ひもろぎ逍遥

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忌宮神社(1)仲哀天皇が7年間天下を治めた豊浦宮


忌宮神社(1)
いみのみやじんじゃ
山口県下関市長府宮の内
仲哀天皇が7年間天下を治めた豊浦宮


仲哀天皇が7年間治世した豊浦宮がこの忌宮です。
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日本書紀から。

足仲津彦(たらしなかつひこ)天皇(仲哀天皇)は日本武(やまとたける)尊の第二子である。
天皇の容姿は端正である。身長は170~80センチ。
稚足彦(わかたらしひこ)天皇(成務天皇)48年に皇太子となった。31歳だった。
叔父の稚足彦天皇には男の皇子がいなかったので、
足仲津彦が皇太子となったのである。

成務60年に成務天皇が崩御され、
仲哀元年1月11日に皇太子は天皇に即位した。
仲哀2年1月11日に息長足(おきながたらし)姫尊を皇后とした。
その前に、大中姫との間には麛坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子が生まれ、
また弟姫との間に誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)が生れていた。

2月6日に角鹿(つぬが)の行宮・ケヒ宮を建てて住んだ。
3月19日から南国を巡狩して徳勒津宮にいた時、熊襲がそむいて朝貢をしなかった。
天皇は熊襲を討とうと思って船で穴門に行幸した。
その時、使いを角鹿に送って皇后に
「すぐにその港を発ちたまえ。穴門で逢いましょう。」と伝えた。

6月10日に天皇は豊浦津に着いた。
7月5日に皇后も豊浦津に着いた。この日皇后は海の中から如意の珠を手に入れた。
9月に宮室を穴門に興した。これを穴門の豊浦宮という。

宮室とは天皇の宮殿の意味で、皇居の事です。

帯中日子(たらしなかつひこ)の天皇は穴門(あなど)の豊浦宮、
また筑紫の訶志比(かしひ)宮にましまして、天下を治めた。

これは古事記の仲哀天皇記の筆頭の一文です。

さあ、仲哀天皇の皇居あとです。
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広大な境内の中心に一段高く神門があります。

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菊の御紋が目に入ります。

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拝殿前に出ました。堂々と風格がある宮です。

豊浦宮が忌宮神社となっているのは何故?


由緒書きから分かったことは
仲哀天皇が香椎宮で崩御されたのちここに神霊を祭った(豊浦宮)。
聖武天皇の御代に神功皇后を祀って「忌宮」(いみのみや)と称した。
さらに応神天皇を祀って「豊明宮」(とよあけのみや)と称した。
親子三人が並んでそれぞれ別殿に祀られていたが、中世時代に火災が起こったために、
合祀して一殿となり、総称して「忌宮」となった。
「忌」とは「斎」と同義語で、特に清浄にして神霊を奉斎する意味である。

ということでした。
もともと仲哀天皇の宮だったのが、合祀されていって、
火事に遭って再建された時には、神功皇后の忌宮が中心になってしまった訳ですね。
戦の途中で亡くなった天皇より、
戦勝の神として、また子安の神として女神様の方が人気が高かったのでしょうか。

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広い境内の片隅に神功皇后お手植えの「さかまつ」がありました。
必勝祈願して逆さまに松を植えたものが枯れて残っています。
皇后はあちこちに杉や松を逆さまに植えてましたよね。
逆さまなのはどういう事なんだろ。
つがるはずないのにと、現代人のるなはいつも不思議に思うんですよ。

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これは「宿祢の銀杏」(すくねのいちょう)。
当社の御祭神仲哀天皇、神功皇后、応神天皇に仕えた大臣竹内宿禰が植えたと伝えられる古木でその子孫が繁茂している。
銀杏は「生きた化石」ともいわれるほどに地球上で最も古くよりみられる植物で武内宿禰の長寿伝説と結びついている。

倒れんばかりの巨大な古木です。
竹内宿禰が植えた銀杏は織幡神社にもありました。
そこでは仲哀天皇をしのんで植えたと言います。
離れた所でこうして同じような伝承に出会うと、懐かしい気分になるので不思議です。

さて、日本書紀の「神功皇后」を『古事記の神々』に出していますが、
訳していてとても変だなと思う事がありました。
その謎がこの宮で解けたんです。
(つづく)
地図 忌宮





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by lunabura | 2011-10-10 21:10 | 忌宮神社・いみのみや・下関 | Trackback | Comments(18)
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Commented by ばってん博多 at 2011-10-08 00:39 x
1年ぐらい前にテレビで若松か門司の神社で、
新羅が攻めてきたときに新羅の将軍の首を打ち取って
その首を埋めた神社が紹介されていたんですが、
ルナさんご存知ないですか?

