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平原遺跡(2)出土した鏡は広げたパソコンより大きい!


平原遺跡(2)
ひらばるいせき
福岡県糸島市 曽根遺跡群

出土した鏡は広げたパソコンより大きい!
水色と青とピンクの宝玉を身につけた巫女


さて、遺跡の左の方に白い壁が建っています。
そこには出土した鏡の写真がタイルになって張り付けてあります。

c0222861_2271139.jpg

鏡の大きさを比べて見て!
大きい方はなんと直径が46、5センチ!
どのくらい巨大なのかと言えば、
そう、今あなたが見ているパソコンがノートパソコンだとすると、
蓋を全開してみると、縦が約50センチ。横が35センチ。
この鏡を乗せると、横幅はパソコンを軽くはみ出してしまいます。
すごいでしょ。
他にも普通サイズの鏡も出土していて、
それはCDとかDVDよりちょっと大きめのサイズです。

こうして比較すると、この鏡は半端な大きさでない事がわかります。
この大きいのが5枚。
小さいのが40枚ほど出て来ました。
大きさも多さも日本一なのです。
当然棺の中に入り切れません。
しかも人為的に壊されてから、添えられていたとか。
原田大六氏がその粉々になった何百もの破片をつないだら、
こんな巨大な鏡だったのです。

鏡はどうやって手に入れたのでしょうか。
小さな鏡の一部は中国からの直輸入品。それどころか発注していると原田氏は言います。
なんだかすごい話になって来ました。

大きな鏡の方は日本で作られたらしい。
復刻版が売られていますが、現代でも造るのはとても難しいそうです。

この巨大な鏡こそ、八咫鏡(やたのかがみ)だと原田氏は書いています。
こんなに大きな鏡を所有できる人は限られている。
原田氏はその人は大日靈貴(おおひるめのむち)(アマテラス)だと言います。
その説は日本の古代史を揺るがしました。
この後、卑弥呼や豊玉姫などたくさんの説が出て来ました。
固有名詞で断定するのは難しいので、
取り敢えず、ルナは「日の巫女(みこ)」と呼ぶことにしました。

ゴージャスな玉類

他に出土したのはネックレスの材料の
勾玉(まがたま)や管玉(くだたま)、丸玉などです。
素材はガラス琥珀(コハク)と瑪瑙(メノウ)の三種で、2000個以上。

原田氏が詳しく出土状況を書いてくれています。
それをまとめると、
彼女の頭の方にはピンクのメノウの管玉空色のガラスの管玉
無数の紺色のビーズがあったとか。
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こんな彩りかな?

頭の方から出て来たので、編み込みの髪飾り(冠)の可能性があります。

そして、彼女の腰の所にあったのが、空色のガラスの勾玉が三つと
1000個以上の琥珀のビーズ
当然ネックレスですが、ベルトの可能性もあるなと思いました。
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現物は伊都国歴史博物館で見られるようです。
(HPに写真があります。)

この彩りを見ていると、ナチュラルなパステルカラーで、
これまでの巫女のイメージが吹っ飛びました。
ヒスイの緑色が一つもないのが驚きでした。
勾玉でさえ、ヒスイではなく水色のガラスです。
この優しい配色の似合うひと。どんな人だったのでしょうね。

彼女は刀も一振り身に付けていました。鉄です。貴重品です。
その他に水銀朱。これも大変なしろものです。やはり最高位の人です。

いつ頃のお墓なの?

看板には弥生終末期と書いてありました。
原田大六氏は2世紀中葉と考えてあります。
廻りの古墳の出土品から200年頃かと、HPには書いてあります。
紀元150年前後~200年前の間のあたりに絞り込まれました。
神功皇后が香椎にいたのが200年です。
神功皇后はこの近辺にも来ています。
すると?
もしかしたら、お互いの存在を知っていたかも!

棺は木を縦に割ったものだって。

棺は木で出来ていました。それまでの甕棺でないんですねえ。
木棺の長さは3メートル。横幅が7~90センチという事ですから、
すごい大木です。
これをどうやって、割るんだろ。当時はすでに鉄がありましたが、縦割りはねえ。
そう思っていたら、原田大六さんが解説してくれていました。
素材は槇の木。冬の寒さを利用して割るそうです。
丸い切り口の直径にくさびをいくつも打ち込んで、水をかけて凍らすそうです。
すると、膨張して割れ目が広がります。
それを何度も繰り返して縦に割ったそうです。
当時の鉄と言えば武器だけではありません。
木を切る鉄の道具は歴史資料館でも、いくつも見ましたよ。

この「日の巫女」は当時、目新しいスタイルの木棺で埋葬されました。
木簡も生前から作らせていたのかもしれません。
確かに、甕棺って斜めに埋葬すると、
重みでずるずるとずり下がって足が曲がるんですよね。
木簡だと、真横になるから綺麗なままで埋葬されます。
案外こんな事で甕棺のブームは終わったのかもなんて想像してしまいました。

彼女はどんな衣を着ていたのでしょうか。

この時代を描いた「魏志倭人伝」には
倭人は麻、シルクの為の蚕、まわたを育てていると書いてあり、、
この平原遺跡から山越えをしたお隣さん「吉野ヶ里遺跡」からは、
シルクでしかも染色されたものが出ています。

「古事記」を口語訳していたら、大国主の命がすせり姫に贈った歌には、
「赤か黒か青か、何色の服を着ようか」なんて歌ってますから、
古代の大王クラスはカラフルだったと思うようになりました。
鏡を輸入するとともに、布もどんどん入って来たと思います。

こういうことで当然、この日の巫女にも綺麗な色の、
しかも、シルクの布が献上されたと思いました。

そう考えていたら歴史博物館のHPで衣が復元されていました。
柔らかなピンクに黒っぽい錦を組み合わせてありました。
うん。いい感じ。
「伊都国歴史博物館」「平原遺跡」を検索すると、
鏡やアクセサリーや衣がカラーで見られます。

この平原遺跡は彼女の墓の周りにも数基の古墳が確認されて、
諏訪大社にも通ずる御柱の痕なども発見されて、
まだまだ謎だらけです。

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by lunabura | 2010-11-24 22:29 | 平原遺跡と伊都国歴史博物館 | Trackback | Comments(2)
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Commented by jumgon at 2010-11-01 19:20
るなさんがコメントで「伊都国の国王たちも、水銀の入った小さな壺を胸に抱いて埋葬されていた」と書いてるのは、この木棺に埋葬されてた王のことでしょうか?
前に、このページを読んだのに、水銀のことは頭に残ってませんでした。水銀の入った壷って、材料はなにかわかりますか?又、液体状のものか、粉状のものか分かったら教えてください。
Commented by lunabura at 2010-11-01 20:12
そうそう、水銀の壺ですね。三雲・井原遺跡でも出て来ているのです。小さな壺の素材は分からないのですが、あちこちで出ているのは、土を焼いていますが。朱ですから、粉状だと思い込んでいました。発掘調査の本がある図書館に行って確認します。もしかしたら、近日中に、伊都国歴史資料館に行けるかも。そうしたら、よく見て来ます。
実はこの続きがあって、巨大な柱が出ていたり、中心線は原田氏の説は違っているのが確認されていたりと、いろいろと話があります。少しずつ深めていきたいと思っています。
水銀の壺は王者のしるしでしょうか。それが知りたくて、一時期、水銀を調べていました。
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