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忌宮神社(2)新羅のジンリンと熊襲が皇居を襲撃していた


忌宮神社(2)

新羅のジンリンと熊襲が皇居を襲撃していた


忌宮神社の神門の正面に囲いがあります。

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「石鬼」と書かれていて、覗くと石があります。

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説明板を読んでみましょう。
数方庭(すほうてい)の由来と鬼石
第14代仲哀天皇は九州の熊襲の叛乱を平定のためご西下、ここ穴門(長門)豊浦(長府)に仮の皇居を興されたが、仲哀天皇7年旧暦の7月7日に朝鮮半島の新羅国の塵輪(じんりん)が熊襲を扇動し、豊浦宮に攻め寄せた。

皇軍は大いに奮戦したが宮内を守護する阿倍高麿、助麿の兄弟まで相次いで打ち死にしたので天皇は大いに憤らせ給い、遂に御自ら弓矢をとって塵輪を見事に射倒された。

賊軍は色を失って退散し、皇軍は歓喜のあまり矛をかざし旗を振りながら塵輪の屍(しかばね)のまわりを踊りまわったのが数方庭(すほうていー8月7日より13日まで毎夜行われる祭)の起源と伝えられ、塵輪の顔が鬼のようであったところからその首を埋めて覆った石を鬼石と呼んでいる。

新羅軍が直接上陸して皇室を襲撃!?敵将の名前はジンリン。
まさかの大事件です。この話は日本書紀には書いてありません。
さすがに書きたくなかったのでしょうね。

なるほど。これで神功皇后が海を渡ってまでも戦わないといけない理由が分かった。
日本書紀では仲哀天皇が筑紫に遷宮してまでも戦う理由を
「熊襲が朝貢しなかった」という事で済ませていました。
また新羅との戦いは金銀財宝の国を神が与えようと言ったのが始まりでした。

正直、この程度の事で戦う?と思っていたのですが、
皇居に熊襲と新羅の連合軍が襲撃したとなると話は違います。
国の存亡の問題です。

これなら再び襲撃されるのを防ぐために本国と戦うのは納得です。
これで謎が解けるゾ。

前回最後に書いた「訳していて変だと思ったこと」。
私が不思議に思ったのは、
「岡の県主(あがたぬし)の祖・熊鰐(くまわに)はどうして佐波まで迎えに行ったのか」
という事なのです。
都は下関市なのに、天皇たちは何故、防府市で待っていたのか。

その該当部分を日本書紀で確認すると、
仲哀天皇は紀伊の国に着いて、徳勒津宮(ところつのみや)に居ました。この時、熊襲が叛(そむ)いて貢ぎ物を献上しませんでした。天皇はそこで、熊襲の国を討とうと決意しました。(略)

仲哀8年春1月4日に仲哀天皇の一行は筑紫に行幸しました。その時、岡の県主(あがたぬし)の祖・熊鰐(わに)は天皇の行幸を聞いて、あらかじめ五百枝(いほえ)の賢木(さかき)を土から抜き取って、根の付いたまま九尋の船の舳先に立てて、上の枝には白銅鏡を掛け、中の枝には十握剣を掛け、下の枝には八坂瓊を掛けて、周防の沙麼(サバ)の浦に迎えに行きました。そして魚や塩の産地を献上しました。

この通り迎えに行ったのは豊浦宮でなく、佐波の浦です。

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地図を見るとよく分かりますね。

日本書紀は豊浦宮で起こった重大事件を伏せていました。
この戦いは、たまたま敵将を殺した為に勝利を治めましたが、
皇居直撃ですから、それまでの防衛線をすべて打ち破られていた事になります。

豊浦宮は対外的に危険な場所になったので周防(防府)まで避難したと考えられます。
だから、熊鰐が迎えに行ったのは佐波だった。
そして玄界灘を越えてまで戦う理由は攻撃こそ最大の防御だったから。
やっとすっきりです。

