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赤司八幡神社(2)三女神を祭る海北道中・水沼の君


赤司八幡神社(2)
筑紫中津宮の時代…ここは三女神を祭る海北道中だった
三女神を祭るのは水沼の君と宗像族とどちら?
 

筑後の国の御井郡(みいぐん)惣廟(そうびょう)である赤司八幡大神宮は太宰別府で、もともと三女神が降臨した本跡で、誉田(ほむだ)天皇が降誕された霊地であり、筑紫中津宮である。

いわゆる日の神から生まれた三女神を筑紫の洲(くに)に降臨させた時に、日の神が「そなたたち三神は道の中に降居して天孫を助けて天孫のために祭られなさい。」と教えられた。

こうして今、河北の道の中にあって、道主貴(みちぬしのむち)と言う。これは筑紫の水沼の君らが祭る神である。
今回は縁起の中の大きな課題である、ここが「海北道中」だという伝承と、
三女神を祭るのは水沼の君宗像族とどちらなのかという点について考えます。

記紀によれば、アマテラスは水の女神たちを筑紫に降ろしたとき、
「天孫を助けて、天孫の為に祭られなさい」と言います。その場所は「海北道中」です。
そして三女神をいつき祀るのは「水沼の君」と「宗像族」という二つの伝承が書かれています。

海北ということで、宗像市の宗像神社から沖ノ島を自然と想像しますが、
これは現代の地形の感覚から生まれたものです。
この赤司八幡神社の縁起はここが三女神の降臨地の一つで海北道中だと伝えます。
その点について、古代の地形から考えてみたいと思います。
宮が筑紫中津宮と呼ばれ時代の話です。

ありなれ川
福岡には忘れ去られた古代の海があります。
それが福岡の中央を貫流していた「ありなれ川」です。
「ありなれ川」とは「天の川」の意味で、
宇宙を流れる星の川を筑紫の中央を流れる巨大な川に見立てたものです。

各地を廻って昔の事を尋ねると、「昔はここは海だった」とよく聞く事がありますが、
「まさか、こんな内陸部まで。」と驚かされます。

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上の地形図を見ると、薄い緑色の平野に「入り海」の名残が見えます。
(県外の方は宗像の場所を確認しておいて下さいね。)

古代の人は博多湾から筑後平野へと船で移動することが出来ました。
ただし筑紫野の針摺(はりずり)は狭い上に、南北から違う波がぶつかっているので、
難所だったと思われます。

次の地図は「小郡市誌」から抜粋したものです。

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筑後川流域の入り海の様子が詳しく調査されています。
7世紀後半という事は斉明天皇が筑紫に来た頃ですね。
斉明天皇が朝倉の橘の広庭宮で急に亡くなったために、
磐瀬宮との連絡路をどうしたのか考察するために作られた資料だと思われます。

(よく見ると博多湾の方は、ざっと書かれている状態です。
また、堆積した平野部の島々も省略されています。
設定標高が高すぎるかな…。
この地図は古代の筑紫を考える為のタタキ台程度に見て下さいね。)

中つ海
「中つ海」とは「ありなれ川」の事です。
縁起では、この「ありなれ川」の流域を三つの地域に分けていました。

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赤い丸で示したように筑前、筑中、筑後の三つです。
その筑中の中央にある「筑紫中津宮」が現在の赤司八幡神社です。

さて、縁起では「海北道中」とはここだと伝えている点についてですが、
「海北道中」とは宗像神社の北の海だと思い込んでいるので、まずは驚きます。
しかし固定観念をはずして縁起の言う世界観を見てみましょう。

宮のあたりは「河北」(こうこだ)と言います。
ここは潮が引けば「筑後川の北」であり、
満潮になると「有明海の北」になる所なので、海でも河でもある所です。
「河北」とも「海北」とも言える地形です。

だから、「ここが海北道中だ」というのは問題ありません。

二つの島
この「筑紫中津宮」の祭神の三女神は「九州二島惣鎮守の神」と言われていました。

「九州の二島」というのは
「ありなれ川」の左右を「島」と見なした時の呼び方だと思っています。
右の島を右佐島(宇佐島)、左の島を左佐島(佐々島)と呼んでいました。
その名残の地名が大分県に宇佐、長崎県に佐々として残っています。

二つの島の中央部であり、かつありなれ川の中央部に
国を守る惣鎮守の神を祭るのは理にかなっています。
三女神は道主貴(みちぬしのむち)とも言いますが
古代の筑紫の交通の要衝にふさわしい名前でもあります。

こうやって調べて行くと、この赤司八幡神社の縁起は
かなり古い形態を伝えているものだというのが見えて来ました。

さて、ここに居たのは水沼(みぬま)の君です。
水沼は水間、三瀦(みずま)と表記されて地名にも残る事から、
筑中と筑後を統制していた氏族と思われます。
それに対して筑前にいたのは安曇族(あづみ)でした。

それぞれの海の干満の知識を知り抜いた海人族たちが住み分けしていたのが
筑紫中津宮の時代だったと思われます。

筑中の消滅
のちに筑中の地名は消えて筑後に吸収されて行きます。

筑中が消滅したのは、白村江の戦いで水軍が壊滅状態になり、供出した船と
成人男性の人口が激減したのが原因の一つだと私は考えています。
さらに筑後川の堆積によって海が消滅して舟運が不要になってきました。

そんな水沼族が新天地を求めるとしたら、ありなれ川を遡って博多湾に抜け、
安曇族とは競合しない宗像市の釣川に向かうのは妥当でないかと思うのです。

そうすると記紀に書かれた三女神を祭るのが「宗像族」と「水沼の君」という
の二種類の伝承は矛盾がなくなります。

二族は同族ではないか、「みぬまかた」が「むなかた」と変化したのではないか
と前に書きましたが、全く同じ論を唱える人がいたのを資料の中に見つけて、
今びっくりしている所です。

 (つづく)



ありなれ川についてブログ内散歩コース

高天原(1)志賀島の海に高天原があった(なぜ海の中に高天原がある?)
http://lunabura.exblog.jp/13654361/

(今読み返すと、よく分からない状態で書いているので、理解しにくいですね。
すんまっせん)

針摺の瀬戸と水城・古代、玄界灘と有明海はつながっていた・
http://lunabura.exblog.jp/16018354/

(これもレジュメなので、文章になってませんが…。)






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by lunabura | 2012-01-13 22:19 | 赤司八幡宮・あかじ・久留米 | Trackback | Comments(2)
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Commented by ldc_nikki at 2012-01-13 00:17
るなさん、こんばんは。
「水沼の君」ですか。。。。 実は、偶然、私も今日同じ「沼」のことを記事にしています。
自分のブログをアップして、こちらにくると、「水沼の君」のことが。。。

シンクロしてますね^^
Commented by lunabura at 2012-01-13 08:42
愛姫さん。今、訪問して来ました。
神功皇后の伝承地なのですね。
伝承では、仲哀天皇と一緒のようですね。日本書紀と違っていて、興味深いです。
これからも、楽しみにしています。^^
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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