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ひもろぎ逍遥

三雲南小路遺跡・剣は上向き、朱を入れた壺は逆さまに置かれていた・伊都国歴史博物館(2) 


伊都国歴史博物館(2) 
三雲南小路遺跡

みくもみなみしょうじいせき
剣は上向き、朱を入れた壺は逆さまに置かれていた

博物館に来た目的の一つに、水銀朱の入った壺探しがありました。
伊都国の国王の古墳から、水銀朱を入れた壺が発見されています。
その壺は土器だったか、またどこにあったか、現地なら分かるかなと思ったのです。

水銀朱は有毒で、一定の金属と化合しやすいので、
保存容器は何でもOKという訳ではないそうです。
そこで、伊都国で発見された水銀朱は何に入っていたかを確認するのが目的の一つでした。
たしか、土器の壺だったように記憶してるけど…。

この歴史博物館には、ボランティアの人がいて、質問が出来るようになっています。
さっそく、尋ねました。
「三雲遺跡には、たしか国王の墓にに水銀朱の壺があったはずですが。」
江戸時代に、地元の人が土壁の材料を取る為に畑の土を掘ったら、
が出て来て、さらに下の方から朱が入った壺が出たそうです。
それからさらに下から甕棺が出て来ました。」
という事でした。出土品は一部しか伝わっていないそうです。
そして、教えてくれたのが、
「水銀朱を入れた壺は古代朝鮮支石墓の下に埋納されていた。
その影響が見られ、朝鮮ではブームが去った後、形を変えて日本に残った。」
という事でした。

伽耶とか、新羅とかいう時代よりずっと前だそうです。
だから、水銀朱を倭人は何故好んだかという問題については
古代朝鮮をも視野に入れて、見て行く必要が出て来ました。

そこで案内してもらったのが、三雲遺跡のレプリカ。
ボランティアの人たちが作った復元ミニチュアで、教えて貰わなかったら見過ごした事でしょう。
そこで驚いたのは、剣が突き刺さるように土中にあった事です。
(これが前回書いたとんでもないものの正体です…。)

伊都国ではいったい剣にどういう意味を込めて埋納するのか。
平原遺跡の鉄剣との共通点はあるのだろうか。
切っ先の向きを確認しなかったな、と思いながら帰宅して、
原田氏の本を開くと、あった、あった。
銅剣の先は地上に向けて埋納されていたのが分かりました。

三雲南小路遺跡・剣は上向き、朱を入れた壺は逆さまに置かれていた・伊都国歴史博物館(2) _c0222861_2122512.gif

これは、そのイメージ図です。(ホントにイメージなので、あしからず。)
追記
剣先ではなく刃先の解釈違いではないかと考えるようになりました。
銅剣の埋納は横に寝かせて刃を立てるのが基本だそうです。
もう少し勉強します。 2013年1月

では、該当の部分を抜粋しましょう。
文政五年(1822年)2月2日の出来事であった。怡土郡(いと)三雲(みくも)村の農長をしていた清四郎が、土塀を築くために屋敷から南に当たる字南小路という畑の土を取ろうと思い、偶然に掘ったことが大変なことになった。

地下90センチばかりの所から、切っ先を上にして埋めてある銅剣一本を掘り出し、又その横から銅戈(どうか)一本が出土した。その下を見ると素焼きの小壺が1個あって、さかさまに伏せられ中にはがいっぱいつまっていた。

勢いを得て、なおその下を掘ると、これも素焼の大ガメが2個あって、口と口を合せて横に寝せてあった。掘っていた者達は、その中に骸骨でも入っているのではないかとおじけづき、その日は大ガメは掘り起こさないで、その上から出土した物だけを持って、怡土の郡庁にとどけた。

郡庁は命令して、その下の大ガメを掘り出させた。その中は出るも出たり、古鏡が大小とりまぜて35面、銅鉾(ほこ)が2本、勾玉、管玉にガラスで出来た璧(へき)というもの等があった。これら多数の貴重な遺物を出土した墓が甕棺であったことは申すに及ばない。

このことは黒田藩に青柳種信という学者がいて、『柳園古器略考』という著書に記している。(『日本古墳文化―奴国王の環境―』 原田大六)

江戸時代の青柳種信氏のお蔭で、こうして出土状況が残りました。
そのお蔭で、探していた水銀朱の入れ物が素焼きの壺だったのが分かりました。
逆さまに置いてあったんですって!
また謎が増えた…。
銅剣の切っ先が上を向いていたのは、何となく、墓を守るイメージがあって、
なじみますが…。一緒に、銅戈があったとすると、
皇石神社支石墓の副葬品と同じ組み合わせですね!
(その写真は皇石神社古賀歴史資料館に載せています。)

この三雲南小路遺跡は弥生時代で、紀元前一世紀のもの!
卑弥呼平原遺跡より200年以上も前ですよ。
その後、昭和50年にはすぐ近くに王妃らしき甕棺を発見しています。
またいつか詳しく調べたいですね。
(この辺りに出た、1万個のビーズの話は三雲・井原遺跡に書いてます。)

取り敢えず、今回の目的、水銀朱の入れ物探しは素焼の土器という事で、一件落着しました。

ここでは、三雲南小路遺跡と、皇石神社の古墳の組み合わせ(銅剣と銅戈)が
同じだったのが予想外の収穫でした。
博多湾を中心とすると、東と西に同じタイプの埋葬があったという事です。
また、面白くなりますね。

さて、もう一つの謎を探そうっと。巨大柱の跡。分かるかな…。

(つづく)

地図 伊都国歴史博物館 三雲南小路遺跡 平原遺跡

★これは便利!
史跡巡りの前に、博物館に行くと、「伊都国散策マップ」が貰えますよ。




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Commented by jumgon at 2010-11-15 23:29
るなさん、有難う!!ゴザイマス。
三雲遺跡は、卑弥呼時代や平原より200年も早いのですね。
あっちこっちの古墳なんかを見てると時代がごっちゃになってしまいがちです。それにしても、ビーズの色彩の件で新聞にのってたところが三雲遺跡だと、繋がってきました。
わたしも新聞切り抜きとして、ブログにUPしたけど、場所なんかもハッキリ分かってなかった。(^_^;)
素焼きの壷に入った水銀朱のこと、調べてくださって有難うございます。
出土状況が分かるというのはいいですね!!
ただ出土品を並べただけだったら、どこも似たような棺や剣や鏡がでてきて、素通りしてしまいます。
本居宣長・青柳種信・貝原益軒など江戸時代にも人材が多いですね。
わたしが知らなかっただけみたい~
Commented by lunabura at 2010-11-16 18:19
埋納した状態が分かるというのは、当時の人の思想を知るのに、どれだけ貴重な情報かというのが、よく分かりました。少しずつ、時代も頭に入ってくると、古代日本はますます魅力的ですね。
by lunabura | 2010-11-14 21:44 | 平原遺跡と伊都国歴史博物館 | Comments(2)

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