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綱分神社 御神体は神功皇后が作らせた青銅器


綱分八幡宮
つなわき
福岡県飯塚市 旧庄内町大字綱分字本村
神山を遥拝する丘の上の神社
御神体は神功皇后が金工に造らせた青銅器だった


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この神社は、前回書いた日若神社から直線距離で2キロほど。
歩いても一時間で往復できるような距離にあります。
地図を開くと、旧庄内町は山脈と川の間にある狭いエリアですが、
目立つのが沢山の神社です。
古代から神々と共にある山里の暮らしの印象を受けました。

日若神社の方の由緒書きに
綱分八幡宮の社伝に、神託によって、
日若神社の霊泉を汲み取り、社殿を清めて後、
神璽(しんじー皇位のしるしーここでは御神体の意味?)を遷した。」
と書いてあったので、どんな神社なのか、見に行きました。

とりあえず近くまで行って見ると、
役所の裏手にこんもりと杜が見えるので、道路からもすぐに分かりました。
道路わきには大きな石灯籠があって、看板も立っていました。

その説明を書き写します。
綱分八幡宮神事神幸行事
綱分八幡宮は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后を祭神とする旧県社です。
神亀2年(725)に社殿が造営されたと伝えられています。
神幸行事は暦応(れきおう)年間(1338~1342)以来の神事といわれ、
現在は2年に一度10月13日、14日に近い土・日曜日に
神楽・太鼓打ち・獅子舞、御神幸、流鏑馬(やぶさめ)、子供相撲などが行われます。
昭和35年(1960)に福岡県の無形民俗文化財に指定されました。
飯塚市教育委員会


八幡宮です。やはり御祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后でした。


さあ、神社へ。
道路から50mほどで一の鳥居が目に入ります。
いかにも古い神社の趣です。

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鳥居を二つくぐると、
思いがけず広い境内に出ました。

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この左の丘の上に神社があります。白い手すりがみえています。
正面は忠霊塔だそうです。

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石段を上ります。

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ほどなく拝殿に出ました。

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古くから大変栄えていたような、重厚な印象です。
福岡県神社誌から由緒書きを見てみましょう。(訳)

社伝に、神功皇后が粕屋郡宇美の里より穂波郡大分を経て、豊前国に出給う時、
この地を過ぎられた遺跡に、
後世、(神亀年間ともいう)御社を造営して祭祀したという。
一説には昔、豊前宇佐宮の神領地だったので、勧請して祭祀したという説もある。

又社説に曰く、
「神亀2年(奈良時代)の創立にして、その昔、神功皇后が山田の村から大分(だいぶ)の宮に御幸(みゆき)されて、そこから東にある金石山の麓、金丸村(現在綱分)に皇后が御輿を進ませられて、この地で「三面宝珠の神山である。」と言われて、天神地祇をお祀りするために斎場を設け、祈願が成就したお礼のためのお供え物をされた。
その時、金工に命じて、新たに三振りの宝剣を造らせて、神璽とされた。
これがこの地の出来事で、御神体がこれである。

神功皇后が立ち寄っていましたよ。
子供の応神天皇はまだ一歳くらいでしょうか。
夫の仲哀天皇は、下関市で、死を伏せられたままです。
神功皇后たちはそこに向かって移動中です。

神功皇后がここを通った時に、この裏手の山を見て、
「これは神山だ」と言われて、
三韓征伐の成功のお礼参りをされたと言う事です。
その時、新たに三振りの宝剣を金工に造らせて、奉納されました。

さて
金工に命じて」という言葉に引っ掛かりました。
新たに剣を作らせた?
どういう事だろう。
そこで、今回はこの「金工と宝剣」について追跡する事にしました。

庄内町史を見ると、
この地で実際に弥生時代の銅戈(どうか)が三振り出土していました。

綱分八幡宮境内遺跡では中広銅戈三本が発見されていることから、
弥生時代後期前半に中心的位置を占めていた集落と推定される。
中広銅戈(どうか)や中広銅矛(どうほこ)などの青銅器は、
鳥尾峠を東に越えた糸田町の遺跡でも大量に発見されている。
おそらく、当時、福岡平野から嘉穂地方を経て、田川地方へ延びる
青銅器伝播の道筋が本町内にあったものと考えられる。

