ひもろぎ逍遥

lunabura.exblog.jp ブログトップ

楯崎神社(2)大己貴と宗像姫の連合軍が異敵と戦った


楯崎神社(2)
大己貴と宗像姫の連合軍が異敵と戦った


c0222861_1604119.jpg

奥の院の小祠です。左が岩窟で、後ろに巨大な岩がそびえています。
昭和28年6月、未曾有の豪雨によって地滑りが起こり、境内に亀裂を生じ、
お社も傾いて鳥居も倒れたので道路沿いにお社を建て直したそうです。

c0222861_1605851.jpg

こちらは道路沿いの方の狛犬。
祭神は大己貴神、少彦名、飛龍権現ということですが、
調べて行くと祭神がいろいろと変化しています。
飛龍権現も神功皇后だったり、熊野権現だったりしているので、
今回は境内の説明板に従って行きます。
かなり長い文だったので、時代順にまとめた形で歴史の流れを見てみましょう。

異賊の襲来に大己貴・宗像姫軍が戦った

まだ草木が物を言うような昔、夷が上陸して人民を殺傷した。その時、大己貴神后の宗像姫大神が神軍を率いて戦った。を立て、鼓を鳴らして防御し、ついには敵を撃ち滅ぼした。

大己貴神は先に宗像奥津宮に座す田心姫を娶って一男一女児、味鉏高彦根神と下照姫命を生んだ。次に辺津宮に座す高津姫命を娶って一男一女児、味歯八重事代主神と高照光姫大神命を生んだ。
大己貴命とは大国主神の事で、沢山の妻がいますが、
この宗像の田心(タゴリ)姫を娶った話は古事記にも書かれていて有名です。
が、辺津宮の高津姫を娶ったという話はここで初めて知りました。

辺津宮の祭神は今は市杵島姫となっています。
高津姫と市杵島姫が同一神なのかどうかは調べてみなければなりません。

ただ古い文献に当たっていくと、この三女神は現在のように
「沖津島がタゴリ姫、中津宮がタギツ姫、辺津宮が市杵島姫」という形に
決まっていた訳ではなく、あらゆる組み合わせが存在して異説だらけでした。
神社の方もそれでは問題が多いので、
現在の組み合わせで統一されたのだろうと思っています。

大己貴命が宗像の姉妹と結婚した件については、
これまでもマレビトが来た時には、姉妹と結婚する例がいくつも見られたので、
かなり古くからの慣習だったのでしょう。
鞍手郡誌を見ると、市杵島姫も結婚していますよ。
(相手がよく分からないので調査中です。これらの研究は一生かかりそうですね。)

この縁起で見逃せないのは、大己貴の時代に敵の襲来があったという事です。
同じ話が遠く離れた糸島市の雷神社(いかづち)にも伝わっていたように、
神功皇后の前の時代には異賊の襲来と戦いが長年続いた事が分かります。

c0222861_164276.jpg

これは神社のそばから見える「恋の浦」です。ここが戦場だったのでしょうか。
現在も密航の監視塔があり、朝鮮半島から潮に乗れば漂着出来る場所です。

神功皇后が祈願した
昔、息長足姫尊が将として西征の時、この山に登って神助を祈った。その時の御船が停泊した所を京泊という。社北、御手を●●した所を「御手水の瀑布」という。

その側に大岩があり、形が軍船のようで、「加羅船岩」という。また三岩瀬あり。その中間には「湯壺」という温泉があって湧き出している。潮が引くと今なお温泉が湧き出しているのが見られる。

ここを北の磯浜と言い、その中に「五色浜」がある。小石が五色で鮮明だ。また「楢葉浜」には化石があって楢葉の文が見られる。この岸の西二町ばかりに「鼓岩」があり、形は鼓にそっくりで、草木は生えていない。鼓島はおよそこの山海の奇勝、言葉に尽くせない。どれもこれもが神明の霊蹟である。(●●は不明)
神功皇后は大己貴の戦勝の縁起にあやかろうとしたのでしょうか。
ここまでやって来て楯を奉納し、その楯が石になったと伝えます。
縁起に書かれた奇岩は現存していて、滝も温泉も残っているそうです。
珪化木や葉の化石、地層なども観察できるところです。

「京泊」(きょうどまり)は古代の良港で、輸入した馬を上陸させて放牧していました。
(⇒渡の牧跡 神代に放ち給う馬の牧跡 http://lunabura.exblog.jp/16445440/

