ひもろぎ逍遥

lunabura.exblog.jp ブログトップ

恵蘇八幡宮と木の丸殿(1)えそ・筑紫で亡くなった斉明天皇のモガリの宮


恵蘇八幡宮(1)と木の丸殿
えそはちまんぐう・このまるでん
福岡県朝倉市山田151
筑紫で亡くなった斉明天皇のモガリの宮
中大兄皇子はここで喪に服した


c0222861_14271957.jpg

前回、斉明天皇の陵墓かと紙面を賑わした牽牛子塚古墳について書きましたが、
彼女が亡くなった場所は筑紫の朝倉橘広庭宮(あさくらたちばなひろにわのみや)だと
日本書紀に書いてあります。
この宮の場所についてはまだ特定されていませんが、
モガリをして、仮埋葬したと言われる宮は今も伝わっています。
今日はそこに行きましょう。

福岡から大分県方面に向かう386号線を、筑後川を右に見ながら行くと、
三連水車で有名な朝倉に出ます。
その先、大きく左にカーブする所に、この恵蘇八幡宮はあります。
楠の巨木があって、古い風情が残っているので、すぐに分かります。
鳥居は道路に面していて、石段を少し登れば境内です。
昔は筑後川から直接上がったのかもしれません。
c0222861_14275746.jpg

本殿は江戸時代に改築されました。
c0222861_14314972.jpg

お参りして天井を見上げると珍しい十二支の羅針盤がありました。

この恵蘇八幡宮のご祭神は斉明天皇・応神天皇・天智天皇です。

道路わきにあった由来を写します。
由緒によると、斉明天皇は661年、百済国救援のため筑紫の朝倉橘広庭宮(あさくらたちばな)に下られた。この時随行の中大兄皇子(後の天智天皇)は国家安泰と戦勝祈願のため、宇佐神宮(大分県)に奉幣使を遣わされた。使いの一行が恵蘇山麓に達した時、天上から白旗が降り、幡に八幡大神の文字が浮かび出たことから、天降八幡なる宮社が創建された。その後、天武天皇白鳳元年(673)に斉明天皇・天智天皇を合祀し、この頃社名を恵蘇八幡宮に定めたといわれている。
現在の本殿は安永元年秋9月(1772)の改築である。

宇佐八幡宮の主祭神といえば応神天皇です。
中大兄皇子によって応神天皇が祀られたという由緒です。
応神天皇は母君の神功皇后のお腹の中にいた時に、共に新羅に渡って、
戦わずして勝利を得たので、それにあやかりたいと言う事で勧請したのでしょう。
白旗が降りたというのは宇佐神宮の神威を得たという事で、
シンボリックな話になったと思われます。
しかし、軍事的に考えると、宇佐は古来、造船などの技術が確かな所なので、
その援助を依頼したのではないかと思いました。
難波でも軍備をしたようになっていますが、
玄界灘を渡って戦うとなると、海路に詳しい水軍無しには戦えません。
天上から白旗が降りたというのは、宇佐の協力を得た印ではないかと思いました。

さあ、こうして、戦の準備が着々となされたのですが、
母の斉明天皇がわずか二カ月で亡くなってしまいます。
その年齢が68歳。
天皇が亡くなったので、そのモガリは、おろそかに出来ません。

木の丸殿

さて、亡くなった斉明天皇の御遺体はこの神社の上の山に移されました。
c0222861_14343327.jpg

神社の右の方にもう一つ鳥居があるのがそれです。上って行きましょう。
石段がいくつも続いて小高い丘の頂にでます。
c0222861_14352934.jpg

この頂きはぐるりと石垣が囲まれていました。
この中に古墳が二基あるそうです。説明板がありました。

日本書紀によれば「西暦661年5月、斉明天皇は百済救援のため朝倉橘広庭宮に遷られたが、病のために7月24日に崩御された。皇太子中大兄皇子は母斉明天皇崩御7日後の8月1日に御遺骸を橘広庭宮からこの地に移し、一時的に葬り…」と記されており、地元では御陵山と呼んでいる。
陵上には方2間(1.8m)の石柵が巡り、中央の塔石には「斉明帝藁葬地」(こうそうのち)
と刻されている。形態は前方後円墳ではないかという説もあるが、町では円墳二基としてみている。

