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ひもろぎ逍遥

若八幡神社(2) 神夏磯媛と香春岳と新羅


若八幡神社(2)

神夏磯媛と香春岳と新羅

この神社の伝承を読んで疑問だらけになってしまいましたが、
まずは御祭神を調べましょう。
神夏磯媛(かむなつそひめ)
仁徳天皇
応神天皇
神功皇后
小笠原忠眞命(おがさわらただまさのみこと)

祭神は本来は「神夏磯姫」を祀っていたのが、
子孫の夏羽たちの怨霊鎮めの為に八幡神が勧請されました。

今回はこの神夏磯媛と夏羽の二つの時代を考えてみます。

景行天皇と神夏磯媛の時代
主祭神の神夏磯媛について、日本書紀の景行天皇の巻で確認しましょう。
9月5日に周芳(すは)のサバに着きました。その時、天皇は南の方を見て、群臣たちに「南の方に煙が沢山立っている。きっと賊がいるに違いない。」と言いました。

そこに留まって、まずは多臣(おほのおみ)の祖の武諸木(たけもろき)と国前(くにさき)の臣の祖のウナテと物部の君の祖の夏花(なつはな)を遣わして、その状況を調べさせました。

そこには女人がいて、神夏磯姫(かむなつそひめ)と言い、人民も大勢いました。姫は一国の首長という存在でした。神夏磯姫は天皇の使者が来る事を知って、すぐに磯津(しつ)の山の榊を抜き取って、上の枝には八握の剣を掛け、中の枝には八咫鏡を掛け、下の枝には八坂瓊(に)を掛けて、白旗を船の舳先に立てて、迎えて言いました。
「どうぞ兵を差し向けないで下さい。我らは叛くような者ではありません。今こうして帰順いたします。ただ服従しない者たちが他にいます。

一人は鼻垂(はなたり)と言い、勝手に自分は王だと言って山の谷に集まって、莵狭(うさ)の川上にたむろしています。
二人目は耳垂(みみたり)と言って、しばしば略奪してむさぼり食ったり、人々を殺したりしています。御木(みけ)の川上に住んでいます。

三人目は麻剝(あさはぎ)と言い、ひそかに仲間を集めて高羽(たかは)の川上に住んでいます。
四人目は土折猪折(つちおりいおり)と言って、緑野の川上に隠れ住んで、山川が険しいのを当てにして、人民をさらっています。

この四人は要害の地に住んでいて、それぞれに住民がいて、一国の首長だと言っています。それらは皆『皇命には従わない』と言っています。どうぞすぐに攻撃して下さい。時期を逃さないで下さい。」と言いました。

そこで、武諸木たちはまず麻剝の仲間を誘いこむ事にしました。赤い上着や袴や珍しいものをいろいろと与えて、かねてから服従しない他の三人を連れて来るように言いました。すると、仲間を連れて集まって来ました。武諸木たちは彼らを残らず捕えて殺しました。

天皇はついに筑紫に入り、豊前の国の長峡(ながお)県(あがた)に着いて、行宮を建てて住みました。そこを(みやこ)と呼ぶようになりました。
                    
これを読むと、この神夏磯媛のクニの周辺の山岳地帯に
四つほど小国があった事が分かります。
高羽は田川で、莵狭は宇佐だといいます。

まつろわぬ者たちが山岳地帯に住んでいるのは、
鉱山を中心に集落を作っていたのがクニとして発達したのであって、
彼らが人をさらうのは、鉱山の働き手を確保するためだと思っています。
事故が多いため、里人を拉致して働かせるのが手っ取り早い。

景行天皇が来たといっても、彼もまた小国の首長なので、
服従する気などさらさらなかったでしょう。

各国それぞれに鉱山を持っていて、それなりに均衡がとれていた時代に、
神夏磯媛だけが景行天皇に帰順した していたという状況です。
それでは神夏磯媛はどんな鉱山に関わっていたかというと、
この若八幡宮の前に立てば一目瞭然でした。

若八幡神社(2) 神夏磯媛と香春岳と新羅_c0222861_16104079.jpg

神社の鳥居の向こうに、香春岳があったのです。
香春岳と言えば、先に書いたように銅山です。

若八幡神社(2) 神夏磯媛と香春岳と新羅_c0222861_1611299.jpg

これは香春岳の全容です。
右の台形に削られた山が一の岳。祭神は辛国息長大姫大目尊
中央が二の岳。祭神は正哉吾勝々速日天忍骨尊
左が三の岳。祭神は豊比売尊。銅はこの三の岳から採れます。

香春岳の銅山は「辛国(からくに)」が象徴するように、
新羅系渡来人が開発したと伝えられていて、
その末裔に神夏磯媛の系統があった可能性は高いと思います。
神夏磯媛は彼女なりにクニの安泰化を図って天皇に帰順し、
豊かな国造りをしました。
これが景行天皇の時代です。

仲哀天皇と夏羽の時代
次にやって来た仲哀天皇は景行天皇の孫にあたります。
夏羽田油津姫兄妹も神夏磯媛の孫か曾孫に当たるのでしょう。

仲哀天皇と神功皇后が筑紫入りしたあと、この一の岳の向こう側に廻って、
鏡山大神社で鏡に皇后の御魂を鎮めて祀ったと伝えられています。
彼女が奉納するのは大体は銅剣などの武器ですから、よほど重要な山です。
他に鏡を奉納した所は、今のところ私が知っているのは唐津市の鏡山稲荷神社です。
(どちらにも白石信仰があります。)

神夏磯媛の時代は景行天皇が来ても、何とか丸く収めて、
この銅山の実質的な権利をそのまま継承して朝貢で済ませていたのが、
今度は仲哀天皇が来て銅山の権利や朝貢額を確認した上、
今度の戦争への負担を要求されたと思います。

この時応対したのが、夏羽だと思われます。
この時、夏羽側に不利で納得出来ない交渉があったと考えました。
ポイントは仲哀天皇の皇后もまた新羅の王統の血を引いているという点です。
その御霊を目の前で鎮められたのですから、
夏羽側は良い思いはしなかった事でしょう。

銅山経営者から見たら、仲哀天皇は利潤を掠め取るような存在です。
田油津姫がこの現場にいたかどうかは不明ですが、
神功皇后を暗殺しようという気持ちが生じたとしたら、
この香春岳についての利権の問題が絡んでいると考えられます。

田油津姫の暗殺未遂現場として、
「古賀市の小山田斎宮であり、そこで捕えられて殺された」という伝承もあります。
小山田斎宮と言えば、神功皇后が一週間祈祷をして神意を尋ねた所です。
ここに田油津姫がいたとしたら、かなり近しい関係になります。

小山田斎宮で殺されたとすると山門での田油津姫討伐は無いことになります。
山門での戦いの伝承もまた、かなり濃厚にあるので、
仮に暗殺未遂事件が小山田斎宮で起こったとしても、
彼女は山門に逃げて、そこが戦場になったと想像しています。

考えてみると、神夏磯媛から田油津姫にかけての時代は、
佐波から山門まで、かなり広い地域に影響力が及んでいた事になります。

物部氏と土蜘蛛たち
物部氏の分布図に「夏羽と熊鷲と田油津姫」を重ねてみました。
若八幡神社(2) 神夏磯媛と香春岳と新羅_c0222861_1613526.jpg

赤い丸が物部氏です。黒い■が夏羽や熊鷲たちです。
こうして地図を眺めていると、
物部氏は遠賀川や筑後川流域で発展していき、隕鉄やスズ鉄を生産していたのが、
川が堆積して陸化して行ったために原料確保が出来なくなって行き詰まり始めた
状況が読み取れます。

一方神夏磯媛や鼻垂、耳垂、麻剝、土折猪折、羽白熊鷲たちは
山の方に住み分けして金や銅を生産し、
あるいは買い付けた鉄原料などを鍛冶生産していました。

川が陸地化して行く事が両者のバランスを崩し、
軋轢が大きくなって行った原因の一つになったと思われます。

しかも、韓半島ではすでに鉄鋼石を製鉄する時代に入っていて、
どんどん鉄製品が流通していきます。
庶民の農機具まで鉄製品になって行きます。
その人たちの一部が筑紫に入って来る時代です。

その韓半島では、紀元1世紀の首長の中には、
古墳の床に鉄の延べ板をびっしりと並べる者まで現れました。
(慶尚北道 舎羅里(さらり)130号古墳)

鉄は貨幣の代わりを成すようになり、
あらたな経済の枠組みが生まれようとしていました。
神功皇后が奉納して廻った青銅の武器は時代遅れになろうとしていました。

そんな時代の変化のうねりの中で、夏羽と田油津姫は殺されました。
倭国が香春岳の支配権を新羅から完全に断絶したとなると、
新羅本国との戦いは避けられない状況が生まれて来ます。
それまでにも豊浦宮では、仲哀天皇が新羅の襲撃を受けている事も
忘れてはなりません。

夏羽が妹を助けるために軍を起こした事は
物部軍に夏羽討伐の格好の口実を作ってしまいました。
そして夏羽軍が滅びた事は、天皇家の筑紫~筑豊の金属生産の
完全制圧という結果をもたらしました。
そして視線は海を越えて鉄の豊かな韓半島へと向けられました。

仲哀天皇を亡くして暴走する物部軍をもう制する事は出来ない。
神功皇后は新羅攻撃を拒否できない状況に立たされました。
このあと、神功皇后は筑紫の西の方の那珂川町へと連れられて行きます。
(現人神社、裂田神社・伏見神社)

(注。仲哀天皇9年を西暦200年として考えています。新羅がまだ辰韓だった時代です。
新羅は「社局」が母胎だと言われています。)

参考
舎羅里(さらり)130号古墳 紀元1~2世紀
新羅の母胎「社局」の近くで発掘された慶尚北道「舎羅里(さらり)130号古墳」
の記事と副葬品(韓国のサイトです。)
鉄の延べ板が63枚敷き詰められている。
 http://translate.google.co.jp/translate?hl=ja&langpair=ko%7Cja&u=http://www.yeongnam.com/yeongnam/html/yeongnamdaily/culture/article.shtml%3Fid%3D20100526.010200807020001
(つづく)




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若八幡神社(2) 神夏磯媛と香春岳と新羅_c0222861_15184581.gif


Commented by jumgon at 2011-07-26 14:19
景行天皇と神夏磯媛の時代
確か「古事記の神々」で読みました。少し前なのでよく覚えています。何度も読むと定着してきます。
神社の伝承と重なって解釈ができるようになりますね。
るな探偵の推理は当たってるでしょうか?
Commented by lunabura at 2011-07-26 15:18
ふふふ。どうなんでしょうかね? (-。-)y-゜゜゜

それにしても、新羅の前身が辰韓で、その母胎が「社局」あたりだったという事で、リンクしている、サラリ古墳群の埋納品を見ると、かなりハイテクなので、戦いは厳しそうですね。
こちらから船で攻めるのはかなり不利だと思うのですが。
Commented by 桜もち at 2013-03-12 00:01 x
ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。

私も同じく『合祀で封じ込め』だ!と思いました。
この場所に遷座する以前の大宮司屋敷の場所が不明なので正確なことは判らないのですが…若八幡神社を中心として約半径3km圏内の丘陵地に遺跡や古墳(夏吉古墳群含む)が点在しているので、この一帯総てが夏羽の支配地域で、封じ込めの対象になっているのではと思っています。

夏羽の怨念の理由の解釈については、るなさんとは少し違うのですが…。
元々『神夏磯媛』に興味があり旧豊前国を調べていたのですが只今、中断中(昔から何かと縁のある『物部』が気になり出して…)で確証と結論は出ていないので自信はないです!(笑)
Commented by lunabura at 2013-03-12 11:05
桜もちさん、こちらに書いて下さってありがとう。
遷座前の大宮司屋敷の場所を探すのが一つのポイントなんですね。

また、夏羽の怨念については、まだまだ資料不足で、
当てずっぽうです。
夏羽と神夏磯姫についても、夏羽は孫なのか、あるいは子供なのか、
何らかの手掛かりがないかなと思っています。
リンクしている「らくがき・のおと」さんも神夏磯姫を調べています。
仮説の段階でも、桜もちさんの解釈が聞きたいです。
その方が、切磋琢磨して、辿りつくのが早いような。
物部もどうしても気になりますよね。(^-^)
Commented by 桜もち at 2013-03-13 00:09 x
るなさん、こんばんは。

悲しいことにPCがOUT!で、昨年末より携帯生活なのでリンク先の閲覧も公開講座の申込も難しいのです。以前の資料は手書きメモと記憶が頼りで…、現在は大己貴とニギハヤヒの関係にも行き詰まってます(涙)

現時点での妄想考察の概略は、神夏磯媛は旧豊前国地域の支配者(女王)で、彼女の都は現在の行橋市を中心とした地域にあって、景行天皇により都を追われ、彼女の一族は聖地であり職能集団の居住地でもある香春岳周辺に移り住むことを余儀なくされ、夏羽兄妹の遺恨を生んだのでは…と考えています。
当初この一族は、物部系なのか秦氏族なのか悩みましたが、今は秦氏族ではないかと思っています。
Commented by lunabura at 2013-03-13 00:41
PCがアウトとか、大変ですね。
行橋市とは!
大変興味深いですね。
神夏磯姫が行橋市から迎えに行ったというのは無理がないですね。
日本書紀では、海岸に近いという印象ですから。

私も、夏羽あたりの件は、景行天皇に遡らないといけないなと思っています。
物部氏か秦氏かという点は、神夏磯姫が迎えに行った相手に夏の字がついているので、
夏がつくのは物部氏かなという、もともと同族かなという単純な考えを以ています。
何の根拠もないので、記事にも出来ませんが。(・.・;)

ところで、金星をはしろの星、おしろの星と呼んでいて、
はじろ熊鷲も、オシロワケ(景行天皇)も
どちらも冶金に卓越していたという眞鍋大覺(物部氏)の話から、
両者の歴史が考えられないかなと考察中です。
資料はサイドバーの<星の和名・天体>から入って金星(1)を見て下さい。
そうか、PC駄目なんですね。 (+_+)
Commented by 桜もち at 2013-03-13 22:48 x
るなさん、こんばんは。

行橋市とした理由は、日本書紀に出てくる地名と豊前国で該当する地名を消去し残ったエリアと、行橋市内を流れる『長峡川』という河川名から判断しました。(一番の理由は御所ヶ谷神護石エリア内にあるんですけど…)但し、天皇の行宮は旧豊津町付近ではないかなぁと。
香春岳周辺というのは、香春町五徳畑ヶ田遺跡と田川市下伊田遺跡と行橋市下稗田遺跡から出土した土器・石器の種類、割合に類似性がみられるとした資料をみたからです。
『夏』というのは隋書に『其人同於華夏』あるように中国系の名前なのかなと思うのですが…(物部も秦氏も半島経由大陸由来の説がありますし)
まぁ確証の無い妄想ですので…。
Commented by 桜もち at 2013-03-13 22:51 x
金星の話は、少し時間を下さい。(別視点から2~3確認したいことがあるので。)
出来れば、もう少し内容も教えて下さい…OUT!なので(涙)
Commented by lunabura at 2013-03-13 23:18
桜もちさん、こんばんは。
行橋市の状況は全く知らないのですが、
書かれた遺跡は神功皇后の移動ルートに重なるようですね。
景行天皇以来、押さえたということでしょうか。
隣町の苅田町の方にどうして合併しないのですかと尋ねたら、
向こうとは違うというニュアンスの話をされたのを思い出します。
皇后が苅田町の陸路を通らなかったのは、何らかのクニ問題かもと
今思い始めました。
桜もちさんの言われる話とはずれるかもしれませんが。
(妄想のままに)

華夏について、妄想をもう一つ。
夏の国の発掘場所が絞られているようですが、(NHKにて)
その地域や文化ともしかしたら関連がある?
どれもこれも、言葉も地域もはっきりしないので、
聞き流してくださいませ。
(単なる連想ゲームでして…)
Commented by lunabura at 2013-03-13 23:24
金星については、中国では金星を太白と言いますが、
筑紫では「はしろの星・おしろの星」と読んでいたそうです。
ハシロは羽白熊鷲や、大白小白など、鉱山に関連する氏族に見られますが、エトルリア人だったということです。
景行天皇にもオシロワケという名前に金星の名が含まれていて、
これもまた冶金の技術に優れていた氏族だったということです。
弥生時代の青銅器製造技術の優秀さは吉野ヶ里で証明済みで。
こんな感じです。
Commented by 桜もち at 2013-03-14 00:34 x
ありがとうございます!
金星の話、了解しました。
苅田町は小倉南区と文化圏が近いようなイメージがありますよ。因に、小倉南区にある貫山が磯津山の比定地です。(元は芝津山と言っていたらしく山腹に芝津神社があり山頂からは土師器が出土したそうです。)

NHKの夏王朝は見ました!私も中国の歴史と地理には疎いのですが、確か『洛陽』とか『許昌』の辺りかなぁと思った記憶があります。三國志に出てくる『魏』の都です。(卑弥呼が朝貢したと伝わる国)
しかし、日本は『呉』の影響のほうが強いと聞いたことがあります。(和服の別称が呉服と言う様にとか、漢字の発音の呉音なども。英彦山の縁起には天台山の話が出てきますし。)
Commented by lunabura at 2013-03-14 20:06
桜もちさん、こんばんは。
苅田町と小倉南区ですね。そうですか。
そんな話は地元の人しか分からないので、すごく聞きたかった話です。

倭は呉の太伯の後というやつですね。
言葉だけようやく覚えましたが、中身が全く伴いません。(・.・;)
玄海灘は半島から、有明海~薩摩は大陸から、
海流を利用した文化の伝播ぐらいが私の知識です。 ^ ^!
北からは五、南からは八。シンボルはそんな数らしいです。
Commented by 桜もち at 2013-03-14 22:34 x
るなさん、こんばんは。

景行天皇の土蜘蛛討伐と鉱山の関係性についてですが、『可能性大』だと思います。
Wikiで九州の鉱山を調べた(開山時期に関わらず鉱床があることの根拠にはなると思います!)のですが、もぉ、面白いくらい移動ルートと重なります。日本書紀に出てくる地名で判る限りなのと『熊県』を人吉市辺りで考えると、まさに土蜘蛛の話の出てくる地域周辺に鉱山が集中しています。鉱物は、銅・鉄鉱・鉛・錫・金・銀を対象にしました。
調べるうちに、ちょっと思ったのですが、熊鷲の支配地域は朝倉周辺一帯とは考えられないのでしょうか?
Commented by 桜もち at 2013-03-14 22:37 x
皇后の移動ルートと『金』鉱床とが繋がるような気がします。金鉱床については九州大学総合研究博物館のHPに『九州の地下資源マップ』というのがあるのですが、携帯からだと文字も判読出来ないので、興味があれば閲覧してみて下さい。

現在、エトルリア人(イタリアの歴史にも疎いので、これもWikiで調べました!)のことで、面白い妄想をしています。部屋に関連本が散乱してます(笑)
Commented by lunabura at 2013-03-14 22:49
桜もちさん、こんばんは。
鉱山を調べる手があるのですね!
なるほど。
『金鉱床』とか、これまたすごい。
移動ルートは主に物部氏が案内しているのですから、
彼らが掌握していた、もしくは掌握しようとした?
羽白熊鷲の根拠地は朝倉市の秋月です。
秋月のある山は古処山。
秋月から太宰府あたりまであらし廻ったそうです。

私のネタ本は主に真鍋大覚です。
研究している人がほとんどいないのですが、
桜もちさんの方が理解が早そう。
私には猫に小判なのですが、
猫はネコなりに頑張っているんです。 ^ ^
Commented by 桜もち at 2013-03-14 23:38 x
すみません!またしても、言葉が足りなかったみたいで…。

『朝倉周辺』とは筑前町含む旧甘木市+朝倉郡+浮羽郡を例えたつもりだったのですが(汗)

先程コメント後、見つけました金星の記事…。二度手間お掛けしました。すみません…。
妄想の補強になる内容で驚いています!
Commented by lunabura at 2013-03-15 00:19
朝倉ーそうですか。
旧甘木が入るとなると、大己貴神社も含まれるんですね。
勢力範囲については何も考えていませんでした。

金星ーハシロについてエトルリア人と先程断定しましたが、
自分で久し振りに読み直して、ちょっと言い過ぎかなと気弱になりました。
その時の考えやアイデアと言うのは妄想でよいから
書いておかないと、忘れてしまいますね。 (+_+)
Commented by にゃん友 at 2013-03-18 09:08 x
初めまして!

なぜかこちらHPにたどりつき拝見させていただいています。
苅田町出身なのでちょっとびっくりですが、豊玉姫の伝説は行橋市の海辺にもあったような、蓑島だったかな???

ところで、上のコメント中の『北からは五、南からは八。シンボルはそんな数らしいです。』とは何でしょうか?
何かの民族のシンボルなのでしょうか?
ものすご~く気になってしまって、、、。
すみません、よろしければ教えてくださいませ(^^
Commented by lunabura at 2013-03-18 20:46
にゃん友さん、はじめまして!
お返事を書いていたら、ネットの接続が切れてしまいました。
少し長くなるから、記事の方でお返事します。 (^-^)
Commented by lunabura at 2013-03-18 22:41
「五」と「八」の謎というタイトルで書きました。
http://lunabura.exblog.jp/19692168/
Commented by 洋子 at 2017-05-05 02:31 x
韓半島では無く、学校で習った様に朝鮮半島と呼ぶべきでは無いでしょうか。
Commented by lunabura at 2017-05-05 21:47
洋子さん、はじめまして。
そうですね。
韓半島の名称は考古学者の方に相談して使うようにしましたが、今では朝鮮半島を使っています。


by lunabura | 2011-07-25 16:22 | 若八幡神社・わか・田川市 | Comments(22)

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