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高良大社・玉垂宮(3) 70年に一度の大津波を伝える豊姫


高良大社 高良玉垂宮(Ⅲ)
(こうらたいしゃ  こうらたまたれぐう)

70年に一度の大津波を伝える豊姫

シリウス(夜渡星)が津波を教えてくれた

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本殿から筑後平野が見渡せました。向こうの山は背振山。
その手前の市街地がかつて海が入り込んでいた所。

さて、神楽「磯良舞」に突如として出て来た豊姫について
ここ高良大社で思いがけない伝承を見つけました。

志式神社の時には神功皇后の妹という説をそのまま書きましたが、
実は「? ほんとかな。」が頭から離れませんでした。

そして、高良大社の伝承を調べているうちに
豊姫は玉垂の神の配偶神だという伝承が出て来ました。

まず、その伝承を紹介します。
これは高良山について研究された古賀寿氏の小冊子からの抜粋です。
山本家の家伝によると、
高良の神は朝鮮半島から凱旋ののち、
本山の地を開かれて「蓮の池」という所にお住まいになっていた。

この辺りに「城内」「屋久良志多」「門口」「馬場」という地名が残るのは、
すべて高良の神の御住居に因むものである。

やがて高良の神は本山の松苗を高良山に植え立てて山中にお移りになったが、
高良山の座主院を「蓮台院」と呼ぶのも、「蓮の池」から来ている。

山本家は高良の神孫で、この故事に因み、毎年正月初子の日に本山の松苗三本を
高良山に植え付けるのを例とした、といっています。

『筑後将士軍談』もこの話を採録していますが、いずれにしても、
地元では「本山」は高良山の本山だと主張していた訳です。

ここに、高良の神の配偶神である豊比咩(とよひめ)の神が鎮座することも、
高良山との深いかかわりを物語るものと思われます。(略)

かつて豊比咩神社がその南の付け根近くに鎮座していたことからすると、
高良の神は上津(かみつ)土塁を通って、
本山に妻問いに通われたという伝説があったのでしょう。

高良山文化研究所『高良山雑考』―「本山」と高良山―(古賀 寿著)
(高良山研究叢書 第一集)昭和61年1月30日発行


土地勘がないと、分かりにくいのですが、この文で注目したいキーワードは
1、高良の神は朝鮮半島へ出征して凱旋して帰って来た。
2、豊姫は高良の神の配偶神である。

という点です。

「1」の朝鮮半島へ出征した高良の神は神功皇后と関わりがあった事を示唆しています。

しかし、今日は「2」の豊姫の話にテーマを絞りたいと思います。
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豊姫                                   海神
(海神に舞を見せて、干珠満珠を貰う)                  (豊姫に干珠満珠を授けた神) 

(宇美神楽座・志式神社にて)


この豊姫については、大変興味深い話があります。やはり真鍋大覚氏の本の中です。
例の如く難解な文章なので今日はまとめだけを書きます。

豊姫淀姫はとトヨがヨドにひっくりかえっただけで、
同じ海の女神である。

(実際、豊比咩神社を調べると、神社の由緒書きでさえも、トヨだったりヨドだったりしています。)
筑後平野一帯に祀られている神である。

このトヨ(ヨド)とは「七十」の古い読み方で、「高波」という意味がある。
夜渡七十(よどしちじゅう)」という現象があった。

70年に一度、大津波が有明海の中を縦横に走った。
その事から、有明海周辺では,70すなわちトヨ、ヨトの海の女神を祀っている。


あの遠浅の海が70年に一度かき回されて、海の水が入れ替わっていたという事になります。
大変な災害です。

ですから、この70年に一度の現象を後世に伝えて、被害のないようにお祀りするために
有明海一帯に豊姫や淀姫を祀っていたのです。

たしかに、70年おきでは、世代交代をしてしまって、直接教えてくれる人がいなくなります。
豊姫さまの話にして、津波を後世に伝えた訳です。 

地図  有明海  豊比咩神社 与止日女神社
  


海は現在の平野部にかなり入り込んでいたので、津波は広い範囲で起こったと思われます。

古代の人はこの津波を何とか予知しようとしました。それがもう一つの豊姫の姿です。

シリウスは夜渡星とも呼ばれていた。


夜渡星(よどのほし) (シリウス)
有明海にはシリウスに「とよみぼし」あるいは「よとみほし」の別名があり、
延喜式神名帳の頃には豊姫あるいは淀姫が筑後三原と肥前佐賀に祀られておりました。

