伝承があることを
前回、大元稲荷神社の所で書きましたが、
ここには皇軍の旗竿を切り出した所だという伝承がありました。

ざっと見た所では、多種多様の樹木が茂る山で、竹には気づきませんでしたが、
なるほど、考えてみると、竹というものは当時どれだけ有用な植物だったのか、
気づかされます。

これまででも、矢埜竹神社(朝倉市)では矢竹にふさわしい品種があって、
皇軍が必死で矢を作った話が残っていました。
風浪宮(ふうろうぐう・大川市)には神殿の裏に多種の竹が植わっている一角があって、笛に使えそうな品種を見かけました。
竹内宿禰の一族は特殊な竹を現在に至るまで伝えていると聞いています。

神功皇后の皇子である応神天皇八幡信仰の中心的存在になっていくのですが、
そのシンボルである「幡」。それも竹がないとサマにならないのですね。

「幡」は、織幡神社(宗像市)の近くの波津で織らせています。
そこで初めて紅白の幡というものが生まれたのですが、
その幡を取り付ける竹はこんな所から切り出されました。

造船の準備と一言で言えるけど、福岡の北部全体を巻き込んだ大掛かりなもので、
植生を知り尽くしていないと出来ないことでもありました。

神功皇后は新羅攻撃の凱旋後、撃鼓神社(げっこ・飯塚市)に白幡を八本奉納しています。
凱旋後の彼女の祭祀アイテムの中に「幡」が入って来ます。
「八本の幡」が勝利のシンボルとして大きな位置を占めるようになったのでしょう。

どうやら私たちは八幡信仰の始まりを目撃しているようです。
八幡信仰が広まるに連れて、神社の上に八幡(はちまん)の名が付けられて行きます。
北九州市に八幡区という名称が出来たのは八幡神社が沢山あったからだと
意外に単純な理由を神社で伺いました。

ここの祭神は剣神が中心です。
相殿に大倉彦の名があり、地名にもなっている事から、彼もまたこの土地の有力者で、
物部氏の一族だっただろうと思われます。

この由緒を見て嬉しかったのは、現地でないと分からない伝承が書いてあった事です。
1.洞海湾で船団が結成された事。
2・神功皇后がみずからここで祭祀をした事。
3.大倉彦神が当時ここを治めていた事。
です。
今回はこれらについて考えます。

1.洞海湾で船団が結成された事。
これについては、複数箇所に伝承があったのですが、
特に中宿八幡宮(八幡東区)では、熊鰐の末裔の宮司さんから直接、
熊鰐の館があり、船の修理をし、船団を結成した話を伺いました。
この勝山勝田神社にもその船団の話がさらりと書いてあって、
読んだ当時はその言葉に気づかなかったなあと思い返しています。

2・神功皇后がみずからここで祭祀をした事。
これは最初読んだ時は疑いました。ここに来るチャンスがあったのだろうかと。
その後、北九州での神功皇后の伝承を整理して行くうちに、
たっぶりと時間があったのが分かりました。

北九州の伝承は三つの時期に分けることができます。
  (ア)豊浦宮の時代 下関からやって来て神武天皇の祭祀跡に祭祀に来たり
               木材調達をしたりしています。

  (イ) 香椎宮への遷都の通り道 下関から香椎宮へ遷都する途中に通って、祭祀をしたりしています。
               洞海湾での立ち往生は日本書紀にも書かれていて有名です。
               この時には仲哀天皇と一緒です。

  (ウ)香椎宮から豊浦宮への帰還 日本書紀には省略されていたのですが、
               八幡(やはた)で軍船の修理をしていて、その間に各地にお礼参りや、
               新たな戦いへの祈りを各地でしています。
               この時には乳飲み子の皇子を連れています。

この三つが北九州には混在しているので、伝承は多いのに、
整合性がなくて不自然だと思うのは仕方ないなと思いました。

それでは皇后はこの宮にいつ来たのでしょうか。
神社の名前のとおり、勝った後に、お礼参りに来たと思われます。
それというのも、川の対岸の山の乳山八幡宮では、
神功皇后が皇子に乳を飲ませたという伝承もあるからです。

船の修理をしている間、皇后は各地にお礼参りをし、
香坂王(かごさか)の反乱を聞いて、新たな戦いの準備をしています。

3.大倉彦神が当時ここを治めていた事。
大倉彦と言えばすぐに高倉神社高倉の神を思い出します。同じ「倉」が付きます。
高倉神社は嶋戸物部氏でした。
ここもその子供たちなどの一族が治めていたのかもしれないと思いましたが、まだ仮説の状態です。


さて、この神社には相殿が多いのですが、その中に貴船神社があります。
境内には山からの湧水を祀るところがありました。
祭神の大倉彦と大久羅姫はここで水神を祀っていたのではないかと思いました。


そして、たまたま旗竿にふさわしい竹があったのでしょう。
大倉彦は竹を伐り出して皇軍に奉仕し、
神功皇后はその恩に、わざわざ足を運んでお祀りした事から、
神社の名称が「勝山勝田」という凱旋の名前に変わったのだと思いました。


境内の古木です。


住宅が密集する北九州ですが、神社の緑は驚くほど深いです。


参道からは印象深い山が。帆柱の木を切ったという帆柱山でしょうか。
帆柱山と皿倉山はどちらがどれか、よく分かりません。
地元の方教えてくださいね。

地図 勝山勝田神社






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# by lunabura | 2012-01-26 13:53 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(0)
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神社と伝承を訪ねてぶらぶら歩き。星の伝承があった。蘇る古代の日本。    綾杉るな    Since2009.10.25


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