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王塚古墳(2)武人は妻と共に星の下に眠るー激動の6世紀を生き抜いた男


王塚古墳(2)
武人は妻と共に星の下に眠るー激動の6世紀を生き抜いた男


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これは玄室の出口です。
ここにも両脇に(ゆぎ)が整列して控えています。
靫は右壁に比べるとやや小さく、それほど威厳がありません。
(大きさで身分の差を表すのは高句麗壁画にもあります。)

門の上の横岩には三角文が描かれています。
その反対側には蕨手文が描かれていました。
玄室と前室で、意図的に図案を変えています。
良く見ると、靫の背景には三角文が多いです。蕨手文がちらりと見えています。
前室とかなりデザインが違っています。
(前室―入口側は(1)の方を見て下さい。)
靫が靫負氏(ゆげい)という氏族を示すなら、
この三角文も氏族のシンボルの可能性が出て来ました。
しかし、今のところは何を指すのか、全く分かりません。

それじゃあ、靫負氏ってどんな氏族?
ネットで検索すると
靫負―主に西日本の中小豪族の子弟から採られ、(略)6世紀半ばに大伴氏のもとに編成された。

とあります。6世紀半ばに変化があってるんですね。
九州の6世紀と言えば磐井の乱という大きな戦いがあっています。
それは、朝鮮半島の新羅や任那なども関係する大きな戦いです。
この時代は、継体天皇に味方するのか、磐井に味方するのか、
かなり難しい時代だったと思われます。靫負氏はどちらについたのか、私にはよく分かりません。
(磐井の君は『古事記の神々』にて現代語訳)

この時代の出来事を並べてみます。

527年 継体天皇は任那復興の為に出兵。磐井の君は火・豊とともに反乱して翌年敗北する。
531年 継体天皇崩御。
535年 王塚古墳の近くに穂波屯倉・嘉麻屯倉(みやけ―倉庫の事)が設置される。
538年 百済から仏教がつたわる。
5××年 このころ王塚古墳がつくられる。

この古墳の地域も磐井の敗北後に大和朝廷の支配下に置かれました。
その前後にこの被葬者は亡くなっています。
この時代背景は副葬品からも想像出来ます。なんとこの古墳は未盗掘でしたよ!

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これがその副葬品の一部です。甕はかなり硬度の高い須恵器です。
勾玉や金のイアリング。蓋のついた器。鉄の矢じりなど。
鏡も出ています。また鎧、刀、槍などが武人であった事を教えてくれます。
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そして、馬具。これは資料館のハニワ君です。
出土した馬具のレプリカが取り付けてあります。どんな馬具が出たのかよく分かります。
腹の所にあるのは杏葉(きょうよう)と言って飾りです。
鋲がびっしりと打ち込んであって、かなりハードなデザインです。
これらには金メッキが施されていました。

埋納時のようすが分かりました。
水に浸かっていたものを聞き取り調査したそうです。

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これを見ると、夫婦ふたりの為のものだと思われます。
横穴式古墳が流行ったのは、追葬出来るからだそうです。

夫婦のどちらかが先に死んでも、後には追葬されて一緒に眠るんですね。
灯明台もあるので、モガリもここでしたのかな…。
ルナ的には、残された方がこの石の扉を開けて、ここで冥福を祈ったように思われてなりません。
念入りに装飾された壁を見ると、時間をかけて描かれたのが分かります。
ここは武人の夫婦愛と家族愛・氏族の愛、家臣たちの敬意など、愛と尊厳に満ちた空間でした。

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二人の死後の世界を見守るのは星だったようです。
天井には無数の黄色の点が描かれています。
NHK「任那日本府の謎」では、
「遠賀川流域と王塚古墳の関係者は筑紫の君・磐井の同盟者だ。
王塚古墳の天井に描かれた星座は朝鮮半島の北の星座だ。」
と言っていました。
でも、星座はちょっと無理かな。星座の事をあまり知らない人が描いたみたい。
磐井の同盟者という可能性は十分にありますが、もっと証拠が欲しいなと思いました。