c0222861_14364638.jpg

中には入れないのですが、目をこらすと、中央部にいくつかの石の柵が見えます。
そこに、斉明天皇の「藁葬(こうそう)の地」と書いてあるそうです。
藁(わら)の葬?
よく分からないのですが、かつて仲哀天皇が亡くなった時、
遺体はムシロで包んだという伝承を聞いた事があります。
ここも、戦争の陣営の事、遺体を包んだのは藁で編んだムシロだったのかも知れません。
ここで斉明天皇のモガリ(殯)が行われました。
遺体はどうしても腐敗の過程を通らなくてはいけません。
古代の人々は、その過程を大切にしていました。

中大兄皇子がモガリをする様子が伝わっていました。
皇太子中大兄皇子は、御母斉明天皇がお亡くなりになって、7日後の8月1日、御遺骸を朝倉橘広庭宮からこの地にお移しになり、その夕べ御陵山に仮に葬られた。そして、陵下の山腹に丸木の殿を作られ、一日を一か月にかえて12日間、母君の喪に服されたといわれ、この地を「木の丸殿」「黒木の御所」と呼ぶようになった。

この御陵山については恵蘇神社にも由緒が書いてありました。
斉明帝藁葬地 (こうそうち) 御殯斂地(ひんれんち)
山上には斉明天皇の御陵といわれる前方後円墳があります。斉明天皇は661年5月9日(新暦6月14日)橘広庭宮にお着きになり、7月24日(8月27日)病のため崩御されました。(御年68歳)中大兄皇子は御遺骸を一時山上に御殯葬され、軍を進め、後に奈良県高市郡越知岡村へ移される、と記されています。

木の丸殿遺跡(このまるでん)
天智天皇は斉明天皇御殯葬のあと御陵山に木皮のついた丸木で忌み殿を建て、12日間喪に服されました。後世の人々が「木の丸殿」と呼びました。

天智天皇御製
秋の田の刈穂の庵のとまをあらみ 我が衣手は露にぬれつつ (小倉百人一首)
朝倉や木の丸殿に我が居れば 名のりをしつつ行くは誰が子ぞ (新古今集)
具体的な部分は少しずつ差がありますが、
まさにこの地は斉明天皇の御遺体を一時的にモガリした場と言えます。
(つづく)


★ 教えてください ★
さて、この由緒を読むと、斉明天皇の御遺体はこのあと、
「奈良県高市郡越知岡村」に移されたと書いてあります。
この点について、奈良の方で、どうなっているのか、教えていただけませんか。
今、話題になっている、牽牛子塚古墳がある所の事なのでしょうか。
日本書紀では、飛鳥川原(行宮?)でモガリをされたように書いてあります。
その後、改めて埋葬されたと思われます。
土地勘がないので、どなたかこの恵蘇神社の伝承について、
奈良の方と照らし合わせて、分析して推理していただけたらと思います。

☆ 日本書紀の該当部分を現代語訳しました。
   筑紫の朝倉橘野宮で亡くなった斉明天皇・7世紀の東アジアの地図



気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2010-09-23 14:47 | 神社(エ) | Trackback | Comments(14)
トラックバックURL : http://lunabura.exblog.jp/tb/15159645
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
Commented by jumgon at 2010-09-21 18:34
とても詳しい情報ありがとうございます。
「軍事的に考えると、宇佐は古来、造船などの技術が確かな所なので、
その援助を依頼したのではないかと思いました。」ナルホド、そうかもしれませんね。宇佐が造船などの技術が確かな所、とはしりませんでした。

