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恵蘇八幡宮(2)なんと縁起に斉明天皇陵の所在地が書かれていた。

恵蘇八幡宮(2)  

なんと縁起に斉明天皇陵の所在地が書かれていた。
「高市郡越知岡村」は
牽牛子塚か?車木ケンノウか?
 

前回、斉明天皇の筑紫でのモガリの宮である恵蘇八幡宮木の丸殿を紹介しましたが、
なんと、その縁起の中に斉明天皇の陵墓の場所がはっきりと書いてありました。
これが境内の中の説明板です。
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前回も書いたのですが、もう一度書き写します。
 斉明帝藁葬地 (こうそうち)御殯斂地(ひんれんち)
山上には斉明天皇の御陵といわれる前方後円墳があります。斉明天皇は661年5月9日(新暦6月14日)橘広庭宮にお着きになり、7月24日(8月27日)病のため崩御されました。(御年68歳)中大兄皇子は御遺骸を一時山上に御殯葬され、軍を進め、後に奈良県高市郡越知岡村へ移される、と記されています。
あまりにさりげなく書いてあるので、この史料の重要さを見逃す所でした。

これが「恵蘇八幡宮縁記図解」です。
c0222861_14544061.jpg

(『温古』第41号(甘木歴史資料館)に掲載)
「恵蘇八幡宮縁起」によると、斉明天皇が朝倉橘広庭宮にいたころ、中大兄皇子がこの地で戦勝を祈願したところ、八幡神の旗が舞い降りたと伝えられる。縁起書は福岡藩の学者である貝原益軒の書とされる。
と説明してあります。開いたページには貝原篤信の字が見えます。

そこで今日のテーマは
この縁起はどちらを指している?
斉明天皇陵は牽牛子塚古墳か車木ケンノウ古墳か?
 


牽牛子塚古墳は考古学者が推定している古墳で、
車木ケンノウ古墳は宮内庁が指定している古墳です。

 まず、地名を整理しておきましょう。
恵蘇八幡宮に書かれた所在地  奈良県高市郡越知岡村
車木ケンノウ古墳      奈良県高市郡高取町大字車木
牽牛子塚古墳        奈良県高市郡明日香村大字越

この「奈良県高市郡越知岡村」について前回「その場所を教えてください。」と書いたら、
ブログ「徒然なるままに、、、」の管理人のじゅんじゅんさんから、
情報を頂きました。コメント欄ではもったいないので、ここに紹介します。
(ブログはサイドバーでリンクしています。)
「牽牛子塚古墳の現在の所在地は、奈良県高市郡明日香村大字越ですね。
ウイキペディアのよると、越智岡村は昭和20年までは地名として存在しし、高取町に属していたこともあるようです。以後何回かの市町村合併の後、昭和31年には、高市郡明日香村越となっています。地図を見ていただければ分かりますがと、高市郡と高取町は隣どうしです。話題になっている、牽牛子塚古墳がある所はその境界線あたりに位置しています。
恵蘇神社の由緒書って、スゴイ情報ですね!
話題になっている、牽牛子塚古墳がある所の事に間違いないと思います。」

すごい事になりました。
越知岡村は現在、高市郡明日香村越となっているそうです。
そうすると、恵蘇八幡宮に書かれている斉明天皇陵は牽牛子塚古墳になります。
地図 
車木ケンノウ古墳      奈良県高市郡高取町大字車木
牽牛子塚古墳        奈良県高市郡明日香村大字越


それでは、どうしてはるか離れた朝倉で斉明陵の所在地を知り得たのでしょうか。 

由緒書きを順に並べ直すとその理由が見えて来ました。
661年5月9日 斉明天皇は朝倉橘広庭の宮に到着する。
?月?日 中大兄皇子は恵蘇八幡宮の所在地に、宇佐神宮の祭神応神天皇を勧請して、
     朝倉山天降八幡宮とする。
7月24日 斉明天皇は病のために崩御。68歳。
8月1日  中大兄皇子は朝倉山天降八幡宮の山頂に、遺骸を移して、一時的に葬る。
     その中腹に木の丸殿を急いで立てて、12日間喪に服した。
     後、奈良県高市郡越知岡村へ移される。
673年?月?日 天武天皇の勅命により、斉明・天智天皇の二霊を合せて、三柱として、
        恵蘇八幡宮と改称する。