たしか迎え撃ったのが神宮皇后って言ってたような
気がするんですが
その後自分でもその神社を探してるんですが見つけることができずにこまってます。

それともう一つ質問ですが、竹内宿禰と筑紫の君は何か関係があるんですか?
Commented by lunabura at 2011-10-08 08:52
[新羅が攻めてきたときに新羅の将軍の首を打ち取ってその首を埋めた神社]
ーこの忌宮神社の事ですよ!次回はそれについて書きます。将軍の名前は塵輪で、弓で射殺したのは仲哀天皇です。探してたんですね!

「竹内宿禰と筑紫の君は何か関係があるんですか?」
という質問の答えは私には分かりません。何か手掛かりがあったのですか?私の方では逍遥するうちに見つけたのが、
竹内宿禰の両親は佐賀県。
筑紫の君、磐井の子供たちが福津市や鞍手郡にもいた
という事です。そうそう、例の指摘のあった須多田の古墳の被葬者は磐井の子供らしいです。ネットで検索すると出て来ると思います。

竹内宿禰と筑紫の君磐井には数百年の隔たりがあるので、九州の勢力藩図は変わった事でしょう。
今のところ、この程度しか分かってません。
Commented by csaオアシス at 2011-10-08 13:24 x

関西から和歌山のほうへ行っていたので
コメントが少々、遅れました。。^^;
・・・
忌宮神社は、最近、知ったのですが
福岡や、こちら山口でも、神功皇后をお祀りする社は、多くて
やはり、人気がありますよね~

忌宮神社の境内の様子を、はじめて写真で拝見したのですが、
ほんとに清々しいお宮です。近々、下関に行ったときに参拝してみようと思います。

次回の、日本書紀の「神功皇后」の謎が解けた記事が
楽しみです!^^
Commented by lunabura at 2011-10-08 13:58
聞くところによると、神功皇后伝承は山口県が一番多いそうです。6年ほど滞在しているので、あれだけ出掛けるのが大好きな女性なので、山口でもあちこち行ったんだろうなと思います。

忌宮神社は想像以上に広くて驚きました。そして一枚目の写真を見ると分かりますが、香椎宮とそっくりな地形です。急斜面の土地にこれだけの平地を作ったのは、宮殿として設計する意図があったと思いました。
Commented by ばってん博多 at 2011-10-08 15:13 x
ルナさんこんにちは

>この忌宮神社の事ですよ!
なるほど下関だったんですね。どうりで北九州市内で
調べても見つからないわけですね。
ずっと探していたのでこの3連休にも行ってみます。

>何か手掛かりがあったのですか?
いえ単純に織幡宮と宮路嶽神社が距離的に近いので
何か関係でもあるのかなと思いまして

>須多田の古墳の被葬者は磐井の子供らしいです。
ほんとですか!!ちょっと調べてみます。

自分的に古事記や日本書紀をきっちり勉強したいな~と思ってるんですが、
初心者でもわかりやすいお勧めの書籍などありませんか?
Commented by lunabura at 2011-10-08 21:02
>織幡宮と宮路嶽神社が距離的に近い
そうですね。竹内宿禰なら、香椎宮の武内屋敷から、玄海灘沿いに忌宮まで、何か所かありますね。
あと、久留米方面とか。もう少し実態がつかめたらいいなと思います。

