2015年 05月 03日
金星の和名(1)
金星の和名(1)
(http://www.nationalgeographic.co.jp/より)
金星を中国語で「太白」と言うのはよく知られています。
それに対して日本語では「宵の明星」「明けの明星」などが思い出されます。
金星は太陽に近いために、日の出前か日没後すぐに見られる特徴から付いた名です。
今回も眞鍋大覺の『儺の国の星・拾遺』を紐解いて、
古代の日本での金星を見て行きましょう。
端白星・羽白星(はじろほし)羽白熊鷲の姓は「金星」でした。
羽白星は金星の古名だった。その「羽白」を名に持つ羽白熊鷲について日本書紀はこう語る。
その人となり、強く、健し(こわし)。
また身に翼ありて、よく飛びて高く翔ける。
髪に鷹の羽を挿すのは胡人の飾り方だった。胡人の部落を「ふれ」と称した。中国の呉越の地に多い「埠(ふ)」がこれである。
彼らには鷹の羽の髪飾りをする習慣があるのを、
日本書紀では「翼を付けて空を飛ぶ」というように神話的に超人化したと思われます。
熊鷲の本拠地は「のとりたのふれ」ですが、
その「ふれ」には「渡来人のムラ」というニュアンスがあるという事です。
胡人という言葉は眞鍋氏の本によく出てくるのですが、
特定の地域を指しているのか、漠然としたものかはまだ掴めていません。
辞書で「胡」を引くと、漢民族が西部や北部あたりに住む民族を呼ぶ名で、
シルクロードの西部から北部あたりがイメージされます。
シルクロードと羽根飾りと言えば「楼蘭の美女」のミイラを思い出すのですが。
彼女はまつ毛まで残っているのですが、
金髪に帽子を被り羽根を挿していたことで知られています。
ミイラと復元写真
http://blogs.yahoo.co.jp/sakurai4391/31588833.html
このように「楼蘭の美女」は羽根飾りを三本、帽子に挿していましたが、
羽白熊鷲は自分の髪にどのように挿していたのでしょうか。
をしろぼし
「太白」を倭人は「をしろぼし」と読んだ。景行天皇の名は「大帯日子オシロワケの天皇」なので、(金星の名が入っている)、この頃、筑紫は呉越の民族が大いにその勢力を競っていたものとみえる。
肥前風土記 藤津郡能美の郷の条に
この里に土蜘蛛三人ありき。兄の名は大白(あしろ)、
次の名は中白(なかしろ)弟の名は少白(をしろ)なり。
とある。氏姓は熊子(ゆうし)で、熔鉄の業に卓抜した技能を継承する家系だった。遠く神代の昔からその名が出る土蜘蛛や熊襲はその子孫とみることが出来る。
「オシロ」が金星だと言う事は
「太白」をそのまま「おゝしろ」→「おしろ」と読んだということですね。
羽白熊鷲と神功皇后の戦いのもとをたどっていくと、
景行天皇の九州制圧が出て来ます。
その景行天皇の名前「オシロワケ」に金星の名が入っている事は、
羽白熊鷲と同様に金星をシンボルとしている人だという事です。
敵対するクニの人同士に金星の名がついていたというのは何か暗号めいています。
肥前風土記に出てくる土蜘蛛たちにも「しろ」という金星の暗号が付いています。
「土蜘蛛」というのは手足が長い渡来人たちを蜘蛛のイメージで呼んだもので、
熊襲と同様、山に分け入って製銅や製鉄を行う人たちの総称です。
福岡市の「和白」は「わじろ」と読みますが、やはり製鉄をしていました。
私は「はじろ」も「わじろ」も、もともと金星を信奉する同じ部族で、
倭国に入植してそれぞれに鉄製品を作っていて、
神武天皇以来、武器生産を支えていたのだろうと思うようになりました。
時代が経っても福岡市和白の「わじろ」の部族は仲哀天皇に朝貢を怠らず、
秋月の「はじろ」の部族は反抗し始めたのではないかと考えています。
福岡市の「わじろ」は朝鮮半島への門に当たるので
新たな文化が常に流入して時代の流れに乗ったけれど、
秋月の山の中で生産していた「はじろ」の方は変化に取り残されたのではないか。