この壁画にはまだ他に、いろんな文様があります。
詳しく見て行くと、いろんなメッセージが読み取れそうです。

「オレがせねば、この古墳はだめになる」
西村二馬氏の言葉です。この古墳は西村氏の運動によって守られました。
炭坑の鉱脈があったために、産業か保存かという中で、人生をかけて守り抜いて
くれたお蔭で、日本人のDNAを熱くする、この貴重な芸術を見ることができます。
この方については王塚古墳のHPに記載されています。

開館時間 午前9時~午後4時30分
休館日 毎週月曜日 (月曜日が祝日の場合はその翌日)
年末年始12月28日~1月4日
入館料 大人310円 中高生150円 

2010年の古墳公開は10月16日~17日
9:30~16:00の予定だそうです。HPで確認してください。
王塚装飾古墳館

公開見学の熱きレポートはブログ「装飾古墳今昔紀行」
憧れの王塚古墳への長く苦難な道程 -カムバック伝説2 

地図 王塚古墳

(拡大できます。)

さらに詳しく調べたい方のために。

靫負をシンボルとする説の一部を抜粋しておきます。

九州におけるを描く装飾古墳の分布と、靫負大伴部(ゆげいおおともべ)の分布はかなり密接に関連しているのではないかと思います。九州には靫負大伴あるいは靫負大伴部の分布がかなり見られます。(略)ちょうど筑紫国造磐井(いわい)の本拠地であった地域に、こうした史料がみえているわけです。

それから、御井郡には靫負大伴(部)に由来するかと思われる伴太(ともだ)郷という郷名もみえていますので、磐井の内乱が終了して後、筑紫国造磐井の本拠地に靫負大伴が選ばれて大伴部を統轄したことが想定されます。

同心円文や靫を描いた装飾古墳を考えてみますと、被葬者が的臣(いくはのおみ)と同族関係を結んだ筑後川中流域の有力な武人たち、あるいは靫負大伴(部)であった事をシンボル的に、象徴的に示すために、そうした武器・武具類を描いているのではないかと推測しています。

(「古代史からみた装飾古墳」和田萃 
『装飾古墳が語るもの』所収 国立歴史民俗博物館編 吉川弘文館)

 


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by lunabura | 2010-09-07 23:53 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(4)
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Commented by じゅんじゅん at 2010-09-08 19:39 x
蕨手さんのブログも訪問しました。壁画にこんなにたくさんの色を使ったのは珍しいのですね。私は九州の古代に詳しくないので、氏族説は楽しいけれど??って感じです。馬のレプリカ馬具の使い方、分かっていいですね。三環鈴はついてないけれど、、、。近いうちに三環鈴の大きさを見に行ってきますね。自分がその時興味を持ってないと、見ても気付かないって事がよく分かりました。
Commented by lunabura at 2010-09-08 20:38
「靫負」って、源氏物語で「靫負の命婦」って出て来て、それで、読めるんですね。でも、その元々の歴史となると、初めて知る世界で訳が分かりません。ここでは「大伴の靫負と」いうのが出てるけど、さらに調べると「刑部の靫負」(おさかべのゆげい)というのもあるらしい。
ただ、この靫マークが熊本からここまで、いくつも出ているのが興味深いです。
今回のルナの妄想がどれにも当てはまるかと言うと、それは在りえない。
でも、ブログって、こうして日記にして備忘録にしておけば、次へとつながるので、便利です。
Commented by ばぁば at 2010-09-10 16:24 x
  ☆おめでとうございます
あれよあれよと思っている内にブログ一位! 私はとても嬉しいです。♪ 
この王塚古墳はとても色鮮やかですね。 日本ではないみたいでアラベスク模様を彷彿とさせます。
Commented by lunabura at 2010-09-10 18:02
ありがとうございます。暫定でも、一位とか嬉しいです。
みなさんの応援のおかげです。これからもよろしくお願いします。
今日も、古代の世界のおしゃれを投稿します。
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