古事記や日本書紀は私も現代語訳をやりつつ、今、忙しくて手が回らずに、更新が遅れてます。
利用しているのは岩波書店の本なんですが、入門書はどんな本がいいでしょうか。いろいろと出てるんでしょうね。
御自分で手に取って見て、すんなり立ち読み出来るようなものが、自分に合っているかも知れませんね。
何しろ、私も2年前まで、スサノオとイザナギが何度読んでも覚えられませんでした。ですから、これもまた解答なしです。(;一_一)
Commented by massy at 2011-10-10 04:38 x
初めまして。下関在住です。三十年くらい仲哀天皇、神功皇后のことを調べています。あなたのブログをたいへん参考にさせてもらっています。忌宮神社まで行ったのなら、近くの日頼寺にも行けばよかったですね、そこに仲哀天皇のお墓があります。一説には武内宿称の墓ではないかという地元の伝説もあります。下関には応神天皇が生まれたところもあります。吉母というところです。華山には仲哀天皇のひん葬所というのもあります。神功皇后伝説は全国にあって、芭蕉の奥の細道にも紹介されています。あまりにも数が多くてうんざりすることもあります。
Commented by lunabura at 2011-10-10 08:37
massyさん。初めまして。仲哀天皇、神功皇后を調べてあるんですか!山口はさすが豊浦宮の滞在が長いので、さぞかし多いのだろうと思っています。下関の図書館に行きましたが、研究資料が見当たらず、残念でした。
仲哀天皇の殯斂地は行きました!海の見える丘だったんですね。もう少ししたら記事にします。
地元では竹内宿禰の墓ではないかと!それは面白いですね。そんな地元の話はとても大事な情報だと思います。

>あまりにも数が多くてうんざりすることもあります。
全く同感です。福岡でも大正時代に300ほど採集されています。

今回は響灘が廻れなかったので、早くあの綺麗な海が見たいです。

もし、仲哀天皇、神功皇后の伝承をまとめた書籍などがありましたら教えてくださいませ。  (^-^)
Commented by massy at 2011-10-10 20:15 x
下関図書館は、地方の関係の資料は隠しています。盗られるからです。タイトルがわからないと検索のしようがないので、リストはないかと尋ねたら、それもないとのこと。下関の神功皇后伝説は、ほとんど知っています。神社でいえば、住吉神社、生野神社、安岡八幡宮。吉見の若宮八幡宮。乳杜神社、竜王神社、そんなところだと思います。下関は地名伝説のほうが多いですね。でも数では圧倒的に福岡が一番多いと思います。九州でないのは鹿児島県。宮崎県は一カ所、仲哀天皇が死んだという場所。高知県も一カ所。北は秋田県、宮城県にあります。宮城県は一カ所しか見つけてませんが、秋田県は応神天皇が生まれたとか、神功皇后が死んだとか言われてます。塵輪の伝説があるのは、岡山県の牛窓。変わったところでは、神楽の中に塵輪というのがあります。石州神楽で伝わっています。
Commented by massy at 2011-10-10 20:16 x
書籍は、アカデミックなものは論文としての思い入れが強いので、好きではありません。それよりも地方史や自費出版した伝説本などのほうが先入観がなくていいのではないかと思います。それは各地の図書館にゆくより、方法がありません。でも最近は、ネットで調べるほうが多いですね。兵庫県も数が多い。それは神戸が住吉神社の社領だったのと関係があると思います。神戸という地名そのものが、神の家(戸=いまでも家を数えるときは一戸、二戸という)、住吉神社の田で働く人たちの家、というのを聞いたことがあります。意外と少ないのが大分県。宇佐神宮がありながら、伝説がない。
それから、忌宮の正面は、日頼寺の仲哀天皇のお墓に向いているのです。これも地元の伝説。山口県では、山陽小野田市(とくに旧・楠町)、宇部市などにも伝説があります。伝説を集めているだけで、それを処理したり、考察したりする時間がありません。その意味では、あなたのことを感心しています。
Commented by lunabura at 2011-10-10 20:28
massyさん、すごい情報量ですね!
私も、先入観を入れないために、まずは生の資料に取り組んでいます。だから、地方史や自費出版した伝説本に行き当たるとすごくうれしいです。やはり図書館通いからです…ね。
最近はコピーさせてくれない図書館もあったりして、遠方からなのにと涙を呑む事もあります。
ネットは最近は郷土史家の人たちがHPを作ってくれていて、大助かりです。