潮の空間(からま)すなわち海面が静止した時に
シリウスが水平線から離れる瞬間に
上下互いに溶け合ったように連なる時は
必ず地震津波が現れると語られておりました。

仲哀帝9年(200年)の時もまた然りと伝えられます。
昔の人は外界の波に動じない海淵を沼津あるいは志登と呼び、
星影の揺らめきを見て海の異変を察しておりました。

やがてこれが倭語(やまとことば)の鯰、即ち漢名(中国語)の鮎魚(せんぎょ)と結びつき、
地震鯰の説が通りだしたのかもしれません。)

シリウスは冬の夜空で最初に目に飛び込んでくる大きな星です。見ていると、常に光がまたたいています。

有明海の周りでは津波を予知するために、シリウスが常に観測されていたのがこれで分かります。
 
「いそら」とは人魚の古名であり、やがて海水に浴して潮見する巫女の代名詞にうつりました。女人の敏感な素肌や黒髪を以って、水温水質さては浮かせた身の波間に踊るを以て大風大浪を案ずる日課が「いそら」の務めでありました。 

夜渡星(よどのほし)とは暁の闇の中を一人起きて白衣一つを身にまとい渚に浸る姿をよく描写した名であります。

『儺の国の星』(真鍋大覚)(一部変更

厳しいシャーマンの日常
ここで私たちは初めて古代の巫女がどんな事をしていたのかを知る事が出来ます。
毎日夜明け前に起きて、白衣一枚で海の中に入り、
水温水質を肌で感じ取り、身体を浮かせてその動揺を観測して、
台風や地震を予知しなくてはならなかったのです。

巫女はきっと生涯を海神に捧げた事でしょう。人々はそんな巫女を海神の妻と呼びました。
それが豊姫であり、淀姫だと言う訳です。

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巫女は真っ暗な海に入って行く

真鍋大覚氏は地震雲を世に伝えた人ですが、真鍋家では代々、暦を編纂していました。
暦を作るためには、太陽、月、星を観測し、歳差運動を知らないと作れません。

暦の編纂者は地震や台風、日食などの予知もしていました。
真鍋氏は、昭和になって那珂川町の依頼でそれを本にして世に出しました。
儺の国の星』『儺の国の星 拾遺』です。

絶版です。
この本を読むと、古代日本史の謎がかなり究明されます。
私たち日本人への贈りもの、2000年の知恵を多くの方に研究してもらいたいと願っています。

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by lunabura | 2010-01-03 00:01 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(25)
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Commented by jumgon at 2010-12-29 11:54
九州では津波、大和では洪水、どこも古代は天変地異に襲われる厳しい時代だったのですね。
古代九州の情報有難うございます。
シャーマンの日常、これを読んだとき、思いだしました!中国の隋への使いがいった言葉。「倭王は日の出前に政務をとり、日が出るとやめて弟にまかせる。」まさにシャーマンが倭王と言う感じではありませんか!
Commented by lunabura at 2010-12-29 13:52
なるほど、倭王が日子(ヒコ・彦)として、太陽祭祀をしたのがよく分かりますね。物部氏が、暦を作って、ヒコを全面的に支え、自分たちはその座を奪う事がない理由は、やはり祭祀が出来る人は特別の氏族だったんではないかと思っているんですが、その一端が遣隋使の言葉でも伺えますね。
Commented by くろさん at 2015-05-14 00:15 x
なるほど、もしかすると筑後一円で夏のお祭りを「よど」といいます。ぼんぼりをかざしてあちこちの神社でありますが、それがルーツだったんですね!
Commented by う~ん at 2015-05-14 15:53 x
こんにちは、書籍を購入して印税に貢献しているものです。
大変面白く読んでいますが、真鍋氏の「結論」前提で、それに合致する様に資料を読み解かれたり類推される事がかなり多く見受けられ(ある意味マルクス史観的)、疑問に思う事が多々あります。

70年に一度の天変地異が少なくともこの1500年あまり一度も発生していないのは何故でしょうか?
それと、よど:夜渡(およど)についてですが、夜を通しての祭りを本来指しており、いわゆる男女の縁結びの場でもあった「掛けあい」に関連しています。

