2010年 10月 17日
大嶽神社(4)祭神の大濱の宿禰は阿曇の連の祖/さばめく海人たちを束ねた人
大嶽神社(4)
祭神の大濱の宿禰は阿曇の連の祖
さばめく海人たちを束ねた人
貝原益軒の『筑前国続風土記』にその名前が出てくるので、現代語訳します。
神功皇后が新羅に行かれる時、御船は夜来て、
粕屋郡資河(しか)島に停泊されました。
お付きの者に大濱・小濱(おおはま・こはま)という者がいました。
皇后は小濱を呼んで、「この島に行って火を貰って来なさい」と言われたので、
小濱は手に入れて帰って来ました。
大濱(おおはまー日本紀の応神天皇紀に、阿曇(あずみ)の連(むらじ)の祖、
大濱宿禰とあるのがこの人であろう。)は尋ねました。
「近くに人家があったのか。」
小濱が言いました。
「この島は打昇浜(うちのぼりはまー奈多の浜)と近く、連なっています。
ほとんど同地と言ってもいいほどです。」
それで、近島と言ったのが、今は訛って資河島といいます。
大濱は神功皇后のそば近くに仕えた人
久し振りに神功皇后が出て来ました。これは新羅と戦う前の話です。
原文では大濱と小濱は「陪従」とあるので「お付きのもの」と訳しました。
これから分かるのは大濱は神功皇后のそば近くに仕えたという事です。
志賀島の語源
また、この話では「ちかしま」→「しかしま」となった語源の説明をしています。
博多の人の会話を想像しました。
「しかの島は、何で、しかの島と言うとね。」
「ああ、志賀島と奈多が近かったからじゃなかとね。
ほら、神功皇后が火ば貰って来いちゆうて、すぐに貰って来たろうが。」
「そうな。近かったから近島ね。チカ島がシカ島になったとね。なるほど。」
と噂し合って、神功皇后の話と結びつけましたとさ。
でも、真鍋大覚氏の研究では、
福岡県の博多周辺は海の中にあって、沢山の島があり、
多島海を千顆海(ちかのうみ)と言っていたという事なので、
これがもともとの語源ではないかと思いました。
今でも、壱岐の島からフェリー船で博多湾に入って行く時には、
沢山の小島が見られる、とても美しい多島海です。
眞鍋氏はこうも言っています。
枕詞として有名な「ささなみの」は「志賀・なみ・寄る・夜」などにかかりますが、
「ささの海」に浮かぶ「ささらふね」から来ていたとは、もう誰も知りません。
暦法家の家だからこそ、言い伝えたのでしょうね。
(ここが舞台となった打昇浜(うちのぼりはまー奈多の浜)です。
志式神社の裏手になります。
水平線の左の島影が濃いのが大嶽神社のある所。
その右奥の色の薄い丸い島が志賀島。)
大濱の宿禰には海人たちを束ねた功績があった
大濱については日本書紀の応神天皇の所に書いてあるというので、
そちらも調べました。
応神天皇3年の冬、10月3日に東(あづま)の蝦夷がことごとく貢ぎ物を献上した。蝦夷を使って厩坂道(うまやのさかみち)を作らせた。と書いてありました。
同年の11月に、あちこちの海人がサバメイテ(訳のわからない異国の言葉を話して)命令に従わなかった。そこで、阿曇の連の祖(おや)、大濱の宿禰(すくね)を派遣して、その海人たちを平定した。それから海人の統率者になった。こうして当時の人たちのことわざで「サバアマ」と言う由来となった。
応神天皇は神功皇后の子供ですから、さっきの話から20年位後でしょうか。
大濱は同一人物の可能性がある訳です。
新羅に勝利した神功皇后と竹内宿禰は国内でも
蝦夷や海人などを支配下に治めたのですが、
まだまだ不安定な時代だったのがこの記事で分かります。
面白いのは海人たちがサバメク事。
異国語を話すために言葉が通じなかったと解釈されています。
海人族といっても、いろんな氏族がいたのが想像されます。
その海人たちを平定した人が大濱の宿禰です。
彼の出自はこの志賀島を中心に活躍した阿曇族(あずみぞく)。
故郷の島にある、この大嶽神社に神として祀られていたのですね。
(ちなみに蝦夷も平安時代の本には外国語を話す国として描かれているので、
古代の日本ではいろんな国の言葉が話されていたのが分かります。)
(つづく)
境内の裏手のようすです。
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筑紫には海人族がイッパイいるのですね。何波にもわたって、やってきた人達。確か九州にも石器時代から人が住んでいたのですよね。
先住民との闘争や連携が様々にあったのでしょうね。
ところで、中国語を勉強してるって!すごいですね。私は韓国語も中国語もムリと潔く放りだしています。
中国語、そんな事書いてましたね。ラジオ講座を聞き流すだけです。ニイハオからあまり進歩してません。
福岡に縄文遺跡が少ないのは何故ですかと、考古学者に聞いたら、弥生時代のもっと下にあるから、単に掘ってないだけだと教えられました。
なるほどと、合点しました。
生まれたのが、伊都国(博物館のある地から、すこし北の地です)なので、古代探訪(WEB上だけですが)も時折楽しんでいます。
そして、学生時代は真鍋先生の講義に接したり、志賀島や大岳の海で遊んでいました。
(ヨット部の艇庫合宿所が、大岳神社の入り口の海岸にあるのです。)
それで、「那の国の星」やら、風の神・シナツヒコなど、とても親近感を持ちながら読ませてもらっていますので、どうぞよろしく。
志賀海神社はトレーニングのランニングコースの折り返し地点だったりするのですが、大岳神社は立ち寄った記憶がないです。
いつか帰省する機会があれば、思いあらたに立ち寄ってみたいです。