そして要求される朝貢品を作るのに疲弊していったのではないかと考えています。
この時代はもちろん天皇制など存在せず、小国群を形成していた時代です。
鉄を「造る人」と「使う人」に分離して行って、
その理不尽さに羽白熊鷲は独立しようとしたのではないか。
そう思うようになりました。
羽白熊鷲の根拠地である秋月に行ってみると分かるのですが、
山の中なので米などの食料生産が出来ません。
イノシシやシカなどの狩による食糧では十分でないので、
彼らは麓で生産している米や食糧を略奪しに行き、
労働者などの確保の為に拉致を繰り返し、人々を恐怖に陥れていきます。
毎年の朝貢品の生産に明け暮れる日々が馬鹿らしくなった事は十分に考えられます。
ついに羽白熊鷲は仲哀天皇に反旗を翻して朝貢するのをやめました。
すると数年後に天皇は軍勢を従えて川向こうの小郡市までやって来ました。
その天皇を得意の矢で倒したまではよかったけど、
その后・神功皇后が大勢の軍隊を連れて本気で攻め込んでくるとは
全く想定していなかった。
そんな光景が浮かんできます。
この戦いはいったい何日、かかったのでしょうか。
日本書紀によると、
層増岐野(そそきの)の本営地である松峡(まつお)宮に着いたのは20日。
25日には田油津姫攻撃のために山門県(やまとのあがた)に到着しています。
この間わずか5日。
移動に要する時間を差し引くと実際の戦いは1~2日間という事になります。
(日にちについては地元には別の資料が出てくるので、またその時検討します。)
いとも簡単に戦いは終わりました。
羽白熊鷲を強そうに書いてあるけど、
実は彼らは工人集団であって、武人集団ではなかったのです。
眞鍋氏はさらに書いています。
呉越の地は天然産の磁鉄の結晶が多い事で早くから西域に知られていた。「越」をwikiで調べると紀元前334年に秦に滅ぼされていました。
越では銅の生成技術に優れており、1965年に銅剣が湖北省江陵県望山1号墓より出土したが、その銅剣は表面に硫化銅の皮膜が覆っておりさびてない状態で出土し現在も保管されている。越の銅の技術は高度で、かれらが入れ墨をしていたというのは
荘子によると、当時の越の人々は頭は断髪、上半身は裸で入れ墨を施していたという。
wikiより
魏志倭人伝に倭人が入れ墨をしていたというのを思い出させます。
次の写真は紀元前の中国の銅製品です。
これは鐘ですが、左が紀元前9世紀のもの。右が紀元前3世紀のものです。
国が滅んだ時にこの技術を持った人たちはどうなったのでしょうか。
彼らの一部が技術を持って日本に逃げて来たと考えても問題ないでしょう。
吉野ヶ里の高度な銅の製造技術や祭祀線には中国の影響があると聞きました。
眞鍋氏はさらに書いています。倭人たちは必死で朝鮮半島の褐鉄鉱を求めていた時代背景は魏志倭人伝に書かれています。
羽白熊鷲は、まさにその特技の産物たる刀剣で百姓を殺戮して蛮勇をふるった氏族であった。そして前述の記録は大和朝廷が韓国特産の馬鞭(まべち)、馬梳(まそう)という褐鉄鉱石の買い付けを妨害しようとしてあらゆる手段を使って狂奔した事実を物語っているのである。
100-1=99である。「九十九」を筑紫では「つくも」と読ませる。昔は土蜘蛛を尊敬して親分を太白、子分を小白と呼んだ。「つくも」とは九を重合対立させた形で「つちくも」の略だった。
羽白熊鷲たちのルーツを探ることは、
朝貢を当然とする天皇家のルーツを探ることにもなると思われます。
(つづく)
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それをコピーするしか方法がないです。
那珂川町には再版をお願いしたのですが、もう2年ほど音沙汰なしです。
茫漠とした筑紫の古代の歴史の海で迷った時に開くと、必ず答えが書かれている灯台のような本です。
曖昧さが無くなって、時と場が定まるような。
多くの方に研究していただきたい本です。