町史をさらに見ると、
その銅戈がここの御神体だと確認されていました。
それをまとめてみます。
奈良時代にこの境内から、瓶(かめ)が出土して、
中から中広銅戈が三振り発見された。これが御神体として祀られた。
銅戈は大正14年頃に、考古学者の高橋健自によって確認されている。
長さは40センチほど。しかし、今は存在しない。

という事です。
弥生時代に瓶に入れられて埋められた青銅器が
奈良時代に発見されて、御神体として連綿と伝えられていたのですね。
すごい話です。

ところで、弥生時代・後期前半っていつごろ?
弥生時代のとらえ方ですが、
紀元前300年から紀元300年位でいいのかな。
600年間を200年ずつに分けて、前期、中期、後期とすると、
後期は紀元100年から300年。
その前半だから、100年から200年の間。
(で、いいのでしょうか。
辞書では弥生の始まりは紀元前7世紀というのもありましたよ。)

200年と言えば、ちょうど神功皇后の時代です。

ここは弥生集落
山と川に挟まれた、こじんまりとしたこの里は
弥生時代にも住みやすかったようです。
中心的集落だったんですね。
考古学的にもここには青銅器文化があるという裏付けが取れました。

現代でも大分宮からここに至るルートは人口が少ない所です。
神功皇后たちも、ここに来たら「邑(むら)がある!」って、
きっと喜んだ事でしょう。

青銅器伝播の道筋というより生産地じゃないかな

町史によると、福岡県春日市(那の国)から、
神功皇后たちと同じルートを通って青銅器も伝播したという事です。
でもちょっと待って。

社伝では「金工に造らせた」とある!
これって?
神功皇后は金工を連れていたのでしょうか。
それとも、地元に金工がいたのでしょうか。

いずれにしろ、青銅器を作るには、設備が必要です。
この伝承は青銅器をここで製作出来る事を示唆しています。

しかも、この山の反対側の神社付近からも、同じように
45センチの素焼きの甕の中から9本の中広銅戈が出土し、
さらに別の所からは6本出土したとの事。
これは国立博物館などに保管されているそうです。

一つの山の両側で、奉納された銅戈が出土したのです。
その山の名が金石山
匂いますねえ。
調査すれば何らかのものが出土する可能性が感じられます。

この近くには有名な香春岳があります。
ここは新羅の神がを掘りに来ている伝承のある所です。

鋳型は出土していないけれど、製品は多数で発見されています。
鋳型は単に未発見なのでしょう。
青銅の生産地はこの近辺にもある可能性は高いと思いました。

標高39メートルの丘の上の神社

この神社は写真の通り、旧な階段を上りますが、
頂上の境内をぐるりと回ると、意外に狭いです。
樹木がなかったら360度の展望の地です。
調べると、標高39メートルでした。

この雰囲気―そう、
香椎宮古宮跡とか、小山田斎宮とか、名島神社とか宮地嶽神社など
神功皇后の伝承地の特有の雰囲気を持つ丘です。
人に沿った大きさで、ちょっと上ると見晴らしのいい丘の上にあり、
そこに立つと神の山が見える。

これは、どうやら神功皇后というより、
弥生時代の祭祀のパターンの一つではないかと思い始めました。
彼女はそんな聖地で、地元の人に請われて神事をしているように見えます。
ここの境内でも、「遥拝所」という立札が目にとまりました。

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この木の根元に書いてあります。
ここからは全く視界が利かないのですが、
地図を見ると、伝承の金石山を遥拝したと思われます。

神功皇后伝承の神社を歩く事は
弥生時代の聖地を歩くことになるようです。

地図 綱分八幡宮 日若神社


それにしても、銅戈と銅剣ってどう違うんだろ。
分かんないよ。
みなさん、気になりません?
写真、写真。
写真が欲しい。

地元の飯塚市歴史資料館では、沢山展示してあったはずなのですが、
撮影禁止で、ルナの記憶もあいまいになってしまいました。
(写真はないけどお勧めスポットです)
という事で、古賀市立歴史資料館の方に行ってみました。
行ってびっくり、銅戈はもちろん、すごいものがありました。

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by lunabura | 2010-05-21 13:51 | 綱分神社・つなわき・飯塚市 | Trackback | Comments(0)
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