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百済の前方後円墳(1)北部九州から渡った倭人たち


百済の前方後円墳(1)
北部九州から渡った倭人たち

百済には前方後円墳が10基以上も存在します。
日本独自の形態の古墳だと言われているのに、何故韓国にあるのでしょうか。
被葬者はいったい誰なのでしょうか。

そんな謎が今回のテーマです。

前方後円墳は韓国の南西部に集中しています。赤い枠の中です。
九州に近いですね。そこは当時は百済の領土でした。

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枠の中に光州がありますが、そこから南西に流れるのが「栄山江」という川で、
この川の流域に前方後円墳は集中しています。またその南北の海辺にも見られて、
大まかに三つのエリアに分けられるようです。

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いったいいつの時代のものなのか?
疑問が起こりますが、既に日本で研究されている前方後円墳の緻密な系譜と
照合して割り出された結果は、5世紀後半から6世紀前半に限られたもので、
現地の墓制とは関係なく唐突に出現したものと判明しました。

被葬者については当然ながら、「百済人か倭人か」という論争があるのですが、
今では「倭人で、百済に仕えた高級官僚」だという説が主流となり、
現在の研究はその名前が日本書紀から具体的に考察される段階に来ています。

さて、5世紀後半から6世紀前半って、日本はどんな時代だったのでしょうか。
サイドバーから拾い出してざっと眺めましょう。
462 倭王子興が遣宋使
478 倭王武が遣宋使
479 雄略帝が末多王を百済王に任
479 倭国は高句麗を攻撃
480~ 装飾古墳が出現
507 継体天皇26代 即位
512 任那4県を百済へ
512 倭国は高句麗に勝利
515 倭国は伴跛国に敗北
527 磐井の乱
531 継体天皇崩御
531 安閑天皇・27代 即位
535 穂波・嘉麻屯倉設置
536 物部のアラカヒ死去
536 蘇我稲目が大臣になる
537 宣化天皇・28代 即位
538 百済聖明王が仏像献上
539 欽明天皇・29代 即位
むむ。「倭の五王」や「磐井の君VS継体天皇」という、論争の賑やかな時代ですぞ。
倭国は百済王の任命権を持っていたようだし、高句麗とも戦ってる。
なんだか、ダイナミックな時代です。

この時代に百済に行った倭人が活躍して、母国の墓制で埋葬されたというのです。
倭国の風習通りに円筒埴輪(現地で作製)をずらりと並べた古墳があったり、
倭国系の武器を副葬した古墳、
またゴホウラ貝の釧や仿製鏡、須恵器など、倭国ゆかり物が添えられた古墳があったりしています。
彼らは異国でも倭国の物を大切に使っていたのですね。

一方、倭国の方では装飾古墳が華やかで、伽耶製品や百済製品が副葬されたりしています。
これは何を意味するのでしょうか。

これらの謎解きをした朴天秀氏の論文がPDFで公開されていました。
日本と百済の考古学的発掘資料をつぶさに検討した論文で、
国外からの視点が得られる魅力的な論文です。しかも日本語!

「韓半島南部に倭人が造った前方後円墳」
―古代九州との国際交流― 朴天秀(慶北大学考古人類学科教授)
韓半島南部の栄山川流域の主な前方後円墳と 古代日本との交流を示す出土物
http://www.kiu.ac.jp/organization/library/memoir/img/pdf/kokusai5-1_2-001paku.pdf
今回はこれを道しるべに百済の熊津(ゆうしん)時代を辿りましょう。

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この画像はその第一ページに掲載された海南長鼓山古墳で、全長77m。
韓国最大の前方後円墳です。やっぱり前方後円墳って美しいですね~。
場所は韓国の最南端。日本に向かうような位置です。

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さて、栄山江流域はどうでしょうか。
るなが個人的に興味を持った部分を抜き出しながらあれこれと考えて行きます。

1 栄山江流域の前方後円墳の被葬者は副葬品から考えて「周防灘沿岸、佐賀平野東部、遠賀川流域、室見川流域、菊地川下流域などに出自をもつ複数の有力豪族と想定」される。
―おおお。知ってる地名ばかりです。
これらはこのブログでおなじみの地名です。
菊地川以外は神功皇后の辿った道と重なっています。

という事は、彼女や仲哀天皇を支えた物部氏や熊族、安曇族、水沼族、住吉族などが
その後も地域を守って、つねに軍備を整えていたんですね。
そして今度は百済を守るために海を渡り、骨を異国にうずめたというのです。

2 公州市丹芝里の横穴古墳群の被葬者は、その形態が周防灘沿岸と遠賀川流域のそれを類似する点から、北部九州地域の倭人であり、百済王都の防御と関連する集団と推定できる。
―百済には横穴古墳群もある!
しかもそれが周防灘沿岸や遠賀川流域と似ている!
このブログで訪問した中間市の垣生羅漢百穴や瀬戸第14号装飾横穴を思い出します。

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これは垣生羅漢百穴の線刻画。
船に乗って鉾や旗を振り上げた勇ましい姿が描かれています。

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これは瀬戸第14号装飾横穴のレプリカ。
馬の曲乗りが得意な人物が馬上から弓を射ています。
彼もまた船にも乗って遠賀川を自由に移動したのでしょう。

垣生羅漢百穴の方が1600年前のものだというので、
百済の前方後円墳から50~100年ほど後の時代の人々だという事になります。

この勇者たちの先祖が百済の王都を守るために出征して行った可能性があるというのです。
(すごいものが中間市に残っていたんだ。
これらの価値がもう少し見直されたらいいのにな。
せめて各墳墓の線画の写真だけでも資料館で閲覧できたらいいのに。
中間市の歴史資料館さん、お願いしますだ。)

(つづく)






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by lunabura | 2012-05-12 09:57 | 百済の前方後円墳 | Trackback | Comments(0)
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