秋の田野刈穂の庵のとまをあらみ 我が衣手は露にぬれつつ (小倉百人一首)、
この歌は御陵山でつくられたものなのでしょうか?
恵蘇神社の由緒書に、そうかいてあるのでしょうか?
そうだとしたら、私の中で、歌の印象は随分変わります。
Commented by jumgon at 2010-09-21 19:48
牽牛子塚古墳の現在の所在地は、奈良県高市郡明日香村大字越ですね。
ウイキペディアのよると、越智岡村は昭和20年までは地名として存在しし、高取町に属していたこともあるようです。、以後何回かの市町村合併の後、昭和31年には、高市郡明日香村越となっています。地図を見ていただければ分かりますがと、高市郡と高取町は隣どうしです。話題になっている、牽牛子塚古墳がある所はその境界線あたりに位置しています。

恵蘇神社の由緒書って、スゴイ情報ですね!

話題になっている、牽牛子塚古墳がある所の事に間違いないと思います。
Commented by lunabura at 2010-09-21 20:14
宇佐神宮については、真鍋大覚氏の本で知りました。一般に知られていない内容ばかりなので、私も少しずつ調べて、ここに紹介しています。この神社は、あまりにも多くの人が書いていて、手をつけていません。この件については、いずれ紹介します。
天智天皇の歌は、境内の由緒書きに書いてあったのを写しただけです。朝倉の方の歌の背景については、次回紹介するつもりですが、安芸の田のの方は、まだ背景については調べていません。天智天皇が筑紫に来ていたことも最近しったばかりです(;一_一)
Commented by lunabura at 2010-09-21 20:21
牽牛子塚古墳の所在地が越なのですね。岡という地名も近くに見られるのでもしかしたら、と思ったのですが、筑紫の恵蘇八幡宮の由緒書きと一致するのですね。これはすごい話になりました。
この由緒書きは貝原益軒が書いたと言われているそうです。ですから、江戸時代の伝承です。周りに人家もほとんどないような地形ですから、そのまま変化せずに伝わった可能性があります。情報ありがとうございました。
Commented by lunabura at 2010-09-22 09:15
さらに疑問が湧きました。斉明天皇の陵墓について、宮内庁が指摘している高取町の車木ケンノウ古墳についてですが、わずか2.5キロしか離れていないとの事。やはり越智のようですが、よく分かりません。
これは、岡村ではないと解釈していいのでしょうか。
よろしくお願いします。
Commented by jumgon at 2010-09-22 18:41
地名の件について、
わたしは「高市郡旧地名」で検索したら以下のサイトに行きつきました。
私の下手な説明よりこちらをごらんになったほうが確かかも、、、、、。

