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良積遺跡・ペトログリフと銅鏡と甕棺・邪馬台国候補地


良積遺跡
よしづみ
福岡県久留米市北野町
ペトログリフと中国製の銅鏡と甕棺
邪馬台国久留米説はここ?
 
赤司八幡神社から北西500mの田園の中に良積遺跡があります。
弥生時代の環濠も出ているとの事で立ち寄ってみました。

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田を作るための整備中に発見された遺跡で、田んぼの一枚分が遺跡になっていました。

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近づくと、おお、石が…。弥生遺跡に石?何だろう。
と近寄ると、「おおおお、ペトログリフだ!」

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真ん中には、見事に丸い線刻。周囲にもいろいろを見えます。
う、裏は?

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こっちもすごい。上にも右にも左にも。
特に右下の線刻は、山口県の彦島のペトログリフと似てない?

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彦島のペトログリフはこれ。(ペトログラフ・ガイドブックより)

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これは現地にあった解釈。漢字に直していますが、ずいぶん無理してますね。
何せ、古代文字ですから。

この石について伝承が書かれていました。

良積石
元慶7年(882)筑後国司・都朝臣御酉(みやこあそんみとり)が暗殺されるという事件が起こります。この事態に朝廷は藤原良積を派遣、犯人逮捕の任務につかせました。伝承によると、その事件の舞台となったのがこの地であるということです。つまり、藤原良積の墓石ということで良積石と呼ばれるようになったようです。しかし、一説には事件の被害者、筑後国史都朝臣御酉の墓ともいわれています。(後略)
ここは国司の御酉の暗殺の舞台なんですか。
この石は良積の墓石、御酉の墓石、また供養石といろいろ説があるようですが、
ペトログリフ石として、古代の文字が書かれたものとして研究した方がよさそうですね。

さて、この敷地の下には縄文から鎌倉時代の遺跡があります。
良積遺跡の名前は良積石に由来します。県営圃場整備事業北野東部地区に先立ち実施された発掘調査は、1993年1月~1994年12月にわたる丸2年を費やして27,000㎡が調査されました。

調査の結果、縄文時代のおわり(約2500年前)~鎌倉時代(約800年前)の集落や墓地であることが分かりました。

住居跡160軒、井戸250基、甕棺墓40基などがみつかりました。弥生時代には集落のまわりを深い濠で囲んだ環濠集落であったこともわかっています。また、多くの石器や土器をはじめ、青銅器、鉄器、木器、陶磁器などが出土しました。

しかし、良積遺跡は全体のほんの一部を調査したにすぎず、未だ多くのものが多くの謎とともに眠っています。
住居跡が160軒とは多いですね。
甕棺墓があり、環濠集落だったというので、吉野ヶ里のような国があったと思われます。
ここに住んでいたのは誰か?
もちろん水沼(みぬま)の君です。
だって、赤司八幡宮から500mしか離れていないんですもん。
ここに住んでいた弥生人たちが三女神を祀り、景行天皇を迎え、神功皇后を迎えたはずです。
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甕棺墓
甕棺墓は北部九州にだけみられる特殊な埋葬方法ですが、それでも現在までに数千、数万という甕棺墓が発見されていて、筑後地方では特に珍しいことではありません。

それにもかかわらず、良積遺跡の甕棺墓は多くの謎を投げかけました。
良積遺跡の甕棺墓は弥生時代のおわり、倭国大乱のころ(約1800年前)です。
甕棺墓は倭国大乱以前に失われた埋葬方法です。

すでに失われたはずの古い風習が残っていたことがわかります。また多くの副葬品もみつかりました。青銅鏡、鉄製武器、管玉、勾玉など。大乱の後、各地に王が出現したといわれますが、良積の王の存在が想起されます。

しかし、なぜ王の墓が古い風習=甕棺墓なのでしょう? (説明板より)
それはですね。人間って先祖の墓制を簡単には変えられないからじゃないかな。
と、るなは思うのですが。
水沼の君はずっと甕棺だった…のかな。
それに対してここに景行天皇の形代として残った国乳別(くにちわけ)皇子は前方後円墳でしたね。
(⇒烏帽子塚古墳)
なんだか神社伝承と辻褄が合ってしまう。でも、専門家から見たら妄想と言われるかな。

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さて、出土した銅鏡は中国製だそうです。
斜縁式方格規矩鳥獣文というそうです。斜縁式は珍しいそうです。
断面は三角になっているそうですから、三角縁って何故言わないのかな?

製作年代は235年から265年の間と推定されています。
卑弥呼が魏に使者を派遣したのが239年。翌年銅鏡が100枚贈られています。
まさに、卑弥呼の時代と重なる銅鏡です。

有名な三角縁神獣鏡はすでに500枚を超えてしまったので、
邪馬台国を探す人は他の銅鏡にシフトしているのかなと思ったけど、まだまだ論は熱いようですね。

という事で、邪馬台国久留米説(御井郡)はここ、と言う事でよろしいでしょうか?
まだ他に久留米市内の候補地があったら教えてくださいませ。



地図 良積遺跡 






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by lunabura | 2012-01-17 21:19 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(6)
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Commented by くじら at 2012-01-19 07:38 x
甕棺といえば高良山大祝家では現在でも甕棺葬と聞きました。身分の高い人しか許されていない墓制だとか。赤司の集落の対岸 稲数には、山を降りた大宮司 草壁氏が住んでいました。当時はよほど重要な拠点のひとつだったと思われます。
Commented by lunabura at 2012-01-19 09:09
甕棺葬が現在も続けられているのですか?すごい話ですね。歴史の深さを感じさせられます。
奥が深くて調査は難航すると思いますが、神社縁起と出土品と各家の系譜を組み合わせると、かなり見えてくるのではないでしょうか。
斉明天皇の宮が朝倉にあった理由もこの赤司の人たちの尽力だったのがよく分かります。
草野の「山づとの道」にも手掛かりが沢山ありそうな気がするのですが。
Commented by くじら at 2012-01-19 14:07 x
「山づとの道」はおそらく縄文時代(3500年前くらい?)の海岸線(海抜35mライン)くらいかなと勝手に想像しています。ここから観たたそがれの筑紫平野の景色は格別ですね。奈良の山の辺の道とも、なんとなく雰囲気が似ているような気がしています。
Commented by lunabura at 2012-01-19 15:17
あのあたりで標高が35mですか。高いですね。私もあの景色は大好きです。山の辺の道が途切れ途切れになっているのに対して、ずっと続く道なのも魅力的です。参勤交代の道だったとか。
Commented by 旅休.com at 2012-01-19 17:50 x
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Commented by lunabura at 2012-01-19 19:27
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