なお、水城に関しては、実際の構造と発掘結果から、博多湾側に堀を設けて土塁の上から弓矢で攻撃する、ある意味元寇防塁のオリジナル版と解明されています。
四王寺山は文字通り天智朝に設置された「四王寺(山の麓にあった)」由来です。
Commented by lunabura at 2015-05-14 22:19
くろさん、こんばんは。
夜渡の祭を私は知らなかったのですが、ヨドの名のつく神社だけに関してプロットしてみると、古有明海の水際だったり、二つの川の合流点という結果を得ています。
28年の洪水の被害地の範囲と重なるのも興味深いです。
Commented by lunabura at 2015-05-14 22:32
う~んさん、はじめまして。
本を読んで下さってありがとうございます。
真鍋に関しては、私の知識の無さに、今、一行ずつ解読している最中です。
七十年に一度の天変地異に関しても、資料は出ているのですが、私の読書が間に合っていないのと、ブログに書いていないという点もあります。というか、ブログに書いているのは1パーセントにもなっていません。膨大すぎて手に余るのです。
また真鍋だけの研究ブログという訳でもありませんので。

真鍋に関しては御自分で読んで検証して批判をしてただければ幸いです。

水城に関しては発掘結果を見ると確かに堀の幅が弓の射程距離より長いと結論づけられていますが、堀の左右の長さが狭いので、敵は左右の岸から簡単に上陸できます。そこに堅固な城壁があればいいのでしょうが、なだらかですね。
水城を防御施設とするなら正面から矢を射て、敵を左右に二分にして上陸させる戦法なのでしょうが、味方の軍勢も二分して防御しなければならず、そんな間が抜けた戦法を倭国が採るとは考えられません。
いかがでしょうか。
Commented by ありがとうございます at 2015-05-15 15:38 x
水城は、百済救援(という名目で先祖の地である任那=伽耶の復活を図った)天智朝が唐新羅軍に敗れた(663)翌年に築かれました。このタイミングが重要です。
白村江の敗戦で日本軍は、船の損害に比例して考えると動員兵の40%近くを失っています。大規模な防衛線を引く事は当分出来ない状態で、とにかくまずは大宰府を守る準備を早く~と言う意図で障壁を構築するとしたらこの場所しかなかったでしょう。なぜなら博多湾全体をカバーする防壁を作るのは無理(鎌倉幕府の動員力と時間が必要)。もちろんこれで完璧と思うはずはなく天智帝は大野城基肄城更に瀬戸内海航路に沿って大和まで山城を作りまくります。都も大津に避難させました。

水城が築かれた土地は現在でこそ開発されてしまっていますが、かっては左右の山がもっと迫っていました。大城山側はそのまま斜面に接続。南西側も例えば今の5号線あたり、ここ10年でも山が削られて平地となりました(アシュランとかリサイクルプラザのあたり)リョーユーパンからJRに至る部分も戦前は尾根になっており、そこに「小水城」と呼ばれる補助の防塁で結ばれていました。当然ながら兵を配置するので地形も含めて簡単には突破できません。
つまり水城は左右を山に挟まれた狭隘地に作られた防衛ラインで、大軍(唐を想定)の動きを抑える事が出来ます。4メートルの深さの堀では兵は動けません。船を用いても、渡っている最中に射程に入り弓矢の攻撃を浴びます。幅60メートルと言うのがミソで博多湾側の敵からの弓は防塁上には届かないのです。
防衛線と言うものは攻撃軍を倒すのではなく、攻撃を防いで援軍を待ちつつ敵の食糧や武器を消耗させるのが目的です。

小学生の頃に郷土史の見学で現地を見たので覚えていますが、昭和30年代後半からの開発で周囲の山や丘はなだらかになり、水城自身も左右を削られてぶつ切りにされてしまったので、現在の水城をみると「なんでこんなもので守れると思ったの?」になるのは致し方ないと思っています。