斉明天皇が筑紫に来た時は天武天皇も一緒でしたから、彼も母のモガリに立ち会ったはずです。
兄の天智天皇が亡くなってから、このモガリの宮を思い出したのでしょう。
ここに二人を合祀し、朝倉山天降八幡宮の名前も恵蘇八幡宮に改称しました。

どうして、具体的な地名が伝えられたのか? 
それは祝詞の奏上がヒントになります。
現代でも正式参拝すると、祝詞の中に自分の住所氏名が読み上げられます。
当時、神社の名前を変え、祭神を斉明天皇にするにあたって、
「斉明天皇は越智岡村に埋葬されました」と、奏上されたのではないでしょうか。
こうして、この地に斉明天皇陵の所在地が具体的に残されたと思いました。

さて、ここまでがルナの推理です。
これを立証するには「恵蘇八幡宮縁起図解」の内容を検討する必要があります。
関係者の方々によって、詳細を調べていただけたら、この斉明天皇陵の所在地は確定すると思いました。

地図 恵蘇八幡宮と木の丸殿





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by lunabura | 2010-09-22 15:30 | 神社(エ) | Trackback | Comments(17)
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Commented by jumgon at 2010-09-27 20:00
るなさん、あやまらないといけないことがあります。わたしのコメントの引用部分「昭和31年には、高市郡明日香村越となっています」についてですが「高市郡明日香村」には属してますが、越智岡村が今の地名で明日香村「越」になってるかどうか自信がありません。
気になって奈良県高取町についても調べましたが、まだハッキリしません。分かり次第まためーるします。
Commented by lunabura at 2010-09-27 20:16
じゅんじゅんさん、ありがとうございます。古い地名が微妙で、現代にそのまま繋がっているのかは、確かに綿密な調査が必要だと思いました。違っていたら違っていたで訂正しましょう。
それよりも、今大切なのは、こうして分かっている事だけでも、公表して、それを叩き台に真実に近づく事が必要だと思って、あえて出しました。負担をかけて済みません。
論文にするのなら、さらに、越に他に古墳がないのか洗い出さねばなりませんが、これはブログです。少しづつ真実に近づいて行けばいいと思っています。情報お待ちしています。
Commented by jumgon at 2010-09-27 20:38
このブログの地図で宮内庁が斉明天皇陵としている所を拡大してください。なんとすぐ近くに「大字越智」が見つかりました。とにかく明日香村と高取町の境目であることに違いありません。「越智岡村」が高取町かもしれないしあるいは村の半分は高取町、残りは明日香村に編入された可能性もあります。もう、明日香村か、高取町役場に聞くしかないですね。
Commented by lunabura at 2010-09-27 22:41
越知がその宮内庁の指定する陵墓の近くにあるのは前回気が付きまして、5番目のコメントに書きました。じゅんじゅんさんの後半の仮説を私も考えまして、それなら問題ないかなと思った所です。
ここは是非、地名研究家に登場していただきたい所ですね。
Commented by jumgon at 2010-09-28 13:37
貝原益軒が「福岡藩の学者である」なんて知りませんでした。
教科書レベルの知識で、「えらい人」くらいにしか知りませんでした。
ちょっと、調べて見ます。
Commented by lunabura at 2010-09-28 14:24
私も知りませんでした。ほんとに何も知らなかったのにあきれます。
でも、この人の書いた「筑前国続風土記」のお蔭で、いろんな伝承が伝わっています。この本は江戸中の藩が模範にして、同様の物を書いたそうですから、各地に江戸時代の風土記があると思われます。
中村大学から全文ダウンロードできます。子供でも読めると書いてあります。確かに文章は読みやすいのですが、何しろ、土地勘がないと分かりません。地名は生きた歴史なので、あちこちで変更になっているのがさみしいです。
Commented by jumgon at 2010-09-28 15:05
「筑前国続風土記」って素晴らしい記録ですね!
私も今「貝原益軒」→「筑前国続風土記」にたどりつき
11巻上座部の ○斉明天皇後陵のとこを 読みました。
天武天皇の「秋の田の~、、、、」の歌についても書いてありましたね!
「その説確かならずといへども里人の説にまかせしるしおく」とかいてるのを見て感動しました。
伝承を消滅させないで記録するという使命感をかんじます。
日本書紀にも「、、、、、、つまびらかではないが後の世のはんだんにまかせる、、、、」みたいな文がありますね。情報の記録を重んじたのですね。
ところで、私の住んでる南河内って、何藩の領地だったのかしら?
河内風土記って、あるか調べて見ます。
Commented by lunabura at 2010-09-28 17:58
え、「秋の田の」が載ってるんですか?ほんの今、図書館で借りて来た所です。読んでみます。じゅんじゅんさんは、もしかしてダウンロードした?沢山あるので、私はしてませんが…。
河内風土記、あればいいですね。すると、いろんな疑問が解けること請け合いです。
Commented by jumgon at 2010-09-28 20:55
「貝原益軒」→「筑前国続風土記」で検索するとここにきました。
http://www.lib.nakamura-u.ac.jp/kaibara/fudo/index.htm
河内風土記、やっぱり無いみたい。あったとしても引用文にさえ残ってないようです。
私の悪い予感が当りました!
検索で出てきたのは、「今東光」の小説、「河内風土記」ばかりでした!あ~ぁ
Commented by lunabura at 2010-09-28 22:54
検索したら「河内国風土記」というのがありましたよ。「国」を付けて再検索です。
また、「風土記」で検索すると、他に摂津なども出ていました。もう一度やってみてね。
と書いて、はたとこれは平安か奈良のものだと気付く。「続」をつけて検索すると、「紀伊続風土記」しか出ませんね。
あとは、市誌を調べると、きっと地元の本が見つかると思います。図書館へ、いざ!
Commented by 常夜燈 at 2014-12-26 14:41 x
こんにちは。通りすがりの者です。
ケンノウ古墳のある場所の旧住所は「奈良県高市郡越知岡村大字車木」ですよ。
斉明天皇陵の中腹にある八幡神社に「奈良県高市郡越知岡村大字車木鎮座村社八幡神社」と書いた表彰状のようなものが掲げてあったので間違いありません。
Commented at 2014-12-26 15:11 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by lunabura at 2014-12-26 20:43
常夜燈さん、こんばんは。
ようやく地元の方からコメントいただきました!

