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忌宮神社(4)「数方庭」と馬韓の「蘇塗」とのつながり


忌宮神社(4)
「数方庭」と馬韓の「蘇塗」とのつながり


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数方庭(すほうてい)8月7日~13日

忌宮神社には天下の奇祭と言われる数方庭(すほうてい)の祭があります。

鬼石の上に太鼓を据え、「スッポウディ」と言われる独特なリズムを打ち鳴らし、
それに合わせてまず切籠が、次に小幟・中幟・大幟が順次登場して
鬼石のまわりを回る祭だそうです。

今回注目したいのは大幟が
長さ30mもある竹の幟の先端にニワトリの羽をつけるという点です。
これについても「『忌宮』長府祭事記」からまとめてみます。
1.「数方庭」は「数宝庭」とも書いて、
男の子が生まれると幟(のぼり)を出し、女の子が生まれると
切籠(きりこ)という短冊や灯籠のついた笹竹を持って参加するという伝統で、
この「宝」は子宝のことで、祭神の神功皇后の守護で生まれた子宝を
神社の広庭でご覧頂いて健やかな成長を祈るという一面を持っている。

2.神功皇后の三韓への出陣や凱旋の際にも、
鬼石のまわりで素朴勇壮な舞技を行ったといわれ、それが数方庭の由来とされる。

3.数方庭は、スホウテイ、スホーデイ、スホーデン、スッポウデイなどと呼ばれ、語源が分かっていないが、
朝鮮半島にソッティまたはスサルテイなどの名で呼ばれる鳥形木製品をつけた
柱があって、村の入口や寺院の門前に建てられている。

これは三世紀の『「魏書』東夷伝馬韓」の「蘇塗」につながるとすると、
「ソト→ソッティ→スホウテイ」となって稲作儀礼が原形となる。

済州島に見られるものは川の氾濫を封じるもので、
原形は広く北東アジアの各地にある。

ここに「『魏書』東夷伝馬韓」が出て来ましたが、
同じ「東夷伝」の倭人の条には有名な卑弥呼の事が書かれています。

(「魏志倭人伝」とは「『魏書』東夷伝の倭人の条」を簡略化したもの。)

その「東夷伝馬韓」に「スホウテイ」のヒントが書かれているそうです。
「馬韓」って百済(くだら)の前身なんですね。

その「馬韓伝」の該当部分を読んでみましょう。
(現代語訳してみました。間違ってたら指摘して下さいませ。)
常に五月に種まきを終わり、鬼神を祭る。
群衆は昼夜休むことなく、歌って踊り、酒を飲む。
その舞は数十人で同じように地を高く低く踏んで、手足を合わせて動かし、
リズムは中国の鐸舞と似ている。
十月に農作業が終わるとまた同じような事をする。

鬼神を信じ、国の邑(むら)ごとに、それぞれ一人の祭主がいて、
天の神を祭り、その人を「天君」と呼ぶ。

また諸国ごとに特別な邑があって、「蘇塗」という大木を立てて、
鈴や小銅鐸を懸けて鬼神に仕える。
その南部は倭に近く、刺青を入れている者もいる。

ここには「蘇塗」の使い方が二種類書いてあります。
<前半>
五月と十月の農作業が終わると人々は竿や大木に鳥の羽,白紙,布をつけて
天神を降ろし、これをとりまいて歌って踊り、五穀豊穣を祈る。
祭主は「天君」という。
<後半>
クニやムラの境界線の一区画に「蘇塗」を立てて、鈴や小銅鐸を掛けて
邪気が入らないように鬼神に祈る。「ソッテ信仰」と言われている。

「蘇塗」につけられる小銅鐸は数センチのサイズで、
リーダーが腰につけたりもします。これが天君かな?
(九博に行くとシャーマンの鏡や銅鐸をびっしりと貼り付けた
迫力ある衣裳が見られるのでお見逃しなく。ちと、怖い…。)



c0222861_1774124.jpg「ソッテの木」に付ける木製品の鳥が、
韓国の論山の麻田里遺跡で出土しています。
馬韓の北部です。
木製の鳥は左の絵のように使います。
カナダのトーテムポールの小型版のようなものも一緒に立てられたのを
済州島では今でも見る事が出来るそうです。






以上に加えて、下関から響灘にかけては渡来人の弥生遺跡が見られる事から、
馬韓の文化も流入していて、数方庭はもともと五穀豊穣の祭りだったのが、
塵輪との戦いの勝利の時にも舞われて、祭事として定着していったと考えられます。

数方庭で幟の先端に鳥毛と鈴を付けるのは馬韓と同じですね。
この幡は下関市内では雨乞いや風まつりに使われ、
また竹竿をかついで「ホイ、ホイ、ホイ」と言いながら田の畔を走る事があり、
農耕の守護神として生きているそうです。


c0222861_1785158.jpgところで。
これって?「蘇塗」と同じかな?

