2011年 10月 24日
和布刈神社(2)和布刈神事と干珠満珠の秘法
和布刈神社(2)
和布刈神事と干珠満珠の秘法
和布刈神社では毎年、旧暦の元旦早朝3時ごろに、神官が松明を灯しながら
海に入ってワカメを刈りとる和布刈神事(めかりしんじ)を行っています。
これについて調べて行くと、安曇の磯良と神功皇后に起源がありました。
今日は福岡県神社誌から該当部分を抜き出して訳して行きます。
神功皇后は角鹿(つぬが)から豊浦に来た時、
海の中で如意(にょい)の珠を手に入れて、とても喜んだ。
一方潮干珠潮満珠の法を得た神人がいて、安曇磯良と言った。
常に海の事を業とするので、神功皇后はお迎えしようと
琴、鼓、笛で演奏しながら海辺に船を浮かべた。
すると磯良が海底から浮かんで出て来て船までやって来た。
そして潮の満干の珠の法を授けた。(志式神社参照のこと)
これが宝珠を得たという事で、皇后は大いに軍船をととのえて、
三韓を征伐し、穴明の沖都嘉利島に凱旋し、
豊浦宮に斎の宮を建てて天神地祇を祭った。
また山田邑に三筒男神の荒魂を祭った。(穴門住吉荒魂神社がこれである。)
速戸には比売大神と安曇磯良神ほか三柱の神を祭った。
(和布刈神社速戸大神がこれである。)
また安曇磯良の神が捧げた満干の珠は
皇后の考えで和布刈の北の海上一里の所にある奥津島辺津島(今の満珠干珠島)
に納め、和布刈神社にも満珠干珠のしるしが伝えられた。
今は金銀白銀で包んで秘封してみだりに見る事は出来ない。
毎年12月晦日の夜中(元旦の早朝)にワカメを刈り、
元旦の朝の神供として奉る。(旧暦)
これは安曇磯良神が海底に入り、潮干珠潮満珠の法を
息長足姫尊(おきながたらし姫・神功皇后)に授けた遺風である。
それ以降西門鎮護の神として歴代の将軍や領主の崇敬があつい。
最後に書かれている文からは、このワカメを刈るという動作が
海中にある満珠干珠を手に入れるようすを模写したものだと
考えられていた事がわかります。
福津市の宮地嶽神社では大晦日の松明を消す時にワカメを使って消します。
ワカメは海人族の大切なアイテムで、この大晦日から元旦にかけて、
各地の海人族の宮で色んな形で使われている可能性があります。
そして基盤には安曇の磯良への信仰があります。
ワカメの生命力を得ることを願うのに加え、
潮の満ち引きが誕生と死を司る事への畏敬、
そして津波の制御への願いが込められています。
この和布刈神事は対岸の住吉神社の方でも行われていて、
そちらは秘儀が保たれて、人知れずになされているそうです。
比売大神について
コメントで少し話題になったので、この神社の比売大神について
確認しておきましょう。
神社誌では祭神は
タギリヒメ命、イチキシマヒメ命、タギツヒメ命、ヒコホホデミ命、
ヒコナギサタケウガヤフキアエズ命、豊玉姫命、安曇磯良神
となっています。
和布刈神社の方では
比売大神、ヒコホホデミ命、
ウガヤフキアエズ命、豊玉比売命、安曇磯良神
です。これを単純に付き合わせると「比売大神=宗像三女神」となります。
しかし和布刈神社のHPでは「比売大神=天照大神」となっています。
HPの写真を見ると盤座に丸い浮彫があるのが見えます。
太陽だと思われます。
一時期、修験僧が入って大日如来を彫った可能性を考えました。
その時、比売大神が天照大神と習合したのではないかと想像しました。
比売大神についてはここでは確認だけして置きましょう。
まとめ
さて、この目の前の関門海峡、早鞆の瀬は一日に4回流れが変わります。
現代でも通行する船には潮流の変化を知る水先案内人が乗る事が
義務付けられているとか。
日々刻々変化していく潮汐の時間や地形が分かる人でないと通れない難所です。
古代ではこの潮を知り尽くしていたのが熊鰐の一族です。
熊鰐一族は洞海湾を中心に住んでいたのが分かって来ました。
彼らは神武天皇より前に住みついていました。
これについては、また後日、探索して行きましょう。
今回、和布刈神社に来て驚いたのは巨大な盤座だけではありませんでした。
安曇磯良を神功皇后が祀った事に大いに驚きました。
だって先月、風浪宮でも安曇磯良が祀られていたのを知ったばかりでしたから。
福岡の北と南に彼を祭ったのです。
これが意味する事を整理してみましょう。
干珠満珠の珠は潮の満ち引きや生死、津波を意のままにする宝珠であり、
アントン・イソラがその秘法を神功皇后に授けました。
安曇はアントン、アンドンと読んでいました。
イソラとはシリウス星の事です。
津波の到来を知るために筑紫で観測されていたのがシリウスでした。
水平線から昇るシリウスが天変地異を教えてくれたことから
安曇磯良は海底からフジツボだらけになって上って来る神という形になりました。
白い布で顔を隠すのは、夜空の中で一番輝いていて、
凝視すると眩しく感じるからだそうです。
昨夜、夜空を見たら、12時過ぎのシリウスは東の空にあり、
キラキラと色を変えながら輝いていました。赤や青、白銀などなど形容が出来ません。
シリウスはじっと見ていると、意識があってこちらに語りかけて来るような錯覚を起こします。
そして、その上の方を見るとオリオン座が天頂を目指していました。
オリオンの三ツ星が住吉大神です。
三ツ星はこの時間は縦に並んでいました。沈むころには横に並びます。
旅する者には時間と方向を教えてくれる守護神です。
シリウスの化身の安曇の磯良をここに祀ったことは、
