2010年 05月 31日
皇石神社・おういし(1)神功皇后と大石・御神体はドルメン石
皇石神社(1)
おういしじんじゃ
福岡県古賀市美明
神功皇后がウケヒで大石を持ち上げた?
御神体はドルメンの岩
古賀市立歴史資料館を出て左の方に向かいました。
目指すは小さな山。神功皇后の伝承のある所なら、
これまでのパターンから、川と小山と森を目指せば辿り着くはず。
道は三叉路でも、何でもとにかく小山を目指せばいい。
そうやって車を走らせると、鹿部(ししぶ)山に近づきました。
山裾を舐めながら神社を探します。
山を行き過ぎたと思って路地に入ると、すぐそこに鳥居がありました。
これかな?
車を止めて鳥居を確認すると、皇石神社と彫ってありました。
やっぱりあったよ。
ここも弥生の聖地と神功皇后の法則に合ってるみたい!
神功皇后が祈ったという所は、数十メートルの高さの山で、遥拝所になった所。
そこに立つと聖なる山が見える。そんなパターンです。
一の鳥居はまるで異世界との境界線のような風情です。
一歩くぐるだけで、鬱蒼とした自然の森の中に入り込みました。
とても植物相が豊かで、古来から神山として、杜が守られてきた印象です。
すぐに神社の拝殿が見えて来ました。
拝殿と神殿です。
この神社の伝承の始まりはこの境内の土の中から始まったようです。
入口にあった由緒書きを写します。(一部読み方など補っています。)
皇石神社
祭神は埴安(はにやすの)神。
古く享禄3(1530)年の神殿再建の棟札によれば、大石大明神と呼ばれている。神体は平たく巨大な立石である。
神功皇后は「もし新羅を征する力があればこの大石を抱え起こして立てることができる」と「うけひ」をされたという。太政三(1820)年には社名の皇石に変っている。
明治31年旧暦元旦、神殿後方の合せ口甕より、銅剣、銅戈が発見され、弥生時代の貴重な甕棺墓遺跡として、春日市岡本の遺跡とともに学界の注目するところとなった。
昭和47年には社地西北麓に多量の祭祀土器が発見されて遺跡の重要性を増した。
いま祭祀の由来を考えるに、遠く日本原始国家形成期における有力者の奥津城(おくつきー墓)の祭祀に創まるものであり、神体石は支石墓とよばれる、当時の墓制であったとみられる。
なお、社地に接した鹿部山は、もと三つの峰からなっていたが、その南麓には数多の古墳群が散在し、中の峰の嶺からは、永久元年(1113)年の銘など刻まれた鋳銅製の経筒が昭和46年に出土している。
即ち、鹿部山の頂上から麓に至る一帯は遠く弥生時代から悠久二千年に亘り、連綿として続いてきた聖域で、本社はその中心の槇の巨木群におおわれた森厳な霊地に、永遠に鎮まります神体石を崇敬のまととして斎き祀られてきた真に由緒ある宮どころである。
この神社の歴史と価値がよく分かりました。
ここは弥生時代の首長レベルの人が祀られていたのですね。
甕棺の上に支石墓の平石が載っていたというのですから、
古代の墳墓の変化を見る指標ともなる重要な墓です。しかも出て来たのは銅戈と銅剣。
これが実物です。
ここは弥生からの古墳が沢山あった聖域でした。岡本遺跡と並ぶすごい所だったのですねえ。
もし、ここの価値が分かって全体が保存されていたら、岡本遺跡のように、教科書に載って、
弥生時代を代表する旧跡となっていた事でしょう。
さて、そんな聖地に神功皇后がやって来て、これから新羅出兵をしなくてはならない時に、
ウケヒ(占い)をして、その大石を持ち上げたというのですから、すごい話です。
そこから大石を皇石と字を変更したのですね。
大石と彼女の伝説が融合していくようすがよく分かります。
結局、銅戈と神功皇后については何の関係もありませんでしたョ。
(初めての方は綱分八幡宮を見て下さい。
そこから、銅戈を求めてやって来ました。)
でも、おかげで面白い山に来る事が出来ました。
と言うのは、この周辺には神功皇后の伝承がいくつも伝わっているからです。
神社の奥の山に登ると伝承と地形が呼応する事が分かりました。
境内の右奥には鉄のフェンスがあって、扉が開いています。光が明るく射す方向へ、いざ。
(つづく)
地図 古賀市立歴史資料館 皇石神社 鎧出土・屯倉あと 立花山 奈多