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ひもろぎ逍遥

宮地嶽神社(6)宮地嶽古墳と手光波切不動神社


宮地嶽神社(6) 
奥の宮不動神社と手光波切不動古墳
ここには独立したクニがあったよ
大王を祀っていた新たな氏族を発見

古墳って、故郷を見守る位置に造られるよね。
そう思いながら地図を開くと、確かに古墳は那の国の方を見下ろしますが、
古墳の入口は東の方を向いていました。
入口の方向って、無視していいのかな?

そんな思いを抱いていると、その夜、夢を見ました。
それは宮地嶽から東の方の丘陵地帯の映像でした。
それが、この写真です。
宮地嶽神社(6)宮地嶽古墳と手光波切不動神社_c0222861_21595416.jpg

(国道3号線の上西郷付近から撮りました。)

一番左が宮地嶽です。いくつかのピークを形成しながら、段々低くなっています。

すると、その日、名島神社で紹介した、もと光少年に会って、話を聞く機会が出来ました。
光少年も、今は大長老です。

「宮地嶽の古墳の被葬者を考えていたら、今朝、東の方の丘陵の夢を見たんですよ。
古墳の入口がそちらの方向を向いているんです。
宮地嶽あたりって、宗像族か、阿曇族か、
それとも、第三の氏族がいるんでしょうか。
そこから出土した頭椎の太刀の大きさは半端じゃないんです。」
と何げなく話したら、
「そこは宗像族でも、阿曇族でもないね。第三の氏族だね。」
と言って、昔の話をしてくれました。
「あの古墳の出土品という、頭椎(かぶつち)の太刀は副葬品じゃなかと。
後から持って来て、塚の上に置いた、お供え物たい。
奉納されていたものが、大雨で塚がずって(ずり落ちて)、出たと。
その南の通り堂の手光(てびか)の古墳の方が古かとよ。
その奥の院に当たるのが宮地嶽。地元の武内さんが先祖の墓だと言っていたね。」

「すると、昔は道があったんですか。」
「そう、手光を先にお参りして、奥の院にお参りしていた。今は道はないね。」

これを聞いて、思い出したのは神官さんの話です。
「土砂崩れで、土を取り除こうとしたら、光るものが出て来ました。
それから、拝殿と社務所の間からも、沢山の出土品が出て来ました。」

ああ、そうか。
ルナはてっきり、石組が壊れて開口したのだろうと、勘違いしていました。
思い起こすと、石室の中はとても堅牢で、全く壊れた所はありませんでした。
そうか、思いこみだったんだ。

副葬品と、奉納品と混ざっているんだ。
あの、巨大な金メッキ太刀などは、外の盛り土に置かれたものだったんだ。
そうか。
でも、誰が…。
また新たな謎が…。

そんなの分かるはずないから、とりあえず、その通り堂の方に行ってみよっと。

手光波切不動尊
てびか・なみきり・ふどうそん

光さんが教えてくれた手光(てびか)の古墳は、福津市の旧三号線沿いにありました。

「宮地嶽の古墳と形は同じで、サイズが少し小さい。」
と別の人から聞いたばかりでした。関連があったんだ。

これが手光古墳の写真です。
宮地嶽神社(6)宮地嶽古墳と手光波切不動神社_c0222861_2225632.jpg

民家の間の空き地の奥に古墳の入口が顔をのぞかせています。
両脇にはかつて沢山の仏像が置かれていたと思われる、棚がありましたが、全て失われていました。
腰をかがめて入って行きます。
宮地嶽神社(6)宮地嶽古墳と手光波切不動神社_c0222861_2233432.jpg

横幅も一人がやっとです。玄室では立つ事が出来ました。
それでも、その横幅は160センチぐらいです。
宮地嶽古墳に比べて、羨道は4分の一のスケールの印象。石も平べったいです。
構造的には大きな石を並べて、上から蓋をした感じがよく似ています。

帰りはうっかりして頭を天井にゴツンしました。

この古墳と奥の宮不動神社の古墳は一キロほど離れていますが、セットで考えるべきものでした。

光さんの話に戻りましょう。
「でも、あんな巨大な黄金の奉納品って、当時の日本で作れたんですか。
それとも、外国から持って来たんですか。」
「外国だろうね。」

「それと武内の先祖という話ですが、あの武内の宿禰の一族ですか?
武内の宿禰が300歳とはどう解釈したらいいんですか?」
「あれはね。300年続いた世襲の名前。地方豪族で、百済から来た渡来人たい。
神功皇后の母親も百済人でしょうが。」

「そうなんですか。なるほど、世襲の名前を受け継いだんですね。
昔から、日本人は先祖の名前を受け継いで行きますよね。」

(武内の宿禰の一族がこの宮地嶽にいた?
そうか、その縁で、神功皇后はこの山にやって来たのかもしれない。
そうすると、やけに地元の援助が篤かった理由が分かる。

馬も武器も船も、これだけのクニの援助がないと、とても調達出来ない。
逆に、ここからの依頼でやって来た可能性だってある。

もしかしたら、この説は可能性があるかも。
神功皇后の右腕として、あらゆる援助を惜しまなかった人が武内の宿禰。)