シリウスを守護星とした安曇族が関門海峡の制海権を持つ事を皇后が宣言した事になります。
これで安曇族が筑紫の海のすべてを制覇しました。
しかし霊的な意味を考えると、
筑紫に津波が来ないように祈りを込めた結界であり、
外敵から国を守るための結界でもありました。
このあと神功皇后は豊浦宮を経て、近畿を目指します。
関門海峡はその西の門として安曇族と住吉族に守らせたのでした。
比売大神が三女神だとすると、宗像族もこれに参加することになります。
地図 和布刈神社 住吉神社
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数週間前、調べものをしていて、こちらにたどり着いてから、拝見させていただいています。
私は愛媛で、神社を巡りながら、古代の歴史を調べているのですが、先日の竜宮の入口や、今回のお話など、新しい発見で驚いています。
今回の、比売大神とことで、ついつい書かずにいられなくなり、コメントさせて頂きました。
私は、この比売大神と出会ってから、神社巡りを始めました。
私は、「宗方三女神」 は、「瀬織津姫」 だと思っています。歴史から消されてしまった女神、瀬織津姫です。
そして、この比売大神=アマテラス(荒御霊)は=瀬織津姫のことです。
伊勢神宮でも、正宮の次の尊い神様(アマテラス荒御霊)として祀られています。
瀬織津姫は、龍神。 龍宮の、乙姫(神女)です。
私のブログも、よかったら、ご覧下さい^^ (愛姫伝)
これからも更新楽しみにしています。 ありがとうございました。
ブログ、お邪魔しました。すごく深い杜ですね!これから少しずつゆっくりと拝見させて下さい。
今「愛姫伝」を流しながらコメント書いてます。すごくリラックスできました。
比売大神が瀬織津姫というのは、盲点でした。
福岡では桜井神社と波折神社を記事にしています。
リンクさせてくださいね。これからもよろしくお願いします。(^-^)
動画もご覧いただいて 恐縮です。
私も少しづつ、読ませて頂きます。 波折神社は、狛犬がうさぎの所ですね。 楽しみです。
福岡、北九州と愛媛は、とても深いかかわりがありますね。
こうして、出会えてことも、きっと何かのご縁だと、心から感謝しています。
私も、お気に入りにさっそく入れて、いつも拝見させて頂いています。
こちらこそ、どうぞ末永くよろしくお願いします。
一年分の罪穢れを背負った神を川で禊させて再生させるというのが、ルーツの形だと言う論文を紹介したのですが、もともと、そこは女の神様だと地元では今でも言い伝えています。
瀬織津姫の可能性が出て来ました。
それがユスラチンリンの戦いで、男神に変形したのかも…。
そこは水沼の君(みぬまのきみ)の所なのです。
水沼の君のもち斎く神は宗像三女神です。
姫は、「鬼」の姿に変えられていたのです。 そして、この御祭りが、「1600年」前に始まったこと、そして、鬼払いの儀式だということ。
姫を消し去ってしまってから、大和の国で起こるさまざまな災難を、姫の御魂の祟りだと思い天皇家は恐れていまたと思います。
この儀式も、そんな中で生まれたものかもしれません。
水沼の君=宗像三女神は、アマテラスの誓約(瀬織津姫を消すための)で勾玉から生まれた女神。これは、姫の魂の代わりに、生まれた女神だと思っています。全てを消し去ることは、できないほど偉大な女神だったのだと。
こちらの水沼の君の中心の宮は赤司八幡宮と言います。
次回から熊襲攻撃のルートをたどるので、最後にその宮が出て来ますが、そこに宗像三女神がいました。
その一方で、このブログで紹介しているのですが、
六嶽(むつがたけ)神社→神興(じんごう)神社→宗像大社と
遷座して行きます。
六嶽神社は物部の本貫地(出身地)の宮で、六嶽神社に三女神が降臨する神話を持っています。
そこでは神話通りの剣から生まれたものとして武人たちの崇敬の対象になっています。
三女神は宗像大社が有名ですが、もともとはそこにいなかったので、探していて、赤司八幡宮で見つけたのですが、そこも降臨地そのものではありません。
比売大神は三女神だと言われながら、何か合点がいかない所は愛姫さんの言われることが原因なのかもしれませんね。
大三島のお話は、私の勝手な妄想かも?しれません。
でも、今は、そのことをいつかはっきりさせるために、神社を巡っていると言ってもいいかもしれません。
大山積神と瀬織津姫の関係にふれられている方も、わずかですがいらっしゃいますが、ここまで追求している人は、他に誰もいないかもしれません。 これも、私が、愛媛(愛比売)の国に生まれたおかげかもしれません。
福岡と愛媛は、古代、想像以上に深いかかわりのあった場所だと私は感じています。 今日、今書いている記事、昨日の続きのお話ですが、これも、たぶん今まで、誰も言ったことがない説だと思います。
そして、少し先になりますが、先日 行った「宗方神社」は、宗方家が移り住んだと伝わる土地です。宮司さんから聞いたところ 卑弥呼の伝説を調べている方も、よくこられるそうで、福岡とのつながりがとても深い場所かと。
きっと、何かの参考になるかと思います。 そして、ずっと追っていらっしゃる神宮皇后にも。 私も、lunaburaさんのお話は本当に参考になります。新たな発見や、確信に繋がることも。感謝です。
さっそく、比売大神についての記事を書いてくださって
どうも、ありがとうございます!