ちなみに弥生時代の戦いのようすが山口県の北西の海岸沿いに残っています。
土井が浜遺跡です。  http://inoues.net/ruins/doigahama.html(歴史倶楽部HP)
頭骨だけの埋葬とか、
至近距離から沢山の矢を打ち込まれた男とかが出土しています。
この一帯はかなり厳しい戦いがあった地域だったという事が分かります。

(つづく)


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by lunabura | 2011-10-09 14:36 | 忌宮神社・いみのみや・下関 | Trackback | Comments(11)
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Commented by csaオアシス at 2011-10-08 21:42 x

仲哀天皇が穴門豊浦宮、そして筑紫橿日宮へと遷宮した理由が分かりました。
日本書紀に書かれなかった、本当の理由があったのですね。。

岡湊神社から豊浦宮、そして佐波への繋がりがあるということですが
この豊浦宮と、芦屋の岡湊神社との関わりは、
具体的には、どういうことなのでしょうか?

岡湊神社の御祭神は、大倉主命、菟夫羅媛命、となっていて
岡の県主(あがたぬし)の祖・熊鰐(くまわに)が、関係しているようですが、
その辺りの背景が、よく分かりません。。

ちなみに、芦屋を抜けて若松北海岸方面には行くことが多いので、
岡湊神社横の、昔、芦屋千軒と呼ばれていた県道27号線?は、通ることが多いです。。^^;

Commented by lunabura at 2011-10-08 22:01
熊鰐の屋敷跡が山鹿小学校の敷地内にあるそうです。
神功皇后が筑紫から豊浦宮へ戻る途中で熊鰐と再会して、赤ちゃんがいたのを熊鰐はとても喜んだという神社があります。今はどこか忘れたけど、北九州市内です。(また記事にします。)
彼は遠賀川河口の山鹿党という海人族のオヤジのようなイメージを私は持っています。

大倉主命になると嶋戸物部氏という事で、モノノフなので、別格の存在でしょう。クニの王たる存在かな?天皇家に娘を嫁がせるような立場です。馬は操るけど、船は操れない。

こうして、山鹿党と嶋戸物部って、住み分けをしていたのではないでしょうか。
岡湊神社は下宮なので、本宮の高倉神社の方を研究するといいと思います。

豊浦宮と岡湊神社の関係はまだ分かりません。
Commented by csaオアシス at 2011-10-09 20:04 x

え~そうなんですか~
山鹿小学校と、宿泊施設の「マリンテラス芦屋」との間の
県道202号線から国道495号線は、
やはり、若松北海岸方面へ行くときに良く通ります。。^^