福岡からではさっぱり分からないのです。
当地に電話したことがあるのですが、つながらなかったので、さたやみのままです。
上記の記事のあと、
http://lunabura.exblog.jp/15199099/
で、三村のことをウィキペディアから抜き出していますが、
あまり分かりません。
どう評価したいいのか、よかったら教えてください。
Commented by 常夜燈 at 2014-12-27 00:41 x
こんばんは。
牽牛子塚古墳のある明日香村越は、江戸時代までは高市郡越村でした。明治になり周辺の村と合併して阪合村になります。
一方、ケンノウ古墳(宮内庁治定の斉明天皇陵)のある高取町車木は江戸時代までは高市郡車木村で、こちらは合併で越智岡村に属します。
結論から言うと、越は旧越智岡村に属していたことはありません。旧越村の西の旧真弓村(これも阪合村になります)が越智岡村と接していましたが、越村は接していません。
また、旧越智岡村は全域が高取町になっているはずです。
Commented by lunabura at 2014-12-27 21:55
詳しく教えていただいてありがとうございます。
これからもよろしくお願いします。^^
Commented by 後藤 at 2016-02-10 00:13 x
天智天皇の死後、混乱した世の中になり、これは蘇我氏の祟りに違いないと恐れた天武天皇が蘇我氏の祟りを鎮める為に恵蘇と改名したに違いない
恵蘇八幡宮のお祭りでは、唐人模様の獅子舞が見られ、そこには鬼も姿を見せている
シュロの毛を纏った獅子舞は他ではあれど、唐模様の獅子舞は恵蘇八幡宮の他では珍しい
Commented by lunabura at 2016-02-10 22:21
後藤さん、こんばんは。
コメントありがとうございます。
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