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鴻盧館(2)空海も最澄もここに泊まって旅立った

鴻盧館(2)

空海も最澄もここに泊まって旅立った


鴻盧館の遺跡の周りは野球場の巨大なフェンスで囲まれていますが、
沢山のパネルが掛けられていて、歩きながら歴史を知る事が
出来るようになっています。今日はその説明板からです。

外国船がやって来た
鴻盧館は文献上には持統2年(688)、「筑紫館(つくしのむろつみ)」として初めて表れ、平安時代になって中国風の「鴻盧館」という名に変わっています。

鴻盧館は9世紀前半まで、唐や新羅の使節を接待・宿泊させる迎賓館であり、遣唐使や遣新羅使が旅支度を整える対外公館でした。

9世紀後半以降、鴻盧館を訪れる主役は唐(後には五代・北宋)や新羅の商人となり、中国・新羅との貿易の舞台となりました。

奈良時代までは、唐や新羅の使節が来ると、この鴻盧館に収容されて、
朝廷の許可が下りると、都へと向かったそうです。
この当時はすでに平城京と筑紫の間にはまっすぐの道が作られていて
駅家(うまや)が16キロごとに整備されていて、太宰府から都まで「4日」でした。
(2009年11月24日放送 NHK『謎の古代の道』より)
外国船が着くと、10日も待てば朝廷の許可を受ける事ができたんですね。

鴻盧館はツイン。北館と南館に分かれています。
外国人と日本人を分けて泊めたのではないかという事です。
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当時の想像図です。鴻盧館のすぐ下は崖になっていて、
現在の地下鉄あたりは海になっています。
左手前に見える島が西公園です。今はそのあたりまで陸地になっています。

遣唐使船もやって来た
遣唐使も難波から出発してここまで来たら、いよいよ日本とお別れです。
ここは最後の宴の場だったのでしょう。
空海、最澄、吉備真備、小野妹子、阿倍仲麻呂なども、
泊まっているはずですよね。

展示館には遣唐使の資料も沢山ありました。

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遣唐使は630(舒明2)年8月に犬上御田鍬(いぬがみおたすき)らを最初に、894(寛平6)年に菅原道真の建議で廃止されるまで20回計画され、うち15回が派遣された。

造船・航海術が未熟な当時は、東シナ海を横断することはきわめて危険で、8回の遭難記事がある。遭難覚悟の厳しい航海であった事を示す。はじめ2隻の航海であったものを4隻に増やし、出発日をそれぞれずらしたのも、遭難を避け、とにかく一隻でも中国に着きたいという配慮であった。(展示館パネル)

陸に添って行ける北路が絶たれたために、
直接東シナ海を通るので、大変になりました。
この遣唐使船に乗ったのは最澄・空海ら留学僧はもちろん、
ガラス、鍛冶、鋳物、木工、音楽の技術研究者たちもいました。
乗船メンバーの名前もきちんと記録が残っています。
そして朝貢船ですから、多くの貢物が乗せられていました。
銀や布織物、水晶、琥珀、めのう、他。
そんな具体的な話を次のブログで知りました。

遣唐使船の乗組員と持参した朝貢品
http://jumgon.exblog.jp/15231968/
「徒然なるままに、、、」


遣唐使の費用は、唐が認めたら、上陸後の分を負担してくれたそうです。
けっこう現代に近い経済感覚も見られて面白いです。

それまでの「倭国」という国名を「日本」と変えたい時も、
遣唐使が行って、唐に承認を求めるという手続きを取ったそうです。
認めてくれたのは則天武后だったとか。(と、TVで見たばかりのうんちく)

執念の発見者は中村平次郎氏だった
鴻盧館の場所はずっと分からなかったそうです。
明治4年生まれの中山平次郎氏は福岡医科大学(九大医学部の前身)の教授で、
考古学に関心があり、万葉集を紐解いて、この場所を見つけたそうです。
「筑紫館に至り、遥か本郷を望み いたみて作る歌 四首」から
「志賀島が見える場所」
「波の音が聞こえる場所」
「ひぐらしが鳴く場所」
などの条件に合う場所を捜し続け、「福岡城址の位置より他にはない」と特定しました。

ここからが凡人と違う所…。
当時の福岡城址陸軍歩兵二十四連隊営所で、一般人は立ち入り禁止でしたが、
招魂祭の日だけは立ち入りが許されました。中山博士はこの日を利用して営内に入り、かねてより目星をつけていた場所から奈良時代の瓦や陶器を掘り当て、自説に確信を持ちました。

ちなみに、その際には「営内でスコップを持った怪しい奴がいる」ということで憲兵隊に留置されるハプニングもあったとか。実兄である九州大学医学部教授の中山森彦氏が陸軍軍医少将だったため、直ちに釈放されたそうです。

戦後、昭和24年(1949年)に平和台野球場が建設されましたが、昭和62年(1987年)の外野席改修工事の際、ついに鴻盧館の遺跡が発見されました。中山博士の予見通り、ここに鴻盧館が存在したことが確定、現在も発掘調査が続いているのです。

鴻盧館の位置を予見し、板付遺跡や元寇防塁の発掘にも貢献するなど福岡の考古学を語る上で欠かせない中山博士は昭和31年(1956年)、85歳で亡くなりました。
(パネルより)

どんな遺跡も、先人の苦労と戦いのお蔭で、こうして残されるんですね。
それにしても万葉集から謎解きをしたなんて、面白い!
中山平次郎氏は、まるでシュリーマンのような存在だったんですね!

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中山平次郎氏

鴻盧館展示館
開館時間 9:00~17:00(入館は16:30まで)
休館日 12月29日~1月3日 
入館料 無料
電話 092-721-0282


中山平次郎氏の足跡をブログ内で辿る  ⇒ 板付遺跡
 
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by lunabura | 2011-01-06 17:40 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(4)
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Commented by jumgon at 2011-01-10 20:46
板付遺跡を見つけたのも 中山平次郎氏なんですか!
板付遺跡一度読んだけどもう一度読み直しますね。
太宰府から都まで「4日」とは早いですね。馬で移動したのかしら?
Commented by lunabura at 2011-01-10 22:24
中山平次郎氏の名前はちらちらと拝見していて、他に金印の出土地の特定や、石斧、青銅器などの研究で、福岡の弥生遺跡の重要性を世に知らしめた人です。私も、ここで初めて、きちんと知りました。原田大六氏なども含めて、遺跡に出会った研究者の強い意志に感動せずにはいられません。
駅家には馬が5頭ほど飼われていて、使者は乗り換えながら走ったそうです。そう。鈴をつけてね。ルートは現在の高速道路とかなり重なるそうです。例の平城京の前の広い道から、四方へ出来たそうです。
Commented by jumgon at 2011-01-10 22:37
ほんとに、色々な先人のおかげで現在が成り立っているのですね。
私みたいに本やHPで簡単に知識を得るのではなく、あちこちの文献を渉猟したり遺跡を見たりしたすえにやっと分かる貴重な知識。
書物を読んでると、よくここまで調べたな、と思うことがあります。
実際の発掘や遺跡の保存、研究などはホントニ地道な作業の連続だと感嘆します。
Commented by lunabura at 2011-01-11 14:15
同感です。たくさんの魅力的な古代の遺跡や古墳などの中から、これを一つだけと定めた人は、大きな貢献をしてくれるんだなと、思います。そして、その成果を私たちが礎としてさらに発展させる事が出来れば、地道に研究した方々もきっと喜ばれるだろうな、と思います。
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