>忌宮の正面は、日頼寺の仲哀天皇のお墓に向いているのです。
確かに今地図をみたらそうですね。

下関は遺跡もよく残っていて、神社誌と組み合わせて調べるとかなり面白そうですね!
Commented by massy at 2011-10-11 02:25 x
前回、間違えました。旧・楠町は現在、宇部市楠町です。平成の合併でこんがらがってます。そこの船木というところは神功皇后伝説のあるところで、三韓にゆく船を造ったところ、小野田の仮屋、有帆などは船で有帆川を下って、仮屋で仮の行在所を設けたという伝説。本山は仲哀伝説。ネットで検索OKです。
下関は蓋井島、吉見(船越、古宿、鴨島など)に伝説あり。船越は全国に伝説が多い。高貴な人が船でお越しになった。というのと、船を担いで山を越えた。下関は後者のほう。
Commented by massy at 2011-10-11 02:52 x
神功皇后伝説で感じたことは、海に関係することはもちろんですが、王子誕生、鎮懐石、産小屋、風鎮などの伝説が複雑にからんでます。忌宮の数方庭祭は風鎮祭の変形です。秋になると台風が来るので、それを鎮めるために旗を立てるという風習があります。下関では旗を立てる祭りが他にもあります。愛知県などにも似たようなものがあります。産小屋は、ミクロネシアのほうで出産の時、別の小屋で産むという風習があります。産んだあと海水で血の汚れを洗います。それとは別に産小屋の風習は全国にあります。鎮懐石はいろいろ形を変えて全国にあります。おもしろいのは白旗伝説というのがあって、九州や西日本では神功皇后が多く、関西ではヤマトタケルノ命、東北のほうになると源義家というように変化します。お斎祭(おいみさい)という風習とそれにまつわる神功皇后伝説が下関地方にありました。(こんなの今どきやってない)忌宮で検索して下さい。皇后伝説の近くに竜王という地名(山が多い)が多い。下関に二カ所、小野田に一カ所、全国には他にもあります。
Commented by massy at 2011-10-11 03:08 x
下関の旧・豊浦郡菊川町に貴飯(きば)というところがあります。これは神功皇后が熊襲に追われて華山に逃げようとしたとき、この地に着き、土地の人が皇后にご飯を差し上げたという伝説があります。皇后は「いと貴(とうと)き飯なり」と言ったとかで、貴飯という地名になりました。難読地名のひとつなのですが、これは朝鮮語ではないかと思ってます。飯は朝鮮語で「バ」です。ビビン・バは混ぜるご飯という意味。このことは初公開です。秘密にしてました。土地の人が貴族にご飯を差し上げる伝説も各地にあります。華山は菊川町の歌野というところから登ったと思われます。ここに伝説が多い。地元の年寄りしか知らない。ネットでは出ない。
Commented by massy at 2011-10-11 04:08 x
日本で一番最初の国道というのは、竹内街道です。山辺の道(やまのべのみち)とも言います。河内から奈良県のほうです。奈良県の人は大てい知ってます。これは武内宿称から取ってます。この辺りは古墳が多いことで有名で、武内宿称の関係、子孫の伝承が多いところです。大阪の交野市から京田辺に抜ける道は、神功皇后の道とも言われてます。ここを通って京都のほうに言ったのではないかと思ってます。この辺りも伝説が多い。
Commented by lunabura at 2011-10-11 13:28
すでに熊襲が攻撃していたのですね。
造船は北九州市にも集中しているので、忌宮を中心として木材を調達して造船していたのが今の話でよく分かりました。

と言う事は、豊浦宮の時から外洋船を造っていて、新羅攻撃の準備が行われていたという事になりますね。
かなり切羽詰まっていたのが見えて来ました。

山辺の道は高校生の時に、修学旅行時に自由行動で行きました。あれが竹内街道ですか…。
ちょっとびっくり。

massyさんは、すると、全体の伝承をすでに網羅されているのですか?
とりあえず、地図に教えて頂いた地名をプロットしてみます。
Commented by こけこま☆ at 2015-10-21 22:42 x
るなさんコンバンワ☆

今日は北九州〜下関の忌宮神社まで行ってきました
残り12社となりました
るなさんの本を買ってから行った事ある神社も1から参拝して
もう少しでゴールです!!
Commented by lunabura at 2015-10-22 21:30
こんばんは^^
北九州は交通量が多くて、大変でしたでしょ。
残るはどのエリアかな^^
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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