2011年 07月 26日
若八幡神社(1)妹を殺された夏羽は…日本書紀の続きが伝えられていた
若八幡神社(1)
福岡県田川市夏吉
妹を殺された夏羽は…
ここには日本書紀の続きが伝えられていた
日本書紀の神功皇后の巻にこう書いてあります。
20日にソソキ野に着いて、すぐに兵を挙げて羽白熊鷲を討って滅ぼしました。皇后は側近に語って、「熊鷲を討ち取った。これで私の心は安らかだ。」と言いました。それから、そこを名付けて安(やす)と言うようになりました。
25日に移動して山門県(やまとのあがた)に着いて、即座に土蜘蛛の田油津姫(たぶらつひめ)を討ち取りました。その時、田油津姫の兄の夏羽(なつは)が軍勢を興して、迎え討ちに来ました。しかし妹が殺された事を聞くと、そのまま逃げました。
この話の舞台は福岡県の筑後地方です。
地元の伝承と日本書紀をまとめるとこうなりました。
仲哀天皇が殺された後、神功皇后軍は20日から羽白熊鷲と戦って勝利を収めた。
そして25日には田油津姫を攻撃するために小郡市上岩田の老松神社に布陣した。
青い陣営の内、中央にあるのがその老松神社です。
わずか一週間で二か所の敵を攻撃するのですから、
神功皇后を旗頭に据えた物部軍の勢いはすさまじいものです。
天皇を殺された怒りと屈辱に護衛隊は怒髪天を突くという状態です。
御勢大霊石神社の伝承によると、
仲哀天皇は「熊襲」の流れ矢に当たって死んでいます。
「熊襲」については付近に伝承が見つからないので、
「熊鷲」の事ではないかと私は思っています。
だから、羽白熊鷲を猛攻撃するのに躊躇が無かった訳です。
でも、どうして?
どうして田油津姫までも攻撃されなければならなかったの?
老松神社がその時の陣営だと知った時、新たな謎が生まれました。
それについて日本書紀には何も書いていません。
しかし思いがけず疑問はわずか二日後に解けました。
この若八幡宮にその原因と結末が伝わっていたのです。
それではまずは神社に行きましょう。
ここは田川市夏吉。
気持の良い田園地帯を走ります。
川の向こうにこんもりとした杜があって、すぐに分かりました。
一の鳥居は川に向かっていました。道路拡張の為に少し下がったそうです。
かなり古そうな趣です。
杜の緑陰の深さが、歴史の古さを思わせます。
すぐに拝殿に出ました。
まるで江戸時代の寺子屋か武道場のような趣で、
大勢で参籠出来るような造りです。
この神社の由緒書きは一の鳥居の所に大きく立てられていました。
それを読んで驚愕。
人皇第12代景行天皇の熊襲征伐に際し、天皇を周防の佐波(今の防府市)まで出迎え、九州平定に寄与されたのが我が夏吉地域開発の祖神、神夏磯姫でした。
「榊の枝に八握剣、八咫鏡、八坂瓊をとりかけ、船の舳先に素幡をたてて参向した」と日本書紀には記されています。
年代は下がって、姫の後裔夏羽は朝廷に恨みを持ち、神功皇后の暗殺を企てた妹、田油津姫を援(たす)けんと軍勢を催してかけつける途中で、妹の敗戦を知り逃げ帰って館に立て籠ったところを、追って来た皇后の軍勢に焼き殺されました。(岩屋須佐横の洞窟との説もある)
それ以来、夏羽焼―夏焼とこの村が呼ばれる事になったのです。
夏羽(なつは)はこんな遠い所に住んでいた!
しかも、神夏磯姫(かむなつそひめ)の末裔だって?
あの景行天皇を迎えに行ったのはここからだった?
それに加えて田油津姫は神功皇后を暗殺しようとした?
何故?どこに二人の接点はあるというのか?
(つづく)
御勢大霊石神社
老松神社
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末裔と言っても先祖と同じ考えとは限りませんよね。
ところで、地図を褒めて頂いたのに、ソフトが不具合になって、新たに作れない状況に陥っています(--〆)
パソコンっていろんなハプニングがあって、これまた難しい世界ですネ。