http://www.weblio.jp/content/%E9%AB%98%E5%B8%82%E9%83%A1
由緒書きは貝原益軒が書いたと言われてるのですね。情報有難うございます。由緒書がかかれた時代、人も調べないと、いつの間にか、粉飾
されてることもありますものね。
人為的な粉飾がなければ地名などかなり長い間保たれてると考えられますね。(今の時代と違って)
Commented by lunabura at 2010-09-22 19:13
さらに教えて下さってありがとうございます (^-^)
今、見て来ましたが、明治22年以前は高取町と越智岡村は別の村だと分かりました。すると、斉明陵は牽牛子塚古墳そのものあるいは、その近辺という事になりますね。 
文献は言われる通り、改竄、粉飾があるので、難しいのですが、「貝原益軒と言われている」という文脈なので、この目で見ないと、正式には言えないのが哀しい所です。
間違いないのは、「江戸時代には(牽牛子塚古墳のある)越智岡村に斉明陵があると認識されていた」という所でしょうか。
Commented by じゅんじゅん at 2011-06-18 20:57 x
斉明天皇、7月24日に崩御。崩御7日後の8月1日に御遺骸を恵蘇神社の上のに仮に葬られた。
日本書紀では「8月1日に皇太子・中大兄皇子は天皇の御遺体を磐瀬宮に移しました。」となってますが、そうだとすれば「御陵山」と「磐瀬宮」は同じ場所だということになりますね。
あまり細かく考えない方がいいのかもしれませんが~。
Commented by lunabura at 2011-06-18 21:47
そうですね。比較すると矛盾がありますね。最近では、日本書紀を書いた人って、筑紫の土地勘がないから、適当に書いてるなと思うようになりましたョ。
あと、新旧の暦の違いで、説明板などが、月日をどちらを基準にして書いてあるのか、気をつけないといけない事があります。
矛盾する点は他にもいくつもあるのですが、そのあたりは、学者さんに任せるつもりです。
何しろ、筑紫の人間も、朝倉の橘の宮も岩瀬宮もすっかり忘れてしまって、行方不明なのです。
白村江の戦いで関連した人たちもかなり戦死したりして、荒廃したんでしょうね。
Commented by 次左衛門 at 2012-06-04 16:23 x
「古事記の神々」に、青木繁の事を書きました、次左衛門です。
小倉百人一首 天智天皇 「秋の田の・・・・」の、教科書等に書かれている解釈がどうしても納得できず、ずっと持ち続けていた私の疑問が、お陰で、ようやく解決しました。 
衣手の衣は「ソ」と読みますので、衣手は「袖」のこと、平安、鎌倉の文学では、袖の露は涙、袖が濡れるのは、泣いていることです。
百人一首の中にも、この歌のほかに三首がこの表現を使っていますし、平家物語には「鎧の袖をぞ潤しにけり」の様な表現があります。
私は、天智天皇が何故お泣きになっているのか解りませんでした。
天智天皇は母上の亡骸を前にして、涙を流されていたのですね。
Commented by lunabura at 2012-06-04 22:55
お久し振りです。
私もまさか朝倉で詠まれた歌だとは思いもよりませんでした。
山田の関の名乗りの事も。
刈り穂については、さらに多品種の吟味が行われていたとも。
今では失われた知恵が沢山伝えられています。
モガリの宮が残されていたのはまさに奇蹟ですね。
Commented by 次左衛門 at 2012-06-06 10:02 x
「御遺骸を一時山上に御殯葬され ・・」、「藁葬(季節から考えて麦藁でしょう)・・」 などの記述を見ると、
『かりほのいをの とまをあらみ』 の情景が漠然とではありますが、想像できます。

中大兄皇子は東への帰途、亡き母を偲んで(哀慕天皇)、
歌を詠んでいます。
中大兄は案外「お母さんっ子」だったのかもしれません。

小倉百人一首 第一番歌の意味が、私の中ではハッキリしました。
第二番歌 持統天皇 『春過ぎて・・・』も意味が素直に理解できませんでした。 が、この歌に関しては
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101276.htmlに書きました。しかし何故か皆様の興味を引きませんでした。
luna様、お暇の時、一度ご覧になってください。
Commented by lunabura at 2012-06-06 23:19
論文拝読しました。
なるほどですね。全く新しい読み解き方で驚きましたが、腑に落ちました。
ちょうど、日拝塚古墳でその夏至点の重要性を認識したところなので、
儀式の時に公に詠まれたのかも知れませんね。
香具山の場所については私にはまだイメージが出来ていないのですが、福岡の背振山なども数十年前までは積雪で真っ白だったので、雪解けを詠んだ可能性は十分にあると思います。
福岡の古代の気象については、真鍋大覚氏も詳しく記述されています。
福岡の古代の姿の認識はまだまだ夜明け前だと思います。
これから少しずつ明らかになれば、人々の関心も大きくなると思います。
Commented by 後藤 at 2016-02-09 23:44 x
蘇我氏の祟りに恐れた中臣鎌足の末裔が蘇我氏の無念を鎮めるために恵蘇八幡宮を守っていると言う考えかた
line

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


by lunabura
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー