ひもろぎ逍遥

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宮地嶽神社(4)御祭神の謎にチャレンジ

宮地嶽神社(4)

御祭神の謎にチャレンジしました
時代による御祭神の変遷


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(自然公苑の菖蒲園)

さあ、今日は御祭神について見て行きましょう。

現在は神功皇后勝村大神勝頼大神、となっています。
勝村、勝頼の二柱はどなたなのでしょうか。

まず、一番目の神功皇后はすっかりお馴染みになりました。
香椎宮から始まった『ひもろぎ逍遥』ですが、
半分ちかくのお宮は神功皇后関連だったでしょうか。
これまで、点と線だった皇后の行動が、だんだん「面」で捉えられるようになって来ました。

香椎宮から東の方では馬や船の軍事訓練をしたという伝承を
皇石神社で書きましたが、さらに東に行った
この宮地嶽神社でもその伝承を見つける事になりました。

宮地という地名そのものも、神功皇后が滞在した事が由来のようです。
どうやら、皇后の時代は都が定位置にあったのではなく、
天皇の居る所=みやどころ=みや(都)というイメージがあったように感じて来ましたよ。

さて、皇后がここに来られた時には、天皇の死は隠されています。
しかし、妊娠していたと思われます。

そんな皇后がここで宮地山(180メートル)に登って天地の神に祈ったと言い伝えています。
皇后はどの神に祈ったのでしょうか。
それが宗像三女神(むなかた・さんにょしん)でした。

昭和48年に発行された津屋崎町教育委員会の「つやざき」にその手掛かりを見つけました。
まずは、『神社帳』から抜粋します。

神社帳より
祭神
タキリビメの命、サヨリビメの命、勝頼神
タキツヒメの命オキナガタラシヒメの命勝村神

当社の縁起ではこう言っている。
宮地嶽大明神、勝村大明神、勝頼大明神、
それぞれの名前は、阿部相函、藤高麿、藤助麿云々。

伝説では、昔、神功皇后が新羅を征された時、宮地岳の山上にて宗像三柱大神を祭らせられ、
ついに新羅に勝って還幸されたことから、宗像大神を奉斎され、後に神功皇后を配祝した。
勝村大明神はすなわちこの方である。

この神の名は新羅を征し、勝を得たという事からついた名前で、
社も昔は山上にあったのを、後に移転している。
また、近くの村、勝浦村にも勝浦岳神社がある。

祭神は神功皇后なので、勝浦という地名も、
異国を征したことから来たと、風土記拾遺にも書いてあるので、
勝村大神は神功皇后である事は疑いない。

あれあれ、「勝村大明神は神功皇后だ」と言っていますよ。

これはいつ頃の記事だろう。
明治時代に社殿が焼失した記事が載っていますから、明治以降の記事です。
この『神社帳』の意見を分かりやすくするために、
宗像三女神を赤に、勝村大明神と神功皇后を緑にしました。

なるほど、『神社帳』の著者が言いたいのは、
神功皇后が山頂でお祭りした神が宗像三女神なのだから、
宮地嶽の山頂の神は宗像三女神なのだという事なのですね。
(そう言われるとそうかも…。)

勝村大明神は、勝って帰って来た事から、神功皇后だと言う訳ですね。
(そうか。そう来るか。)

結構いい所をついてますねえ。現在の三柱と真っ向対立です。

このままでは、迷路にはまりそうなので、この人が参考にしたという
『筑前国風土記拾遺』の方を見てみましょう。これは江戸時代の本です。

宮地嶽大明神社
村中の小高い山の上にあり、石の階段、数十段を登る。昔は、宮地嶽の山上にあった。
今、その跡を古宮という。そこに清水があって、禊の池という。
昔、社があった頃には使っていたという。

『宗像宮社記』に書いてある。
「宮地嶽明神内の二社は宗像三女神と勝村大明神だ。」と。

社説(宮地嶽神社自身?)には中殿に阿部函相(宮地嶽大明神)、
左に藤高麿(勝村大明神)
右に藤助麿(勝頼大明神)
三座であるという。
この三神は神功皇后の韓国を討った時の功績があった神だという。

なるほど、参考にした宗像宮の由来と、宮地嶽神社の由来が微妙に違っていたんですね。

『神社帳』を書いた人のこだわり振りから見ると、古来、宮地嶽大明神は誰であるか、
勝村、勝頼の神は誰であるか、論争があっているのだけが分かりました。

どの神が誰であるかは、ここで決める事ではありませんので、
この神社の伝承のモチーフだけ、考えましょう。

まず、この宮地嶽に住んでいる豪族がいた。その縁で、神功皇后はここにやって来て滞在した。
その間に、古宮である宮地岳に登って戦勝を祈った。そこで祀った神は宗像三女神である。

皇后が凱旋してから後、ここには宗像三女神と神功皇后が祀られた。
一緒に活躍した地元の豪族も後に神として祀られた。
その豪族の一員が藤高麿や、藤助麿である。
この豪族には同じ時代の人や後の時代の人が混じっている。

こんな所のようです。

時代が下がって行くに連れて、祭神が追加されていき、
後世の人々には、どの神がどの人が分からなくなってしまいました。
数百年間の有名神・人が一緒に祀られているための混乱だと見ました。

ここには、神功皇后を招いた豪族がいた…。
ここは宗像国なのでしょうか、那の国なのでしょうか。
それとも第三の国でしょうか。

石井忠氏によると、「西郷川が那の国のその境目だろう」という事でした。
地図を見ると、この神社はそれより、ちょっと宗像よりになります。
那の国と宗像国の間の丘陵地帯…。

なんで、こんな小さな事にこだわるのかというと、ここに巨大古墳があるからです。
それは奈良の石舞台と日本1、2位を争う大きさなのです。
しかも、例の3メートルを超す、やけに長い金銅製の太刀。
この古墳は、日本の歴史に関わる巨大さなのです。

さあ、ではその古墳を見に行きましょう。

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本殿の右端から出て、奥へ奥へと木漏れ日の中を歩いて行きます。
(つづく)

地図 宮地嶽神社 西郷川 



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by lunabura | 2010-06-11 17:22 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(0)
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