このような半島の牧場を管理し、大己貴の戦勝の盤座を知って案内したのは誰でしょうか。
よほど信頼関係のある長でないとノコノコと付いて行くのは危険な場所です。

ここに近いのは宮地嶽神社で、祭神は神功皇后と勝村、勝頼大神です。
勝村、勝頼の二神は神功皇后を助けて新羅へ遠征したと言いますから、
この二人が案内したのかも知れないなと考えています。

尚、神功皇后が新羅から帰着した場所という伝承が海岸沿いにいくつも残っています。

最澄が仏像を奉納した
桓武天皇の御世、最澄師、求法のために唐国に赴かんとしてここに詣で、宿願を達せんこと祈り、自ら薬師阿弥陀観音像を彫刻して安置し、楯崎寺という。今俗に楯崎薬師と称する所はすなわちこの新宮なり。誤って古宮を薬師となし、神山を称して薬師山という。かつて大神の本跡を知る者なし。
最澄までやって来たんですね。
この楯崎神社のご加護の大きさは数百年たっても語られ続け、
最澄もまたその御加護を祈願して仏像を彫刻して奉納したことから、
薬師寺、薬師神社という名称が重なっていったようです。

西行法師が歌を詠んだ
夫木集 西行法師
さかおろす 楯石崎の 白浪は あらきしほにも かかりけるかな

西行法師がこの楯石崎の海岸を歌に詠んでいました。

c0222861_16103539.jpg

バルチック艦隊と三笠の戦いもこの海です。



ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2012-03-16 16:14 | 楯崎神社・たてざき・福津市 | Trackback | Comments(5)
トラックバックURL : http://lunabura.exblog.jp/tb/17688600
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
Commented at 2012-03-19 18:28
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by csaオアシス at 2012-03-19 21:18 x
楯崎神社に上記のような伝承があることは、まったく知りませんでした。

思えば、出雲と宗像の神々は、とても深いつながりがあるのですね。
それは、「北部九州と出雲地方との関連性」と言い換えることも出来るかもしれません。
英彦山にも、大己貴命と宗像三女神がまず、(英彦山)北岳に降臨し、
その後、三女神をその中腹(中宮)に留め、大己貴命自らは出雲の地に移ったとの
伝説もありますし・・
もちろん、出雲大社においても、その本殿瑞垣内摂社のひとつの
筑紫社(つくしのやしろ)に、
田心姫(多紀理毘賣命)をお祀りしています。

ところで、下照姫命と聞いて、
福岡市博多のキャナル・シティのすぐ近くにある
下照姫神社を思い出しました。
都会のビルの間にあって、すごくちっちゃな神社ですが、
博多・住吉神社の末社になっていて、毎年、稚児行列が行われていますね。

私の癒しの地でもある、勝浦の浜の素敵な写真と、
たいへん貴重な記事を、どうもありがとうございました!^^
Commented by lunabura at 2012-03-19 22:35
英彦山にそのような伝承があるのは初めて知りました。
六ケ岳の降臨地とともに、遠賀川流域は多くの伝承が秘められていますね。
出雲大社も田心姫の社や祭殿の向きなど、筑紫との関わりも、福岡の方でもう少し手掛かりが出て来そうです。
下照姫神社の事も初めて知りました。
こうして、情報を出し合うと、いろいろとヒントが得られてありがたいです。
ありがとうございます。

Commented by ばってんハカタ at 2012-03-20 19:51 x
るなさんご無沙汰です。

宗像大社も謎が多いですね。

以前ボランティアの方にお聞きしたんですが、

宗像大社辺津宮の千木は垂直に切ってあり一般的には

千木が垂直の場合は、男神を祀ってあるんだそうです。

ちなみに沖津宮・中津宮両方とも千木は水平なんだそうです。

ひょっとして辺津宮の神様は男性なんでしょうか。
Commented by lunabura at 2012-03-20 21:11
そうなんですか~!
千木が垂直とは、大発見ですよね!!
宗像の御祭神は古くは大国主だという方がいました。
すると、この大己貴命がその人ですよね。
英彦山にも降臨したという話なので、これまでの神社史は大幅見直しが必要かも知れませんね。
なんだか大変な事になりました。
line

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


by lunabura
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー