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ひもろぎ逍遥

車塚古墳・皇后軍の陣営地に立つと、正面に女山神籠石があった


車塚古墳
くるまづか
福岡県みやま市瀬高町大字山門字藤の尾
皇后軍の陣営地に立つと、正面に女山神籠石があった
 

神功皇后軍と田油津姫軍との戦いは、いくつかの資料を読み合わせると、
みやま市(旧山門郡東山村)の「草場」という所だという事が分かりました。
そこには「車塚」があると言います。
古墳だとしたら、地図を手に入れないと辿り着かない。

地名も変わっているので、市立図書館と歴史資料館に立ち寄って
観光案内資料をもらって、場所を教えてもらいました。

文献資料のひとつ。
神功皇后は肥後の熊襲を討たんため、山門郡大和村の高尾の地(鷹尾神社近く)に上陸された。

当時、土蜘蛛の田油津姫(たぶらつひめ)は女山(ぞやま)に籠り、肥後の熊襲と提携して、南筑一帯の良民を苦しめ、勢いはなはだ盛んであった。

皇后はまず之を血祭りに挙げんと考えたまい、高尾より車駕を東方に進められ、現今の東山村の藤尾に車駕を留められた。今日、藤尾に車塚という塚があって、先ごろ、古銭がこれより出土したという。

車駕を留められた所の意味で車塚の名の別名・車坂という地名も起きたのである。
「皇后軍の高尾の地」とは、前回行った鷹尾神社のことです。
「田油津姫が籠る女山(ぞやま)」は「女山神籠石」がある所です。

幸いにも車塚古墳は史跡として保存されていて、観光マップにも載っていました。
皇后が「車駕」に乗ってきたので「くるまつか」「くるまさか」になったと伝えています。

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これが鷹尾神社から車塚古墳までの地図です。
戦場になった所は「くさば」と言い、「いくさば」が草場になったという話があります。

では古墳へ向かいましょう。
瀬高駅の裏から東へ向かい、九州新幹線のガードをくぐると人家があり、
すぐ左に入って、また右に行くと古墳があります。

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水田の中にある古墳の様子を見ると、前方後円墳の形が残っています。
これは前方部からの撮影です。

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こちらは後円の方。カーブが見えます。

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墳丘の上の鏡堂です。
漢鏡が三枚出土してここに安置してあったそうですが、行方不明になったそうです。

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石がいろいろと置いてありました。農作業中に発見されたのでしょうか。
土器の破片も洗って置いてあります。

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その中にはまん丸に近い石が。
御霊石のような気がしてならなく、半分埋もれかけていたのを上に置きました。

説明板がありました。
町指定文化財 車塚
 この塚は瀬高町山門藤の尾の東北に位置し、南北約55m、東西27m、高さ3.5mの前方後円墳で、明治22年頃までは周囲に3.6mの堀があり、往時は倍塚が左右にあったと聞くが今はない。

享保20年(1735)に漢鏡3面が掘り出され、この塚の中央に収められていたが、今は破片すら残っていない。塚の南西部から弥生中期の合わせ甕棺が多数出土している。(昭和61年調査)。

又、塚の南東部のたて穴からも弥生末から古墳中期にかかる土器が出土している。したがってこの古墳は3世紀末から4世紀初めにかけてのものと考えられる。
  瀬高町教育委員会

漢鏡が失われて、時代が分からないのは残念ですが、
南東部のたて穴から弥生末~古墳中期の土器が出土したのは、
ここで祭祀が行われたのではないかという事です。
これらの事から、ここは海ではなかった事も分かりました。
周囲にも沢山の古墳があり、縄文遺跡もあって、早くから栄えた所です。

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右は上空からの車塚古墳。
古墳の中で並んでいる丸い物は植栽の桜です。

もう一つ資料を見てみましょう。

草場古戦場 
神功皇后は田油津姫を討つ時に、有明海から北上して矢部川にはいり、高尾嶋(大和町鷹尾)に上陸された。それから多くの部下とともに藤尾部落に着き、軍議をしていた時、賊が攻め込んで来て大きな戦いになった。

朝廷軍は突然の攻撃に驚いたが、すぐに反撃に出て賊軍を打ち破った。
伝説によるとこの地は牧場であったといわれ「牧場」を略して「草場」という説と「戦場」(いくさば)を略して「草場」(くさば)という二つの説がある。
「清水小学校の創立百周年記念誌」


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古墳を後にして次の老松神社に向かおうとすると、
正面に女山神籠石の山が見えました。
まさに皇后軍が見据えた敵地そのものです。
山の手前、見えている範囲が「草場」で、戦いがあった所と伝えられています。

(つづく)
地図 車塚古墳







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Commented by csaオアシス at 2011-09-22 23:38 x
神功皇后は、北部九州の各地で、ずいぶん転戦されていますね~
「女山神籠石」そのもの は、神功皇后の時代の建造物なのでしょうか?
頴田町にも、「鹿毛馬神籠石」がありますよね~







Commented by lunabura at 2011-09-23 00:23
神籠石そのものについては年代などは分からないのですが、名前の由来は、久留米市の高良山の盤座を神籠石と呼んでいたのが始まりです。いわゆる列石はもともと「八葉石」と呼んでいました。
神功皇后はこの盤座(神籠石)に祈願しているので、この時代にはあったと思われます。通説では7世紀でしょうか。
思えば、神功皇后の移動ルートのそばに、この女山神籠石と鹿毛馬神護石、高良山神籠石と、ありますね。
分布は「高良山神護石」の所に出しています。最近は朝鮮式山城と一緒にする傾向が学会にありますが、少し違うのではないかとも思うのですが、何しろ朝鮮式山城を実際に見ていないので、何とも言えません。
Commented by lunabura at 2011-09-23 00:33
また、神功皇后の戦いは、この山門郡の田油津姫戦。秋月の羽白熊鷲戦。そして韓半島戦の三つかな…。
地元に来ると、あまりに具体的に伝承が残っているので、驚きです。
下関の豊浦宮から香椎宮~高良山~などなど、各社の伝承を日本書紀に合わせて並べると、矛盾なく伝承がつながるんですよ。
これを先月、某大学の講座で話をさせてもらいました。このブログでもレポートが70社以上になりました(@_@。
タグ設定がまだ未完成で、すみません。(・.・;)
Commented by csaオアシス at 2011-09-23 20:56 x
どうも、ありがとうございます!
とても、勉強になりました。。^^

某大学の講座で話をされた・・ということですが
オープンな講座など、ございましたら
私も、ぜひ、受講させていただきたいと思います。。!^^
よろしく、お願いいたします!
Commented by lunabura at 2011-09-23 22:39
前回は、ぎりぎりまで時間の変更があったので、
みなさんにお知らせしませんでした。
お話しする機会がいつかあれば、
ブログでお知らせしようと思っています。

日本書紀が近畿の話ばかりかと思っていたら、
福岡の話がいっぱい出ているんです。
みんなで、その地名などを特定出来たらいいなと思ってます。

これからもよろしくお願いします。(^-^)

by lunabura | 2011-09-21 22:09 | <古墳シリーズ> | Comments(5)

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