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勝山勝田神社・大倉彦の領地で竹竿を切り出した


勝山勝田神社
かつやまかつた
北九州市八幡東区勝山
大倉彦の領地で竹竿を切り出した 

勝山勝田神社は大蔵という所の大蔵小学校の裏にありました。
地形を見ると、大蔵川から神社に向かう参道の上に小学校が建っています。
ですから、この神社に行くには小学校の壁に沿ってぐるりと廻って行きました。
小学校と神社の間の道は車が一台分通るだけで、車は止められません。

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鳥居の向こうにはうっそうとした杜が!

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石段をちょっと上れば境内で、社殿は横向きに建っていました。

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境内に入った途端、深山の中に入り込んだ趣です。
境内はさほど広くなく、振り返れば小学校の屋上が見えます。
その向こうは川ですから、一気に高度を上げた所に神社があるのが分かります。
ここには神功皇后の伝承が残っています。
向こうに山が見えますが、向こうにも神功皇后の伝承を伝える乳山神社があります。

ここは「大蔵谷」です。
そこに「勝山勝田」という名前が神社に付いた由来が書かれていました。
神社名 勝山勝田神社
御祭神 大山津見神・武御雷神(たけみかづち)・賦都主神(ふつぬし)
相殿 大倉主神社 大倉彦神 大久羅姫神
相殿 貴船神社 宇気持神・高龗神・闇龗神
相殿 疫神社 大禍津日神
相殿 大日神社 大日靈神 
相殿 恵比須神社 事代主神・伊古那姫神
  (神功皇后・武内大臣)

御由緒およそ1700年昔、神功皇后朝鮮出兵の折、洞海湾にて船団をつくり、「大蔵」の地名の由来と云われる大倉彦神の治めていたこの大蔵谷より、皇軍の御旗竿として竹を伐り出した。

その「めでたい」縁で、帰朝後「勝山」と名づけ、神功皇后みづからお社をまつられたと言われている。

筑前藩主、黒田守政公はこの勝山の名をめでて、藩主の旗竿とされ、代々の殿様の信仰あつく、祭礼の折、特に芝居や踊りの興行が許され、大蔵谷にとどまらず広く信仰された。

宝暦年中、(西暦1751年)には江戸幕府より「神社帳」に書きだすように幕命をうけ、また安永7年(1779年)御社殿建立の折、布目のついた古瓦が出たことが記録に残されています。その勝山のいわれによって勝運、武勇、海運の神様として信仰されています。
年中祭事
1月1日 歳旦祭、1月15日 どんど焼祭、2月3日 節分祭、10月12日 秋祭、12月31日除夜祭     (一部改変しました)
下関の豊浦宮(忌宮神社)に皇居があった時代、
仲哀天皇は船を造らせていて、各地に材木を調達した伝承があることを
前回、大元稲荷神社の所で書きましたが、
ここには皇軍の旗竿を切り出した所だという伝承がありました。

ざっと見た所では、多種多様の樹木が茂る山で、竹には気づきませんでしたが、
なるほど、考えてみると、竹というものは当時どれだけ有用な植物だったのか、
気づかされます。

これまででも、矢埜竹神社(朝倉市)では矢竹にふさわしい品種があって、
皇軍が必死で矢を作った話が残っていました。
風浪宮(ふうろうぐう・大川市)には神殿の裏に多種の竹が植わっている一角があって、笛に使えそうな品種を見かけました。
竹内宿禰の一族は特殊な竹を現在に至るまで伝えていると聞いています。

神功皇后の皇子である応神天皇八幡信仰の中心的存在になっていくのですが、
そのシンボルである「幡」。それも竹がないとサマにならないのですね。

「幡」は、織幡神社(宗像市)の近くの波津で織らせています。
そこで初めて紅白の幡というものが生まれたのですが、
その幡を取り付ける竹はこんな所から切り出されました。

造船の準備と一言で言えるけど、福岡の北部全体を巻き込んだ大掛かりなもので、
植生を知り尽くしていないと出来ないことでもありました。

神功皇后は新羅攻撃の凱旋後、撃鼓神社(げっこ・飯塚市)に白幡を八本奉納しています。
凱旋後の彼女の祭祀アイテムの中に「幡」が入って来ます。
「八本の幡」が勝利のシンボルとして大きな位置を占めるようになったのでしょう。