やっぱり、ご縁を感じますね~
本宮の高倉神社には、ずっと昔、一度だけ行ったことがあります。

私は、若松北海岸から芦屋、岡垣町の波津、鐘崎、宗像、勝浦一帯の
海辺の地域が、とても好きで、とても相性の合う土地だと思っています。

北九州市内の、「神功皇后」が筑紫から豊浦宮へ戻る途中で
熊鰐と再会した神社の記事を楽しみにしています。。^^

Commented by lunabura at 2011-10-09 23:16
玄海灘のロマンですね。
千畳敷とかはめいっぱい解放されるし、貝塚とか、神社とかいたるところで海が見えて、いいところですよね。
Commented by hurutakaimasaki at 2011-10-10 13:53 x
豊浦と佐波の逆転については、山田宗睦氏が解明しています。
穴門豊浦宮(下関)を本拠とする仲哀を岡の県主の祖熊鰐が沙麼に迎えに行くが、岡県は遠賀川周辺。東から周芳沙麼ー穴門―岡(遠賀)ですからこの時点で熊鰐は穴門の仲哀を追い越している。
次に熊鰐の引率で岡津に泊した仲哀を、筑紫伊覩県主の祖五十迹手が穴門に迎えに行くが、これも行き過ぎ。そして五十迹手の引率で儺県、橿日宮に着いたという。
つまり仲哀は沙麼ー穴門―岡ー儺県(橿日宮)と西に航海した様に記述されているが、迎えに行く熊鰐や五十迹手が行き過ぎる矛盾が発生。
これは大和の天皇家の誰彼ではなく橿日宮を本拠とする人物の、儺県(橿日宮)―岡―穴門―周芳沙麼という東への航海を、周芳沙麼ー穴門―岡ー儺県(橿日宮)という西への航海にひっくり返したものだ。
周芳の先、大和方向から来る人物を「向かえに行った」のではなく、儺県(橿日宮)を出航した人物を、五十迹手が儺県から岡津を経て穴門まで、熊鰐は岡津から沙麼まで「送っていった」のだ。
(以下は私見)これは九州王朝史書の、儺津を発した橿日宮の女王の沙麼遠征記事からの盗用である。いかがでしょうか?
Commented at 2011-10-10 14:00 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by lunabura at 2011-10-10 15:04
hurutakaimasakiさま。コメントありがとうございます。
山田宗睦氏の論では、
香椎宮にもともと女王がいて、誰かをサバまで送って行ったという話だという事でよろしいでしょうか?
これは確かに前後の論を伺わないと、私のような不学なものにはよく流れが分からない内容なのですね。

とりあえず、Aさまからhurutakaimasakiさまの資料をいただいているので、拝読させていただきます。

また、イトテと熊鰐については、イトテは壱岐の島まで往復出来る外洋船を操る海人族なので、彦島までは海路の知識があるけど、関門海峡については知識がないので、
そこから先は海峡の潮の流れの変化の時間を熟知する地元の熊鰐に依頼したのではと今のところ考えています。

知識ゼロからのスタートなので、御助言よろしくお願いします。
Commented by hurutakaimasaki at 2011-10-10 16:05 x
書紀で仲哀とされている人物は、本来「香椎宮の女王」であり、彼女の遠征を五十迹手が儺県から岡津を経て穴門まで、熊鰐が岡津から沙麼まで送っていったというものです。
おっしゃるとおり、関門海峡の潮流を知っているのは遠賀川河口の支配者である熊鰐であったからでしょう。
「沙麼以降」の遠征の続きは書紀では景行天皇の「周防の沙麼発」の熊襲遠征説話に盗用されていると考えられます。
この女王は九州一円を平定した女性で神功皇后紀にも「戊子、皇后、熊鷲を撃たむと欲す。而して橿日宮より松峡宮に遷る」というふうに盗用されています。(古田武彦氏の「盗まれた神話」第四章(蔽われた王朝発展史)がそもそもから論じています。)
Commented by lunabura at 2011-10-10 19:20
仲哀天皇とは香椎宮の女王であり、東に遠征した。
この女王の話が日本書紀に神功皇后という人の名前に盗用されているという主旨でよろしいですか?

昨日、松峡宮に行ってきました。
地名や地形については、福岡の人間なのに、殆ど把握していないのを実感しています。
もう少しフィールドワークすると、理解が深まるだろうと思います。
これからもよろしくお願いします(^-^)
Commented by roko at 2012-06-02 09:51 x
 小学3年生の子どもと一緒に、鬼石のじんりんについて調べていて、ここにたどりつきました。
 難しい言葉を、わかりやすく説明してくださっているので、子どもが知りたいことがよくわかり、説明してやることができました。ありがとうございます。
 仲哀天皇や神功皇后の人物画は見つかったのですが、じんりんの肖像画(人物画)がみつかりません。もし、ご存知でしたら、教えてください。
Commented by lunabura at 2012-06-02 11:48
はじめまして。
私のレポートがお役に立てたのは嬉しいです。
さて、塵輪の絵は、どこかで見たような気がしますが、思い出せません。
空中で、髪を振り乱した恐ろしい形相で描かれていたかと思います。
絵ではありませんが、石見神楽に「塵輪」の演目があるようです。
その神楽の写真の中に塵輪が見られます。
「塵輪 写真」で検索してみてください。
その中にイラストもありました。 (^-^)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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