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ひもろぎ逍遥

平原遺跡(3)巨大柱の跡と鳥居跡を再現してみました・当時、邪馬台国の支配下にあった


平原遺跡(3)
ひらばるいせき
糸島市
巨大柱の跡と鳥居跡を再現してみました
当時、邪馬台国の支配下にあった

平原遺跡の調査報告書が、2000年に出ています。
今日は墓の周りに建てられていた物について、考えてみます。

大柱
墓穴の東端から14.8mの位置に大柱を立てた穴がある。
その立て方は長野県諏訪大社の御柱と同じようになっている。
規模は「二の柱」程度で、直径65センチ、長さ15m前後で、
地上には13mの高さにそびえる。大柱は他に2本あった。

三つの鳥居
直径10㎝の柱が立てられる二つの穴が約2mほど離れて掘られていて、
それが三組ある。鳥居状のものが建てられたと考えられる。
砥石や鉄の矢じりが供えられていた。

墓の周りにモガリの宮は建てられていない
平原遺跡(3)巨大柱の跡と鳥居跡を再現してみました・当時、邪馬台国の支配下にあった_c0222861_22545097.jpg

前回出した写真ですが、周囲の土の層を見て下さい。穴がいくつもあります。
不規則ですね。
これを、原田大六氏はモガリの宮を建てたのではないかと推測されたのですが、
調査によると、穴の大きさが柱を立てるには、小さすぎるという事です。
もし、柱を立てたとしても、遺骸を乗せるのがやっとのスペースしか取れず、
またそれ以上の重いものを乗せるには、柱が耐えられない事が分かりました。
ですから、(くい)を立てる穴と解釈するなら、OKだそうです。
その杭が立てられたのが、盛り土をする前か後かは分からないとの事です。
このいくつもある杭の中の4つが四角形を作り、
さっきの鳥居の一つと関係している事が分かりました。
4本の杭列という名で後に出て来ます。)

木棺主軸と日向峠は、ずれていた
割竹形木棺の主軸は、大柱の南側をかすめて通り、かなたには日向峠より南側の
王丸山(標高453m)の北側稜線裾で、現在高圧線鉄塔のある近くを向く。
そこから朝日が昇るのは、現在は10月25日である。

さて、ルナが確認したかったのがこの木棺主軸と日向峠の関係です。
原田大六氏がこれについて書いた有名な一文を書き抜きます。
この華麗な女王が、あの太陽をかたどった八咫の寸法を持つ大鏡4面(正しくは5面)を生前に所有していたのである。だとすれば、この女王はいうまでもなく太陽祭祀を行った大女王であった。

この大女王を葬った木棺は、東南方の日向(ひなた)峠の方角に正確に合わせ、股間をそちらに向けてあった。こうなると、日向峠から昇る太陽の光芒は彼女の股間に射しこむことになる。太陽祭祀を行った大女王が太陽と性的に結ばれているこの事実を解釈すれば、彼女こそが太陽の妻であり、日本古典のあの「大ヒルメノムチ」であったことになる。

平原遺跡(1)でも、同じ部分を抜き出したのですが、
これについての結論が出ていました。
木棺主軸は日向峠より、少し南寄りに向いていたという事です。
これについて、「ずれている」のか、「まあまあ許容範囲」という二つの考えが
出てくると思うのですが、これまでのルナの経験からは、
古代の人の測量技術は厳密なので、この差は「日向峠を向いていない」
と結論づけました。

発見された新たな祭祀線
新たな祭祀線が発見されていました。
1号鳥居の中央―4本の杭の中央―大柱中央―三雲端山古墳の後円部中央―日向峠
が一直線に並ぶ。

日向峠を意識したラインは日の巫女の死後に造られました。
しかも、三雲端山古墳を通っているというのです。
この古墳との関連の研究が待たれます。
この日向峠から朝日の昇るのは、現在では10月20日です。
平原遺跡(3)巨大柱の跡と鳥居跡を再現してみました・当時、邪馬台国の支配下にあった_c0222861_22575659.jpg

これが想像図です。現地の写真に合成したのですが、距離は不正確です。
まあ、こんなものかなと大目に見て下さいね。
墳丘の向こうに大柱が立っています。直径が65センチ。
柱が立つ位置が墳丘から14.8m離れています。
高さが13m程だとすると、朝日が当たると、墳丘に影が届くのでしょう。
現在は10月25日にそれが起こるという事です。

三つの鳥居がすごい発見ですね。右端の鳥居に立つと、日向峠は大柱の陰になります。
その代りに、影がまっすぐ伸びて来るのでしょう。これが、日向峠の祭祀線です
この鳥居の形状は私が勝手に考えたので、当時がそうなのかは不明です。
鳥居のルーツはこんな風にして始まったのかも知れませんね。
これらの事から、この被葬者・日の巫女が亡くなったあとも、大切に祀られていたのが分かります。

ですから、木棺の首元の鉄剣を置いたのは、このクニの人でなく、
征服者が置いたのではないかと、考えるようになりました。
いきなり征服者が出て来たのですが、この遺跡は卑弥呼と同時代です。

この伊都国は邪馬台国の支配下にあった事が魏志倭人伝に書いてあります。
(「世、王あり。皆、女王国に統属す」)
邪馬台国はこの伊都国のにあると書いてあります。
伊都国の南にはヤマトという地名が二か所ありますよ。

さて、この墳丘の周りからは意外なものが出土しています。
次回はそれを考えてみます。

ブログ内でお散歩 (サイドバーからどうぞ)
平原遺跡(1)伊都国の日の巫女が眠る墓 原田大六氏が救った遺跡だよ
平原遺跡(2)出土した鏡は広げたパソコンより大きい!
            水色と青とピンクの宝玉を身につけた巫女
伊都国歴史博物館(1)平原遺跡 原田大六展に行って来ました 割られた鏡と首元の剣



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Commented by jumgon at 2010-11-19 22:27
三雲南小路遺跡と平原遺跡がごっちゃになりそうになりました。(^_^;)
発見された新たな祭祀線のことなんですが、「伊都国歴史博物館(1)平原遺跡」の中に載っている、黒白写真のところに、大柱とか鳥居?の穴の位置が示してあったらなあ~なんて思っちゃいました。
伊都国の南にヤマトという地名があるんですね!つぎつぎ謎が出てきて惑わされてしまいますね。

Commented by lunabura at 2010-11-19 22:44
実は私は平原遺跡しか、まだ行っていないのです。三雲の方は、博物館の「伊都国散策マップ」で、ようやく場所が分かりました。少しずつ見て行きますね。
さて、黒白の航空写真に穴の位置をという事ですね。今、まさしく準備中です。ただ、大柱の位置が測量図に書いていないので、不完全なものになる予定です。今回の復元想像図は、結構好きで、眺めているとワクワクします。ほんと鳥居を見ると、どこを走っていても、車を止めて行きたくなってしまいます。
by lunabura | 2010-11-13 23:15 | 平原遺跡と伊都国歴史博物館 | Comments(2)

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