福岡県の南部にも、宗像三女神を奉祭する「水沼の君」という
一族がいたということを不思議に思っていたのですが
その疑問が解消された気がします。
安曇族と住吉族と宗像族の「海神(人)族連合部隊」のようなものが
あったのかもしれませんね。。^^;
また、「ワカメ」は、海神族にとって、とても貴重な神供のようですね。
先日、出雲の日御碕神社に行ったとき、そのすぐ近くの権現島というところに
「熊野神社」という摂社があって、そこでも「ワカメ」を刈る
和布刈神事があるということでしたので、驚きました。
福岡は福岡で。愛媛は愛媛で、それぞれ女神たちは本来の姿を取り戻そうとしているのかも知れませんね。
まずは神功皇后の福岡での姿を私は明らかにして、そのあと隠れたの女神たちのことが分かっていけばいいなと思っています。
出雲にも和布刈神事があったんですね!なんだかワクワクします。
安曇族と住吉族と宗像族の海人族連合体はあったと思います。
ゆるやかな連合体で、住み分けのようなものだと思っています。
何しろ安曇族は中東まで400日ほどかけて航海出来る船と航路を持っています。でも、川の中は通れない。
住吉族は朝鮮半島と日本の間なら平気だったでしょう。
宗像族がもともと筑後平野だったとすると、船は川用の底の浅い小型の船です。筑後川が堆積して行くので、活躍の場を玄界灘に求めたのだと思います。
そのどれもが海流や浅瀬、岩礁の知識無くしては、渡れません。
そう言う意味では互いに尊重し合って連合したと思います。
案外、仲哀天皇が豊浦宮で船を48隻も作らせて戦った時に、相互の連絡が密になったのかも知れませんね。
私の接する情報は『福岡県神社誌』や町史、郡誌などなので、お尋ねのような話は初めて聞きました。向津姫や速狭騰尊の名は確かに穏やかではありませんね。
和布刈神事は精進潔斎してされるもので、志賀島の神事の前にも行われているものと同じかなと思っている程度の理解です。
真鍋は次のように和布とはワカメのことで、それを刈り取る人たちマカリから来ているように行っています。
魏志倭人伝に曰く、
男女生口三十人を献上す。
韓国済州島の海女を「まかり」と言う。昔は能登舳倉(へくら)から淡路岩屋まで季節を定めて出稼ぎにきていた。豊前企救(きく)和布刈(めかり)や筑前宗像鐘崎はその根拠地であった。
大陸民族は水を渡ること、あたかも戦々として薄氷を踏むがごとくおそれるが、不老長寿の貴薬としての海藻(なまわかめ)、それから海(なま)肝(うみ)の類は珍重するが、これを自ら衣を脱ぎ水にひたって採集することはできない。そこで倭人の練達の士を召し抱えてこれに当たらせていたのである。「生(まか)口(り)」とは「なまめかり」と訓ずべき氏族であった。
『儺の国の星』p78
和布刈神事を調べると民俗学的には、山の柴刈に変ってました。柴を刈って淵などに投げ入れ龍神に奉納するのも、海の習俗が山に入ったからでしょうね。民俗芸能全般を調べると、大抵は祟り神を鎮めるもので、その祟り神は水神であり荒魂なんですよね。これが仲哀天皇に当て嵌まるなぁと、今回は思いました。
でも、深層には遠野物語さんが仰るような魂鎮め的な発想があるのかも知れませんね。その辺りの謎解き、ブログ記事を楽しみにしています。^^