と言う事で私が言いたかったのは
せっかく色々調べられて現地にも行かれて調査されているのに、真鍋先生の結論に沿う形で「発見」されているのがとっても残念に感じたからです。
当時の人たちがどの様な事情で考えて行動したのかを考えながら史跡をみると、もっと面白いと思います。
Commented by tatsu at 2015-05-16 09:04 x
自然災害が定期的にあるというのは難解な話ですが、知識人の真鍋大覚氏があえてそう記しているのはなぜかということに関心が向きます。70という数字には天文学や祭事などとのつながりもありますね。1500年の間70年サイクルの天変地異は一度もなかったというコメントもありましたが、これはどうしてわかるのだろう…。大昔の話は諸説入り乱れて私のような歴史音痴には判断つきかねますが真実は知りたいと思います。
Commented by to tatsuさん at 2015-05-16 21:16 x
1500年位前からの事は地質的にはつい昨日の物事です。特に定期的に発生する現象であれば地上にその痕跡が明確に残りますし、日本書紀以降の記録にも残されています。
天変地異が発生すると、奈良~平安期であれば、その現象を鎮める為に社を建てて官位を進めた記録が残ります。(火山が噴火する度に高い位を授けられていますね。)
有明海については、残念ながらそういう記録は無く(江戸時代以降に限定しても約500年。70年周期説だと7回分。久留米藩佐賀藩には何の記録もありません)、有明海で過去1500年に発生した最大の異常は寛政年間の島原眉山崩壊に伴う大津波です。諫早湾干拓もそうですが。
Commented by lunabura at 2015-05-16 22:25
ありがとうさん、こんばんは。
地元の形状に詳しいんですね♪
『日本書紀』の663年の解釈に関しては、記事にしていますが、一年で造ったのではなく、この年に完成したのだと考えています。このため佐賀大学の先生の講座を聞きましたが、やはり一年では無理です。
水城の敷粗朶の年代には3世紀のものも出ているのが裏付けになります。
小田元教授も、アジア情勢から考えると、唐の侵攻は考えられず、カクムソウたちも交渉の為に来たと、通説を否定されました。
私は考古学と土木関係と『日本書紀』の解釈から水城は軍事目的のためのものではないと判断しています。
また、真鍋は大宰府の天官の口碑を伝えているので、水城の下に渡されている大きな樋の蓋となる板を外す日など、運用の仕方まで具体的に伝えています。
当事者の口碑を信じる立場にいます。
Commented by lunabura at 2015-05-16 22:35
tatsuさん、こんばんは^^
古代の人々の暮らしを想像すると、洪水を恐れて少し高台に住んでいると観察しています。弥生時代の人たちは特によい所を選び、近年はそこに団地や工業団地を造る傾向にあります。
七十年に一度というのは、雲仙の崩壊や東北大震災のようなイメージではなく、古代人がなぜ高台に住んだかという理由を問う程度のものと解釈しています。
3・11の時も、知らぬ間に水が満ちて来るというのが津波の現象の一つにありました。あるいは引き波が起こっても、まだ寄せ波が来るとは気付かないことも。
有明海では津波が町の南と北と両方から押し寄せたケースもありましたね。
気象台の無い時代、何故水が増しているのかという判断は個人でしなくてはなりません。
そしてそれを子孫に伝えたいというのが夜渡の始まりでしょう。
その七十年に一度が本当かどうか、まずは書いた人の本を読んでから判断した方がよいかと思っています。
Commented by tatsu at 2015-05-16 23:06 x
(to comment No.9)
なるほど。ということは有明海沿岸での様々なボーリング調査成果でも地層に災害の痕跡は見られないということですね。お手数おかけしました。ありがとうございます。
Commented by lunabura at 2015-05-16 23:51
それに関しては私には知識がないので分かりません。
ただ、真鍋は針摺の瀬戸を証明するために個人でボーリング調査をしています。少々の金額ではなかったと聞きます。
予算がつけば、ボーリング調査をすれば専門家なら判断できるのではないでしょうか。
炭坑を掘るために調査をしているでしょうから、その資料を見て判断出来る方もいるのでは?
Commented by tatsu at 2015-05-17 07:44 x
紛らわしい投稿をしてしまいました。申し訳ありませんm(__)m 
地質調査のデータは文献以上に信頼できますね。民間の建築などでのデータもまとめて保管するところがあればよいのにと思います。
真鍋氏の言う「70年」は何か象徴的な意味合いを持つものだろうと私も推測するのですが、その何かを探りたい、でも本を読まないと先へ進めません。町は復刻版を出してもよいと思うのですが。
Commented by まーりん at 2015-05-18 01:05 x
tatsuさん、わたしも真鍋のいうことを知りたくて著書を探したところ、現在、那珂川町図書館で借りることが可能です。ご参考までに。

本をコピーする時間はありませんでしたが、一読するだけでも価値はあると感じました。
Commented by tatsu at 2015-05-18 06:18 x
まーりんさん、教えていただきありがとうございます。
本がなければコピーはどうしても手に入れておきたいので、近いうちに行きます。真鍋氏が取り上げていないか気になる場所、事柄もありますので、『真鍋大覚を感じるツアー』をします。

ところで、昨日の菊池地名研で、後ろから「真鍋さん、真鍋さん」と呼ぶので誰のことかと思いましたら、私の名を間違えてのことでした。よりによってなんで真鍋さんでしょう。
でも「真鍋大覚」と呼ばれたい(*^^*)
Commented by lunabura at 2015-05-18 20:11
tatsuさん、まーりんさん、こんばんは。
那珂川町には直接復刻版の依頼をしに行って、ミリカローデンの館長からお電話をいただいたりしたのですが、それからもう何年も経ってしまいました。
昨年、本の問い合わせが当方にあったので、那珂川町でコピーサービスがいただけないか直接問い合わせてくださいと返事をしたところ、何とまだ現物が残っていたということで購入されました。
福岡県内なら近所の図書館に依頼すれば借りることができます。私の場合九州大学所蔵のものでした。今は広域サービスが盛んなので、一度近くの図書館に尋ねてみてください。また、それぞれが那珂川町に問い合わせることで、何か動きが出るかもしれません。
Commented by まーりん at 2015-05-19 00:42 x
るなさん、tatsuさん、こんばんは。
るなさん詳しい情報をありがとうございます。tatsuさん、これはぜひ那珂川町に問合せしなくては!ですね。