百済の話が出て来ましたが。
神功皇后が新羅を攻めたのは、百済の救援のためだと教えてくれました。

金メッキの頭椎の太刀はササン朝ペルシアの様式だそうですが、
同時に出土した、鉛系のガラスのインゴットも、実はペルシャ系です。
ササン ⇒ 中国 ⇒ 高句麗・百済 ⇒ 倭・正倉院
という流れがあるらしいです。

(この古墳はそういう流れの中で見るといいんだ。ここは重要拠点なんだ。
でも、古代朝鮮の事はさっぱり分からないよ…。)

「すると、この宮地嶽の氏族に名前を付けるとしたら、宮地族がいいですかね?」
「武内族だね。」
「あの福間あたりは、すると、一つの文化圏だったんですか。」
「宮地嶽から通り堂、青柳、筵内(むしろうち)一帯はものすごく古いね。とても古い。」

その話は、通説の、宗像徳善でもなく、神社説の磐井の一族でもありませんでした。
夢で見た丘陵地帯に抱かれた、一つの独立国でした。

ところで、古いってどの位?
調べると、縄文遺跡も沢山出ていました。
さらに旧石器時代、二万年前という遺跡もありましたよ。
(こりゃあ、古すぎる?)

驚く話ばかりで、(こんなの検証出来ないよ)と思いながら帰りました。
ところが、家に帰って、なにげなく『つやざき』(前述)を広げたら、
光さんの話を裏付ける言い伝えが載っていました。
そのまま、書き写します。
岩屋不動尊(日本最大の古墳)

宮地嶽神社の奥深い地点にある岩屋不動尊と称する古墳は、宮地嶽山腹から上西郷、神興、福間、津屋崎地方に散見する先住民族の長の霊を祭るために作られたものと言われ、彼等の住居を一見し得る高燥の台地に彼等の長と霊を葬り、毎年祭祀を営み、永劫の守護と福利を祈ったものといわれる。

その後、この古墳を発掘した者が、内部の遺物に尊厳と恐怖を感じて仏像を安置してお祀りするようになったものであろうと言われる。

岩屋不動窟は、横穴式石室の円墳で、23個の巨岩を積み重ね、高さ約3米、巾2,7米、長さ約27米ある。
その規模の偉大さにおいては日本一の折紙がつけられ、重量な文化財とされている。

宮地嶽神社所有の国宝類は、すべてこの古墳からの出土品であるといわれる。

光さんの話を聞いた後なので、この話がよく分かりました。
地元の言い伝えと組み合わせると、
巨大古墳には有名な武内の宿禰と関わる氏族の長が埋葬されているという事になりました。

地図 宮地嶽の古墳 手光の古墳 西郷川(那の国との境?) 撮影した所(北を撮る)
(宮地嶽から東の丘陵地帯から、西郷川までが、武内族のクニ?)

次回はこの古墳を舞台に、目撃された二つの奉納の舞を紹介したいと思います。

(つづく)





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Commented by ura at 2014-03-12 12:51 x
大変貴重な話でした。ここは、神功皇后に関係してずっと祀られていた何かがあった場所ではないですか。山の頂上にはひもろぎがあったはずですし。剣は徳善が神前に奉納したとか...。「地元の武内さんが先祖の墓だと言っていたね。」竹内宿禰の子孫一族が守っていたとはいえないでしょうか。徳善自身が眠っていたというより、皇室関係の場所で徳善が信仰あるいは保護していた場所であるとか。
それとは別に教えてほしいのですが、神功皇后の母は新羅の人ではなかったですか?
Commented by lunabura at 2014-03-12 21:33
uraさん、コメントありがとうございます。
まず、神功皇后の母は倭人です。母から六世前にアメノヒボコの名があります。
天日鉾の名も倭人の名前なので、本当に新羅人なのか、実は疑問を持っています。
『日本書紀』に出てくる、新羅や百済の人たちの名前は、こんな和風の名前ではなく、韓国系の名前で書かれていて、倭人とは書き分けてあるからです。
新羅そのものも、国の始まりには倭人の名が出てくるのです。

また、光さんお話しは光さん個人の意見が混じっているという点を了承してください。
光さんの意見が真実とは限らないのです。
頭椎の大刀は日本オリジナルのデザインらしいです。
また、百済を助けるために戦ったのは400年後の話です。
混乱を招くので、書き換える必要があるかも知れませんね。(つづく)

Commented by lunabura at 2014-03-12 21:33
宮地嶽には神功皇后が滞在したという伝承があり、宮地岳山頂には磐座があります。そこでも祈ったと伝えられていますよ。
竹内宿禰の末裔に関しては、光さんの証言しかないのですが、私の意見は近刊に書く予定です。
徳善に関しては、伝承に全く出会っていないので、なんとも言えません。
この時代は、倭国と日本が併存していた時代だとわかったので、新たな歴史観を構築しなおさないといけないかな、と思っています。

答えになりましたか?
Commented by ura at 2014-03-12 21:43 x
お返事有難うございます。宮地嶽神社の最初からもう一度読み直してみました。それに、コメントの内容を加えて良く理解しました。近刊お待ちしております。大神社展で3mの太刀を見ました。すごかったですね。では
Commented by lunabura at 2014-03-12 22:56
ありがとうございます。^^
by lunabura | 2010-06-09 21:25 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Comments(5)

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