持ってる人は…神武天皇です。











韓国のソッテの写真と遺跡はコチラ
邪馬台国大研究
http://inoues.net/korea/zenranandoh4.html
馬韓の旅 順天支石墓公園 <資料館・墓制館>
鳥居の原型と言われるソッテ


吉野ヶ里歴史公園(2)奇蹟!弥生時代が丸ごと残ってる
http://lunabura.exblog.jp/17183617/



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by lunabura | 2011-10-07 17:17 | 忌宮神社・いみのみや・下関 | Trackback | Comments(18)
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Commented by massy at 2011-10-12 23:33 x
蘇塗の後半の部分ですが、これが鳥居の原型ではないかという説もあります。
Commented by lunabura at 2011-10-13 00:12
らしいですね。
取り敢えず記事の最後に「鳥居の原型と言われるソッテ」と私も書きました。
吉野ヶ里も鳥があるので、仲哀・神功は戦わずにすんだのかも知れませんね。
ブータン辺りでしたか、日本の鳥居そのものをテレビで見たのですが、記事にするには、うろ覚えは使い物になりませんね。(・.・;)
Commented by massy at 2011-10-13 04:11 x
鳥居の形が似ているという理由だけで、すなわち鳥居の原型だということにならないと思います。貴飯(キバ)という地名も、韓国語だから、神功皇后は韓国人だと誤解されるので、公表しませんでした。日本にある文化はすべて韓国が原型だと思っている人が多いからです。韓国語で読める万葉集というのがありましたが、あの論法でゆくとフランス語でも万葉集が読めるようになります。30年前くらいにブータンが日本語の発祥地だと云った学者がいました。それくらい日本とブータンは似ています。人間もそうですが、柿が家のまわりに実っているのを見ると、日本ではないかと錯覚してしまいます。串崎について書いています。気がつきましたか?
Commented by massy at 2011-10-13 04:25 x
・仲哀天皇廟(防長地下上申=じげじょうしん)原文まま
山門より北の方、竹林の間に径あり、二十余間にして古廟南に向て立り
・武内廟跡 原文まま
山門より南の山の巓にあり、方四間許りに土手を築き其中に苔むしたる大石あり、是測古塚のしるしなるよし

資料を見て思い出しました。そうです。墓は二つあるんです。但し、見たことはありません。立ち入り禁止で、しかもマムシが多いというので、あきらめました。

防長地下上申というのは、江戸時代に毛利藩が土地の人たちに聞き書きしたものだそうです。詳しくは知りません。
Commented by massy at 2011-10-13 04:40 x
旗を持って歩く、あるいは廻る祭りは、下関では員光八幡宮、川北神社、井田ある来福寺などです。ほかにもあったような気がしますが、思い出せません。
来福寺縁起 原文まま
皇后、三韓征伐之御時、六軍勝利の御祈の為、当山の峰(四王司山のこと)に於て四天王を勧請ありし、今猶、嶺上毘沙門の石体を安置せり。毘沙門は定て当山の鎮守ならん。
蓋井島では、白旗を立てる風習がある。
ついでに四王司山について。(豊府志略より)
二宮稚桜縁起
応神天皇、武内宿称に勅す。穴門豊浦峯於て三韓之凶徒を防ぐ為、西南に向いて、四天王寺を造る。多門之尊像を安置奉る
Commented by massy at 2011-10-13 05:17 x
住吉神社に行ったなら、合祀社に山田社というのがあります。これは神功皇后が山田践立直に荒御霊を穴門の山田邑に祀れと命じますが、その山田の霊を祀ったものです。日本書紀に出てると思います。山田社があった元の場所を見つけました。下関市秋根上町2-10-10秋根上町民館に若宮神社の石碑が建っています。ここが山田社のあったところです。穴門直践立で出てる人物です。
満珠干珠を祀ったところとして、山田邑、小山田邑というのはよく出て来ます。福岡県にもあったと思いますが、三重県の大山田村にも伝説があります。ネットで探すのですが出て来ません。大山田村は今は伊賀市になっています。ここはかつて山田郡があったところです。皇后伝説は三重県では、大山田村と矢取り島付近の二カ所しかありません。
Commented by massy at 2011-10-13 05:32 x
白旗について。
中国では、全軍が白旗を掲げた場合は、弔い合戦の意味がある。全軍が白旗、白衣のときは喪に服するときで、「白旗白衣」と云えば、弔い合戦を意味する。
日本書紀では、新羅は神功皇后の軍を見て、「東の神国の兵が攻めてきた。とてもかなわない」と云って、「素旗(白旗)」をあげて降伏した。
中国では、降伏するときは相手の旗を上げる。
下関の生野神社(昔は幡生八幡宮だった)では、皇后が兵を集められたら、翌日、白旗がはためいていた。一夜にして生まれたように見えたので、幡生という地名の起源になっている。
新羅軍は降伏しょうとして、皇后軍が白旗だったので、白旗を上げた。ということですかねぇ。
Commented by massy at 2011-10-13 06:12 x
下関市武久=神功皇后が三韓にゆくとき、武運長久を祈った。これは明らかな地名付会。後世の捏造です。
下関市綾羅木=神功皇后が三韓征伐之時、この地で「あやら」と掛け声をかけた。これも後世の捏造。「あやら」ってなに?意味不明。
以上二つは、防長地下上申から。しかし、ここまでして伝説を手前味噌のように引き込むのはどういう意味があるのか。下関には、明らかに後世の捏造と思われる伝説があります。さっき書いた四王司山の伝説とかもそう思います。山陰のほうにゆけば、蒙古襲来と神功皇后の伝説が一緒になったところがあります。神功皇后がモッコリコックリ(蒙古のこと)を退治したとかだったと思います。
Commented by massy at 2011-10-13 06:26 x
吉見、吉母の伝説について。
加茂島(帆柱瀬/古宿今昔記)古宿=こすく
海上自衛隊の敷地になっている。すいません。鴨島ではなく、加茂島です。間違えたような…。岩が三本並んだように見えます。船の帆柱が岩になったと伝えられています。
古宿の海岸で、皇后はこの地に船団を寄せて、宝をこの浜に埋めた。その後、この船の帆柱が岩になって残った。この一帯の岩は、ピカピカ光る金属のようなものが見える。これは船釘であるといわれ、大正時代、岩をかき取って持ち帰り、神棚に供えている家があった。これを「神さん岩」と呼んだ。大正時代までの子供は、足をよく洗ってから、この岩の上を歩いた。
吉見は、皇后が良き眺めと云ったところから、吉見というようになった。船越からの眺めは、とくに夕焼けがきれいです。船越にも伝説がある。
Commented by massy at 2011-10-13 06:55 x
吉母は、皇后が応神天皇を産むとき、産小屋に寄せて来た藻を敷いたから、寄せ藻が吉母になったと伝えられています。産小屋というのが若宮神社のことです。
へその緒を埋めた「胞塚(えなづか/地元ではよなづかと云う)が中条というところの浜永宅の前にあるらしい。私は、ここだけ行ったことがない。
乳母屋神社と間違えたみたいです。応神天皇の乳母という伝説もあります。龍王神社は、征韓前と後に立ち寄ってます。ここの楠で船を造ってます。
Commented by massy at 2011-10-13 07:08 x
安岡八幡宮
この岡は、「かちか迫山」と呼ばれています。地元では「迫山」でも通じます。そう呼ぶ人は今では、ごくこの近くに住んでいる人だけです。神功皇后が征韓後、この岡で休まれたので、「やすらヶ岡」と呼ばれるようになりました。
深坂(みさか)
ここにため池があるのですが、その奥に皇后が腰掛けたという「皇后岩」があります。とても大きな岩です。私も一度行っただけで、場所はよく覚えていません。知らない人が行っても見つけられません。ため池の売店の主人も知らない(聞いたこともないと言っていた)と言っていたのを探して見つけました。この辺に住んでいる年寄りしか知らないと思います。
Commented by hurutakaimasaki at 2011-10-13 18:34 x
私見ですが、鳥居の原型はモンゴルの「鳥葬」ではないかと思われます。遥か過去の儀式ですが、屍を高山に運び鷲に食べさせ魂が天に上がるように祈るものです。(ちなみに土俵入りの手の型もモンゴル相撲の勝者の鷲の舞が原型と考えています)
時代が下るとさすがに形式化され埋葬時に鳥型を着けた棒を立てるように変化していきます。これは遅くとも古墳時代の朝鮮半島や日本で儀式として行われ、棒では不安定なので墓前に井桁の門を建て、上に鳥を留まらせるようになっていきます。これが鳥居であり、現に肥前鳥居では鳥衾といって、笠木(横木)の先に鳥が留まっているような鳥居も残っています。半島のソッテもその名残と思っていましたが、数方庭の旗先の羽の話は初耳です。大変参考になりました。感謝。
Commented by massy at 2011-10-13 20:05 x
竹竿もしくは、棒の先に鳥の羽を飾る風習は、他にもあったような気がします。参考になるのなら探してみます。肥前鳥居というのは初耳です。
門司の和布刈神社、下関の住吉神社の和布刈神事はもう探検済みですか?皇后伝説があります。これも神楽などにあります。
和刈神事は、日御碕神社にもあります。こちらは旧暦の1月5日。
関係ないかもしれませんが、角島ではメノハの祭りをやるそうです。メノハとはワカメのこと、または干した板ワカメのことで、西日本に多く見られる祭りだそうです。
Commented by massy at 2011-10-13 20:24 x
城南宮 
京都市伏見区下鳥羽中島宮ノ後町33
御祭神・国常立尊・大国主命・神功皇后
由緒
神功皇后外征の折りに船にたてた旗を凱旋後、宮中に納められ、さらに息帯姫命、八千戈神の神霊を旗につけて統治に奉斎したと伝えられる。

私見です。この伝説は城南宮のものではなく、ここに合祀されている真幡寸(まはたき)神社の伝説と言われています。私もこの意見に賛成です。旗纛神(はたきがみ)が真幡木に転化、→真幡寸=「まはたの いみき」という意味。
Commented by massy at 2011-10-13 20:38 x
藤森神社
京都市伏見区深草鳥居崎町609
由緒  神功皇后、外征より帰還されたのち、山城国深草の里、藤森を神在の清地として選ばれ、纛旗(軍中の大旗)を立て、兵具を納め、塚を造り、弓矢蟇目の法を修して奉斎されたのが当神社の起源であり、時は皇后摂政3年である。


・古代の中国で、戦闘に用いる旗にとりつけた毛羽状(旄牛の尾・雉の尾)の垂飾であり、「はたぼこ」ともいう。
・もと葬儀に柩を指揮するに用いたが、のち軍中にも用いられ、蓁漢以後は天子の車駕の飾りにも用いた。

軍船の御旗の印は「三光神」です。太陽、月(三日月)、星で、太陽と星は丸で表しています。星は太陽よりやや小さめ。

真幡寸社は、現在、藤森神社に合祀されています。
Commented by lunabura at 2011-10-13 21:38
massyさん。hurutakaimasakiさん。
貴重な情報を沢山ありがとうございます。

竹内宿禰の廟が出てくるのは、なんと、そこが初めてではないですか?
海藻、鳥、旗、など、大事なシンボルなのですね。
海藻はやはり志賀海神社、宮地嶽神社でも大事なもので、和布刈神社もその点で興味があって帰りに寄りました。
鳥は生掛古墳の鶏や、土井が浜の鳥の羽など、葬送とも関係があるように感じて来ました。
旗は織幡神社からずっとあちこちに出て来ました。

お二人の情報、本当にありがとうございます。
Commented by csaオアシス at 2011-10-14 06:48 x

皆さんの、たいへん貴重な情報を興味深く拝見させていただきました。どうも、ありがとうございました。

忌宮神社 のお祭りは、とてもめずらしくて
ますます行ってみたくなりました。。


ところで、いま、山陰の出雲~松江方面を旅しています。
今日の14日、明日15日は、松江市(旧、八束郡八雲村)の熊野大社のお祭りがあるので、行ってきます~!^^



Commented by lunabura at 2011-10-14 08:51
え~!
いい所に行ってますね~。
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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