ひもろぎ逍遥

lunabura.exblog.jp ブログトップ

篠崎八幡神社・「穴門は近し」の謎


篠崎八幡神社 
北九州市小倉北区篠崎
「穴門は近し」の謎

篠崎八幡神社は高速道路の紫川インターチェンジのすぐ近くにありました。

c0222861_19581987.jpg

けれども全く別世界。静かな山の頂に鎮座していました。

c0222861_19584232.jpg

とても広い境内です。

c0222861_19585882.jpg

神社の赤色は深い紅色。それに紫色の垂れ幕が美しい調和を見せています。
御祭神は応神天皇・神功皇后・仲哀天皇。
宗像三女神・玉依姫
です。

子と母と父。
八幡神社なのでおなじみの組み合わせですが、仲哀天皇が祀られているのが珍しいです。

c0222861_19592117.jpg

この拝殿の左右には大きな岩が置いてあります。今回は左にある岩に注目しましょう。
力石由来記から
神功皇后が三韓から凱旋の時、筑前の宇美で皇子(後の応神天皇)を御安産され、翌年穴門(長門)の豊浦宮にお向かいになる途中、鷹尾(高尾)山の山頂にあった大石(力石)の上に皇子をお立たさせ、遥かに菊の長浜や文字ヶ関を望み群臣を顧みて、「穴門は近し」と御懐かしみなさいました。
ということで、これが皇子が立った大石だそうです。
生立八幡で初めて母の膝をつたって立ち上がった皇子を
この石に立たせたという事ですから、群臣はハラハラしながらも、
幼子のたくましい成長ぶりに感動した事でしょう。
亡き父帝の忘れ形見として、これから倭国を引っ張って行く天皇にしなくてはならないと、
深く心に誓った事でしょう。
そう、これから皇子を天皇にするためにはもう一つの戦いが待っていたのですから。

ところで、この石は拝殿前にあるので、菊の長浜や門司ヶ関は見えません。
御由緒の続きを読んでみましょう。
敏達天皇12年(584年)勅命により、この故事に基づき鷹尾山の麓に神社を建て、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇を祀り、葛城小藤丸を祭祀に当たらせ『篠崎神社』とし、天平2年(730年)宇佐八幡宮から分霊を勧請、『篠崎八幡神社』としました。

現在地には、嘉祥3年(836年)祇園社が祀られている宮尾山を美しき神域と御遷座になり、明治以前においては、源義基、平康盛、足利尊氏、細川忠興、小笠原忠真、小笠原忠総等が社殿造営をなさり、昭和46年の造営を含め、合計7回あったといわれ今日に至っております。
現在地は宮尾山です。神社はもともと鷹尾山の麓にあった事が分かりました。
神社にお尋ねしたら、この大石もその時移動させたものだそうです。

鷹尾山からはどんな景色が見えたのでしょうか。

c0222861_2021594.jpg

場所は違っていても、雰囲気を味わいたいと思って楼門からさらに正面に
山門があったので立って見ると、長い石段がありました。
そしてそこから見えた景色は急峻な山と高速道路。
かつてはここも海だったのでしょうか。

c0222861_2025033.jpg

皇子とともに皇后が登った鷹尾山を探してみると、高尾という地名がありました。
元宮は現在地から西に一キロだそうですからこの付近だったのでしょう。

そして、神功皇后の一行が生立神社からどのルートで北九州市に出て来たのか、
手掛かりを探していた時、『神功皇后の戦略』(永井功)の本に、
由緒書きに省略されていた部分を発見しました。
豊前国葛城藤丸規矩(きく)県主(あがたぬし)耳熊彦が皇后を筑豊の界に迎えに行った。菊長池に沿って亀甲の丘を越え、逢坂を経て二の熊に到る。吹上川を渡り、車駕を鷹尾山の麓に留めて山勢が丸い形をしていて他の山と違っているのを仰ぎ見た。

頂上に登り、東に菊花の浜、文字(門司)関を眺めて、北に没利阿閉諸島(六連・藍島)を見て、群臣を顧みて言った。「穴門は近い。」人々はそれからはこの山を近見という。この時、皇子が初めて立った石が今なおそこにある。」
規矩の県主(あがたぬし)耳熊彦が直々に葛城藤丸と一緒に迎えに行っています。
葛城藤丸と小藤丸は葛城襲津彦の末裔だと伝えられています。
これまでもそうでしたが、船の旅は現地の人でないととても案内出来ません。

位登八幡神社で半年も滞在したのは、この迎えを待っていたのでしょう。
それは香椎宮からの百官百寮を連れての大人数の遷宮のために、
豊浦宮へ帰還するための旅路の手配に時間が必要だったと考えていましたが、
「穴門は近し」という神功皇后の言葉に、
そう単純な事情ではないな、と思うようになりました。

大集団の移動なら空っぽの豊浦宮に最短距離で帰るのが合理的です。
それを一旦、その前で留まるというのですから。
皇子を天皇に付かせえる為にどうしても戦わねばならぬ異母兄弟。
香坂(かごさか)王と忍熊(おしくま)王
その動向が気になる所です。

記紀では香坂王たちは近畿に戻っているように書いてありますが、
地元の伝承からはそれが不自然に見えて来ました。
途中までは日本書紀には日付まで書かれていたのが、
まるでワープしたように省略されていた秘密は
この豊浦宮と香坂王たちの問題が絡んでいるのだなと推測されるのでした。


地図 篠崎八幡神社




ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2012-03-25 20:06 | (サ行)神社 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://lunabura.exblog.jp/tb/17721875
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
line

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


by lunabura
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー