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「黄泉の道」の古墳巡り(2)井の浦1号墳


小郡「黄泉の道」の古墳巡り(2)
④井の浦1号墳
福岡県小郡市

「駅の前に古墳らしいものがある公園がありますよ。」
と、道行く人に教えられて地図を見ると、
どうやら目指す「井の浦古墳」と重なっています。
「それだあ。」
三国が丘駅前を目指して行くと、それらしき緑地がありました。

駐車場がなく、案内板も見当たらないのですが、
他に見当たらず、探索してみることにしました。

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堂々とした公園入り口です。

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石段を上がると美しい墳丘が。
一番高い所に、気品さえ感じられる円墳があるではないですか!
名前が分からないけど、「井の浦古墳」で間違いないでしょう。

自然環境も素晴らしく、案内板を求めて歩き始めると、
ミュールを履いているのに気づきました。
ミュール=「つっかけ」で古墳探しをするのは、無理無理。
こんなに明るくてきれいな森の公園は珍しいのに…。残念。
坂道を下って、道路にあった看板に辿り着くと、関係ないものでした。

案内板を探し回るのをあきらめて、次に移動しよう、と車で脇を通ると、
美しい湖に囲まれていた!
なんと恵まれた立地なのだ。
改めて、この古墳は特別な存在なんだと思いました。
上空からご覧あれ。


白くハレーションを起こしている所が湖で、空が写って白くなっています。
丸い円墳がよく分かります。
その東側にもなにやら墳丘らしいものがあるのが気になります。
写真を撮った円墳が1号墳なら、それらも古墳だったのかも。

そして、案内板が見つからないという事は資料がない!

ネットで「古代体験館おごおり」を調べると、説明がありました。
「この古墳は6世紀後半に造られて、横穴式石室で、直径23mの円墳。
石室やその周辺から、耳飾りや石製の玉類のような装飾品、
土器などが見つかっている。」
という事が分かりました。

出土物の写真は「古代体験館おごおり」のサイトに載っていました。
http://www.kodaitaiken-ogori.jp/historic_map/map01.htm
このページに入ったら、「収蔵資料検索 ⇒ 考古遺物 ⇒ 出土遺跡の▼をクリック ⇒ 横隈井の浦遺跡 ⇒ 入力項目から検索」
と進むと「出土した銅の腕環、金銀メッキのイアリング、甕棺」が見られます。
(文字入力は上手くいかないので「▼」を利用すると、いろんな写真が見られます。)

たった5点しかないので、盗掘されていたんでしょうね。

という事で、古墳の資料はこれ以上は無いのですが、
「6世紀後半」だというのが分かったので、
その時代の筑紫を調べてみることにしました。

被葬者が500年代の後半に亡くなっているという事から
550年前後~末にここで何が起こったかという事を調べれば、
被葬者が生きた時代が分かる。
という事で、小郡市史を読んでにわか勉強をしました。

被葬者が見た時代とは
朝鮮半島では、6世紀半ば以降、百済・新羅・高句麗による天下取り合戦が激化。
538年、倭人が鉄を運び出していた南加羅が新羅に奪われ、
562年には大伽耶も新羅の保護下に入ってしまう。
日本書紀ではこの事を「新羅は任那の官家を滅ぼした」と書いている。
倭国が任那を失ったことを意味している。

欽明天皇556年、百済の王子・恵(けい)が帰国する時に筑紫の水軍がこれを護衛し、
また別に「筑紫火君」(つくしひのきみ)が勇士1千を率いて護送した。

「筑紫火君」の本拠地は鳥栖市の旧養父郡に推定されている。
その北の基肆郡物部系国造が統治していたと推定されている。

崇峻天皇は591年、任那の再興を企てて、2万余りの大軍を筑紫に向かわせる。
「大将軍」には紀・巨勢・大伴・葛城の各氏から4人が選ばれた。
この大軍が大和を離れると、翌年に明日香の地で
蘇我馬子・額田部皇女・聖徳太子らにより、祟峻天皇が暗殺される。

新政権は「筑紫将軍所」に内乱のせいで「外事」を怠らぬよう早馬を出す。
祟峻天皇の命で朝鮮半島へ出兵するはずだった大軍は
3年9か月もの間、筑紫に滞在したままだった。

市史から関係がある部分だけをまとめてみました。

被葬者が生きた時代には大きな事件として
556年に「百済王子を護送する。」事と
591年に「新羅攻撃軍が2万余り筑紫に滞在した。」
という事があったのが分かりました。

591年
井の浦古墳の被葬者は591年の2万の大軍を見ることが出来たでしょうか。
微妙ですね~。もう亡くなっていたかも知れませんね。

それにしても2万の大軍とか、どこに駐留させたのだろう。
「筑紫将軍所」って太宰府なんだろうか。
これだけの人数の兵糧をどうやって賄ったんだろう。
(いろいろと謎が生まれます…。)

ちなみに、603年には来目皇子が筑紫の志摩で亡くなってます。
聖徳太子は任那奪回は本気だったんですね。

556年
556年の百済王子の帰国の時には古墳の被葬者はきっと生きていたでしょう。
この時に百済王子を送ったのが、筑紫の水軍筑紫火君たちです。
「筑紫の水軍」が養成された所として、この筑後地方は有力だったでしょう。
この被葬者も直接関わったかもしれません。

「筑紫火君」は筑紫の君肥の君が通婚して出来たそうです。
本拠地がすぐ近くの養父郡(鳥栖市)なんですから、
被葬者は筑紫火君の動向を全神経を傾けて見守った事でしょう。

この6世紀後半の筑紫の風景って、
対新羅の緊張がずっと続いていたんですね。
古墳から武具がたくさん出てくるのもうなづけます。
この古墳の被葬者もこの高台から、
広い川の向こうに新羅を見据えていたのかも知れませんね。

それではで③の三国の鼻1号墳に向かいましょう。


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①津古1号墳
②津古生掛古墳
③三国の鼻1号墳
④井の浦1号墳
⑤横隈山古墳


















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by lunabura | 2011-08-04 13:15 | 小郡「黄泉の道」古墳巡り | Trackback | Comments(0)
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