どうやら私たちは八幡信仰の始まりを目撃しているようです。
八幡信仰が広まるに連れて、神社の上に八幡(はちまん)の名が付けられて行きます。
北九州市に八幡区という名称が出来たのは八幡神社が沢山あったからだと
意外に単純な理由を神社で伺いました。

ここの祭神は剣神が中心です。
相殿に大倉彦の名があり、地名にもなっている事から、彼もまたこの土地の有力者で、
物部氏の一族だっただろうと思われます。

この由緒を見て嬉しかったのは、現地でないと分からない伝承が書いてあった事です。
1.洞海湾で船団が結成された事。
2・神功皇后がみずからここで祭祀をした事。
3.大倉彦神が当時ここを治めていた事。
です。
今回はこれらについて考えます。

1.洞海湾で船団が結成された事。
これについては、複数箇所に伝承があったのですが、
特に中宿八幡宮(八幡東区)では、熊鰐の末裔の宮司さんから直接、
熊鰐の館があり、船の修理をし、船団を結成した話を伺いました。
この勝山勝田神社にもその船団の話がさらりと書いてあって、
読んだ当時はその言葉に気づかなかったなあと思い返しています。

2・神功皇后がみずからここで祭祀をした事。
これは最初読んだ時は疑いました。ここに来るチャンスがあったのだろうかと。
その後、北九州での神功皇后の伝承を整理して行くうちに、
たっぶりと時間があったのが分かりました。

北九州の伝承は三つの時期に分けることができます。
  (ア)豊浦宮の時代 下関からやって来て神武天皇の祭祀跡に祭祀に来たり
               木材調達をしたりしています。

  (イ) 香椎宮への遷都の通り道 下関から香椎宮へ遷都する途中に通って、祭祀をしたりしています。
               洞海湾での立ち往生は日本書紀にも書かれていて有名です。
               この時には仲哀天皇と一緒です。

  (ウ)香椎宮から豊浦宮への帰還 日本書紀には省略されていたのですが、
               八幡(やはた)で軍船の修理をしていて、その間に各地にお礼参りや、
               新たな戦いへの祈りを各地でしています。
               この時には乳飲み子の皇子を連れています。

この三つが北九州には混在しているので、伝承は多いのに、
整合性がなくて不自然だと思うのは仕方ないなと思いました。

それでは皇后はこの宮にいつ来たのでしょうか。
神社の名前のとおり、勝った後に、お礼参りに来たと思われます。
それというのも、川の対岸の山の乳山八幡宮では、
神功皇后が皇子に乳を飲ませたという伝承もあるからです。

船の修理をしている間、皇后は各地にお礼参りをし、
香坂王(かごさか)の反乱を聞いて、新たな戦いの準備をしています。

3.大倉彦神が当時ここを治めていた事。
大倉彦と言えばすぐに高倉神社高倉の神を思い出します。同じ「倉」が付きます。
高倉神社は嶋戸物部氏でした。
ここもその子供たちなどの一族が治めていたのかもしれないと思いましたが、まだ仮説の状態です。

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さて、この神社には相殿が多いのですが、その中に貴船神社があります。
境内には山からの湧水を祀るところがありました。
祭神の大倉彦と大久羅姫はここで水神を祀っていたのではないかと思いました。

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そして、たまたま旗竿にふさわしい竹があったのでしょう。
大倉彦は竹を伐り出して皇軍に奉仕し、
神功皇后はその恩に、わざわざ足を運んでお祀りした事から、
神社の名称が「勝山勝田」という凱旋の名前に変わったのだと思いました。

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境内の古木です。

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住宅が密集する北九州ですが、神社の緑は驚くほど深いです。

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参道からは印象深い山が。帆柱の木を切ったという帆柱山でしょうか。
帆柱山と皿倉山はどちらがどれか、よく分かりません。
地元の方教えてくださいね。

地図 勝山勝田神社






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by lunabura | 2012-01-26 13:53 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(0)
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