真鍋の話はあちこちに飛ぶので、順に読んでいっても「は?」という感じで、わたしの場合はなかなか頭の中に残りません(~_~;) 電子データになって検索がかけられるといいのに。ぜいたくですかね。
Commented by tatsu at 2015-05-19 12:35 x
るなさん、まーりんさん、こんにちは。
いろんな情報ありがとうございます。まーりんさんに先を越されないように今日朝一で那珂川町図書館に電話しました。県外在住でも図書館を通して借りられるとのことで、現地も巡りたいですが、先ずはその手続きをします。でも今日はこちらの図書館定休日(;_;)

るなさんのブログの真鍋大覚紹介も、関連記事付で既にかなりの量がありますね。原本を読みたくなるのは自然の流れ。ちょっとまじめに古代の星を勉強してみようと思います。読破が先か、こちらが先に星になるのか・・・
Commented by lunabura at 2015-05-19 20:39
まーりんさん、先程メールしました。読んでくださいね♪
Commented by lunabura at 2015-05-19 20:41
tatsuさん、朗報ですね。
やはり広域ネットワークが拡大しているんですね。
ステラナビゲータの結果を楽しみにしています^^
Commented by あかしのしそん at 2016-01-24 16:59 x
はじめまして、赤司城のことを探していたのをきっかけにこちらのブログにたどり着き(母方が赤司なんです)
楽しく読ませていただいてます。

玄界灘から有明海が海でつながっていたなんてビックリで、面白くて読むのがとまりません。笑
水城や針摺など知っている地名が出てくるのも楽しいです。

高良山のふもと育ちということもあってこのページを読んでいたのですが、
有明海の津波の話が出た所で大牟田の手鎌神社(綿積神社)の由来の案内看板を思い出しました。
その昔、津波で神社が現在地まで流されたとか…
こんなところにも津波がくるの、流されるの!?とビックリしたのを覚えています。

詳しくは忘れてしまっていたので検索しましたが、明暦3年に雲仙岳大爆発による大津波で現在地まで流された…らしいです。地元の方?が書いたサイトがありました。
トヨタマヒメとか夜渡とかいう単語も出てきます。

面白いですね、歴史って…。
さて、続きを読んでいこうと思います♪
Commented by lunabura at 2016-01-24 22:03
あかしのしそんさん、はじめまして。
土地勘があると、歴史って楽しいですよね。
雲仙大噴火の時、熊本迷惑と言いますが、福岡も津波が上がったんですね。
なるほど。
Commented by あかしのしそん at 2016-01-25 21:31 x
お返事ありがとうございます♪
熊本迷惑は他の方も書かれている寛政4年1792年の津波のことですよね?
手鎌神社のは明暦3年1657年で、それとは違う津波みたいなんです。

「島原大変 肥後迷惑」に関する資料を解読している方のブログには、明暦3年に普賢岳が噴火したとの記述はありました。

肥後迷惑では荒尾以南が被害にあったようで、大牟田は「幸いにして、四つ山が津波を防ぎ、一人の死傷もなし」だそうです。


そして、たまたまクリックして落としてしまった長崎県のPDF資料(長崎県における主な被害地震の表)によると、「明暦2.11.19」に長崎でも被害が出ているようなんです。
手鎌神社の明暦3年とは一年違いますが、噴火や地震が続いてたということでしょうか?


明暦から寛政まで135年…
÷2すると67.5年… 約70年?
では、真ん中の1724年あたりにも津波があったかも…?
と思ったら先ほどの長崎県PDFに、
1725年 肥前・長崎 M6.0 とありました!
ひえー!偶然!?
やっぱり70年ごとじゃないですか!
有明海で被害(津波)があったかは不明ですが…


昔の人(神?)ってやっぱり何か分かっていたのでしょうか?
すごいです…。

では寛政から70年後、幕末あたりにも津波(地震)があったりして…?


すみません、結局また長文になりました。。
Commented by lunabura at 2016-01-25 21:54
このように具体的に調べてくださるとありがたいです。
長文、歓迎です♪
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