2010年 12月 11日
天照神社(2)奉納された稲穂の由来
天照神社(2)
奉納された稲穂の由来
あっ、稲穂だ!
拝殿で目に飛び込んで来たのが左右の柱に掛けられた稲の束でした。
なんだかワクワク嬉しくなりました。
左は「奉 鶴田稲」 右は「奉 脇野稲」と書いてあります。
脇野と鶴田で採れた一番最初の稲穂を奉納するんですね。
これこそ本当の祀りの形。それが今なお継承されている。
では、今回は貝原益軒の書いた由緒書きの方を訳してみましょう。
この御神霊は垂仁天皇16年に初めて笠城山のふもとに降り、長屋山筒男という人に託宣しました。その人は大神の勅命を受けて、その笠城山のふもとの川でしばしば人に災いした大きなナマズを切って災難を除いたという事です。
八剣大神という神がこの辺り8か所に鎮座するのもこの時、大神が授けた剣を収めた所です。
その後60年過ぎて、同じ帝77年の春、笠城山の上に初めて神殿を作って崇めました。秋ごとに初めて刈り取った稲の初穂を大神に奉納しました。秋の収穫の頃、民は暇がなくて峰の上まで登山するのに困っていたので、麓の谷に稲の穂を掛けて奉ったので、その谷を穂掛谷と名付けました。今佛谷というのは訛っているのです。
その後、允恭天皇の御世にこの社が野火に焼けてしまいました。人里から離れているのでこんな災いがあるのだろう。老人や子供たちが高い山に登るのも難行だしと言って、麓にある穂掛谷にあらためて作って移しました。その時、数千の石を集めてその上に神殿を建てたので、千石原と言うようになりました。
人に災いしたナマズを退治するように命じたのが最初のようです。
その時の剣が八剣神社の謂われになっています。
笠置山に神殿を作って初穂を奉納していたのですが、
農繁期には登山が大変なので、麓で奉納するようになりました。
上宮から中宮へと神社が下っていったようすが伺えて興味深いです。
拝殿の左には三羽の鶴の像がありました。これは珍しい。
この鶴にも謂われがありました。続きを読みましょう。
その後、淳和天皇天長5年の冬、明野の里に宮殿を建てて、穂掛谷から移しました。明野は今は脇野と言うようになりました。
長屋山筒男は長寿でその御霊を明野に祀り長屋大明神と言います。この山筒男の末裔が天照宮の御祭を執り行い、今に続いています。
花園院の延慶元年、ある人の夢に大神が告げました。
「白い鶴が住む所にミヤシロを遷しなさい。」と。夢のお告げに従ってそのしるしを捜すと、今の鶴田の里に白い鶴の雄雌のつがいが棲んでいました。そこで、明野から今の所に移し、鶴田と名付けました。鶴が喜んで舞ったと言う事からその上の山を鶴喜山と名付けたと言います。
社殿は笠置山から穂掛谷、脇野、鶴田と移動していく理由が伝わっていました。
社殿の二つの稲穂は移動前の脇野と現在の鶴田から奉納されていたんですね。
鶴喜山(つるき)と剣(つるき)も掛けてある!
記録には、かつては三社ともに三日間神食(みけ)を祀ったりして、
たいそう盛大な奉納の祭りが行われたようすが書かれています。
貝原益軒はこの天照宮の由緒書きに大変、力を入れて書いていますが、
残念な事に、この御祭神を天照大御神と勘違いしています。
天地が別れた時からとうとうと書き起こしていて、名文なのですが、
天照大御神まで書いて、そのままこの神社の由緒に移っているのです。
私の読み違いではないかと、何度も読み返しましたが、
「鶴田の里におはします天照宮は則天照大神を祭奉る所也」と書いています。
勘違いしたようです。ニギハヤヒの正式名が
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊ですからね。まっ、こんな事もアリですね。
それ以上に、その記録の素晴らしさを称えたいと思います。
さて、神殿をぐるりと廻って見ました。
これが神殿の裏側です。裏にもしめ縄があるのは珍しいです。
これを背にして外を見ると、四角く突き出た土地がありました。
塀の鍵が掛かっています。あれ、遥拝所じゃないかな。
木々が生い茂って見通しが利かないので、境内の外に出て裏に廻って見ました。
それがこの風景です。一番高い山が笠置山かな…。
今日は全く人に出会わず、確認する事が出来ませんでした。
さて、考古学的にアプローチすると、「笠置山」といえば、
弥生時代の「石包丁」の材料の輝緑凝灰岩の産地なんです。
この山の向こう側で石包丁に加工されたものが佐賀県や大分県でも出土しています。
そういう意味でも笠置山は興味深い山です。
さてさて、るなの推理コーナー。
この神社の横の川が犬鳴川だと知って、思ったのですが、
イヌナキーイナキなどは製鉄の工人の隠れ里を表す地名なのです。
ここが鉄器を作った物部の里だというのを合わせると、
山の上に掛けられた穂はもともとは葦の穂じゃないかな。
つまりスズ鉄の材料になる葦の繁茂を願って掛けられたのではないかなと。
ところが時代を経て水位が下がり、沼地が稲作地に代わって行ったために、
葦の穂が稲の穂の奉納に代わっていったのではないか、と。
この神社の伝承にそんな古代を重ねました。
さて、表層から伺えるのはこんな所でしょうか。
この神社を支える歴史の奥についての本があるので、
次回はそれを紹介したいと思います。
♪ ニギハヤヒの現代語訳を始めました。(『古事記の神々』)
考える?牛
地図 笠置山・穂掛神社 脇野 鶴田 天照神社
ブログ「徒然なるままに、、、」で、スズ鉄について分かりやすくまとめられています。
わが国の鉄の歴史・スズについて
http://jumgon.exblog.jp/15138704/
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これって、ありかもしれませんね!
大阪府の南に「犬鳴川」があって、その渓谷は確かキャンプ場があります。離れていますが笠置山もあり一度行ったことがありますが、石、岩がごろごろあるところです。
天照神社つづき、待ってます!
雁多尾畑の金屋彦神社もそうらしいです。そのうちUPしたいと思っています。
大阪にも犬鳴川とか笠置山があるんですか!!!!びっくりです。
こちらも、キャンプ場があります。穂掛神社にトライしましたが、アタック失敗。里の人を見つけて、ようやく場所が分かったので、もう一度トライします。
ここは中心的なお宮ということで、代々大切にされて来ていて、歴史が奥深くて、大変興味深い宮です。
貝原益軒も力を入れてますね。
明治時代まで、あまり人の移動がなかったそうですから、きっと子孫に違いないと思います。
伝承が伝わっていれば、大変大事なものです。もし、調べる機会があったら、是非結果を教えてくださいませ。
>残念な事に、この御祭神を天照大御神と勘違いしています。
>天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
「彦」という男性名のついた祭神を、女性格である「アマテラス」と勘違いするでしょうか?
貝原益軒が。
仮説1:皇祖神と天照大神は別物?
仮説2:元々、男性格の日神と、女性格の日神が存在した?
仮説3:なんもかんも明治の廃仏毀釈と国家神道が悪い?