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皇石神社(3)おういし・神功皇后の馬の訓練・黄金の海岸線

皇石神社(3)
ここからは新宮町が見える
神功皇后たちは馬の訓練もしていたよ


面白い事にこの皇石神社から見える範囲に
神功皇后が夫の仲哀天皇と馬の軍事訓練をしたという伝承が残っていました。
仲哀天皇が生きているので、まだ新羅へ行く前になります。

その話は新宮町史に載っていました。では、その伝承を一部省略しながら書き写します。
 地名に残る神功皇后の足跡
 大和朝廷が全国統一を進めていた4世紀後半、南九州の熊襲が反抗しました。このため仲哀天皇とその后の神功皇后が九州に来られ、香椎の宮を拠点に平定に乗り出されました。

また神功皇后は仲哀天皇が香椎の宮で急死された後も、ここを基地に三韓(朝鮮半島)に出兵されたといわれています。この時二人はわたしたちの町にもたびたび足を延ばされたそうで、二人にまつわる地名が数多く残っています。

まず、的野(まとの)では、兵士が弓矢の訓練をしたので的野とつけられたといわれています。

古賀市との境にある、長浦から古森にかけての高台に、馬挿場(うまさしば)と呼ばれている所があります。神功皇后の兵士がここで馬術の訓練や弓のけいこをした所と伝えられています。この一帯は戦に備えての一大訓練場だったと想像されます。

夜臼(ゆうす)の起源もこの時のことです。二人がここに陣をかまえた時、ここの人たちは軍用米を差し出すため、夜通し米をつきました。
天皇があちこちから聞こえてくる「コットン、コットン」という音をたまたま耳にされ、そばの者に「あれはなんの音だ。」とたずねられました。
そばの者は「あれは私たちのために徹夜で米をついている音です。」と答えました。
それからこの地区を「夜まで臼をつく」という意味で「ようす」「ゆうす」と呼ぶようになりました。

また鉾田(ほこた)は、二人が野外で陣営を張られた所だそうです。臨時の陣営なので、より厳重な警備が必要だったのでしょう。矛や槍を持った兵士が、二重三重に陣営を取り囲んでいたということから、鉾田とよばれるようになったといわれています。

上府(かみのふ)の神木(じんぎ)という所は熊襲平定の作戦会議、つまり神議(神様の会議)がたびたび開かれた所といわれています。

福岡市との境に近い下府(しものふ)に、飛山(とびやま)という小高い所があります。ある日、天皇が夜臼の東の山に登られ、四方の景色を眺めておられた時のことです。西の方にぼつんと立った小高い山が目にとまりました。
天皇はこの山だけがほかの山とかけ離れているので「飛山だ」と言われ、以来それがこの山の名になったそうです。

子供向けに分かりやすく書かれた本ですが、かなり具体的な伝承が残っているのが分かりました。
古代の人たちの暮らしまで見えるようです。

神宮皇后が朝鮮出兵を決定してから出兵するまで、かなりの月日を要しているのですが、
馬や船などを集めて軍事訓練していたのですね。なるほど、なるほど。

新宮町の研究ではその時代が4世紀後半になっています。
ルナはとりあえず、『古事記』の通りに200年で見て行っていますョ。

夜臼と言えば、夜臼式土器が大変有名です。年代を調べるための基準になっています。
最古の弥生土器と縄文土器が一緒に出たのも特徴だそうです。

この海域は海人族たちの根拠地であり、船を泊めるのに安全な地形で、
古代から栄えていたのが分かりました。
この土地の人々が天皇家に大変、協力的なのも印象的です。
ここはのちに屯倉(みやけ)が出来る、それは大変豊かな土地でした。

出て来た大きな列柱群は「粕屋の屯倉」かもしれない
ここは旧「粕屋郡 ミヤケ」だよ。
屯倉とは朝廷の倉庫の事です。
筑紫の君・磐井(いわい)の乱後、子供の葛子(くずこ)が朝廷に
「粕屋の屯倉」を献上して命乞いをして、許されたので、「粕屋の屯倉」は有名なのです。
どんな魅力がその倉庫にあったのでしょうか。

前回の史跡ボランティアのUさんは
「この地形から見て、諸外国と交流した文物の倉庫でしょう。」
と教えてくれました。

なるほど、直輸入の宝の山が保管されたんですね。
鉄器や青銅器やガラス器、黄金、布、宝玉などでしょうか?
なんともリッチな。ここはふつうの食糧倉庫ではなく、大和朝廷にとって、もっと魅力的なものがあったんですね。(のちには、るなは、武器庫だったと思うようになりました。)

次の写真は屯倉の想像復元模型です。
(古賀市立歴史資料館・田淵遺跡)
c0222861_21455265.jpg


このエリアには他にも、金の頭椎(かぶつち)の太刀が出ています。
ここにどうして豊かな物資が集まったのか。しかも、丘陵ごとに部族が違うらしいです。

なんとなく思いついたのはこんな光景です。
古代には海人族たちのネットワークがあって、船の運航の安全を担っていました。
水と食糧を求めて、船が入って来ると、首長は、どんな国籍の船も受け入れて、
時には船の修理にも応じました。必要なら、陸地に住居を構える事も許しました。
その見返りに、船は載せている宝物を献上して行きました。
あるいは物々交換もしました。
こうして、屯倉には豊かな物資が蓄積されて行きました。


黄金の海岸線
この玄界灘の沿岸では黄金がムラごとに出土している事に気づきました。
名島神社、宮地嶽神社、この鹿部山の麓、そして宗像大社。
黄金の文化があったんだ…。ジパングだァ。



そして、その黄金の最たるものは宮地嶽神社内の巨大古墳内で発見されました。
黄金の太刀。その長さ3メートル以上!
半端な大きさじゃない巨大な太刀!それが金銅製。
いくらなんでも、3メートルの太刀を作るなんて、発想がどうなってるの?
見たいな。見たいでしょ。
では、その被葬者の謎を追って、宮地嶽神社へ再び行きましょう!

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by lunabura | 2010-05-29 14:08 | 皇石神社・おういし・古賀市 | Trackback | Comments(0)
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