ひもろぎ逍遥

lunabura.exblog.jp ブログトップ

百済の前方後円墳(5)中国正史に「倭国」と「日本」 二つの王朝が書いてある…


百済の前方後円墳(5)

中国正史に「倭国」と「日本」 二つの王朝が書いてある…
まずは『旧唐書』倭国伝を読んでみよう

日本書紀を気ままに訳していました。
我が国の事を古い時代は「倭国」と書いていたはずなのに
継体天皇の時代には「日本」という表記が出て来ました。
いったいいつの間に「倭国」から「日本」になったんだろう。

そう思いながら『旧唐書』(くとうじょ)をパラパラとめくっていると、あれあれ?
目次に「倭国」「日本」と二種類書いてあるのです。
これはいったい何だ!
日本が二種類だって?
二つ並んでいるという事は、唐は明らかに「日本列島に『二つの王朝』がある」
と認識していることを示しています。

「倭国」と「日本」は別なのか?
読み始めるといきなり「倭国」の場所が書いてありました。
目が点 (@_@;) 何じゃあ、これは!
それは良く良く知っている所でした。
それはこのブログでずっと歩きまわった所―奴国だと書いてあるではないですか。

それじゃあ、「日本」は、ど、何処?
と驚いたのですが、訳して読まないと、どうしようもない…。
と、ぼちぼちとチャレンジするのでありました。
という事で今回は『旧唐書』倭国伝です。

倭国
倭国はいにしえの倭の奴国(倭奴国)のことである。唐の都の長安を去ること1万4千里。新羅の東南の大海の中にある。倭人は山ばかりの島に依り付いて住んでいる。倭国の広さは東西は5か月の旅程で、南北は3か月の旅程であり、代々中国と通じていた。

その国の町などには城郭が無く、木で柵を作り、家の屋根は草で葺いている。

四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。制定する官位は12等級ある。訴訟する者は匍匐(ほふく)して前に出る。

倭国には女が多く、男は少ない。かなりの漢字が通用している。俗人は仏法を敬っている。人々は裸足で、ひと幅の布で身体の前後を覆っている。

貴人は錦織の帽子をかぶり、一般人は椎髷(さいづちのようなマゲ)で、冠や帯は付けていない。

婦人は単色のスカートに丈の長い襦袢を着て、髪の毛は後ろで束ねて、25センチほどの銀の花を左右に数枝ずつ挿して、その数で貴賤が分かるようにしている。衣服の制(つくり)は新羅にとても似ている。

貞観5年(631)。倭国は使いを送って来て、地方の産物を献上した。太宗は道のりが遠いのをあわれんで、所司(=役人)に命じて毎年朝貢しなくてよいように取りはからわせ、さらに新州の刺史(しし=長官)高表仁に使者のしるしを持たせて倭国に派遣して、てなずけることにした。ところが表仁には外交手腕がなく、倭国の王子と礼儀の事で争いを起こして、国書を述べずに帰国した。

貞観22年(648)になって、倭国王は再び新羅の遣唐使に上表文をことづけて太祖へ安否を伺うあいさつをしてきた。

(※のちに「倭の奴国」は「倭奴国」と換える事になります。)
以上が「倭国伝」です。この『旧唐書』は945年に成立しています。

唐の太祖(在位626年 - 649年)の時代のエピソードが書かれているので、
皇極天皇の642年の即位、白村江の戦いの663年と比較すると、
「倭国の王朝」がまだ存在して、「日本」と併存している事になります。
しかし、この後の『新唐書』ではもう「倭国」についての記述は消えてしまいます。

やはり白村江の戦いで倭国の兵士たちが海の藻くずとなった事が
倭国の滅亡へとつながったのでしょうか。

「倭国とはいにしえの倭の奴国だ。」という事は福岡県の北部を指しています。
奴国(なこく)。那の国。儺の国。表記がいろいろとあります。
そう。そこはこのブログでずっと歩いてきた所なのです。

奴国は現在の福岡市を中心にして、もう少し広い領域が相当します。
これまでの聞き取りでは東は福津市の東郷川まで、あるいは宮地嶽古墳あたりまで分かっています。
西は那珂川町が『儺の国の星』のタイトルが示すように奴国に入ります。
北は志賀島あたりまでかな?南限は未調査です。

倭国(奴国)の王の姓は代々アマ・アメと書いてあります。
これを見てちょっとショックでした。だって日本の神話によく出て来る名前ですから。

どこに住んでいたのでしょうか。
候補地の一つに聞き取りでは粕屋郡の志免町があります。
また、仲哀天皇の時代はもちろん儺の県―福岡市東区香椎ですね。
(ただし仲哀天皇が倭国の王のアマ氏かどうかはよく分からない。)

中国正史の他の本をパラパラとめくると都は
『新唐書』には筑紫城。
『隋書』には邪靡堆。即ち邪馬台だと書いてあります。
邪馬台も奴国にある事になってしまいます。
まだ一部しか読んでいないので、結論は出せませんが、これはいったいどういう事なのでしょうか。
都というものは時代の変化に合わせて転々とするけど、奴国の中でという事になります。

これがいわゆる「九州王朝」を指すのは明らかです。
こりゃあ「九州王朝説」とは、説ではなく、「事実だ」よ。だって中国の歴史書にそう書いてあるんだもん。

朴天秀氏が明らかにした百済の前方後円墳から割り出される「古代九州勢力」が
この「倭国」であるというhurutakaimasakiさんの指摘もまちがいありません。

中国史の部分しか読んでないので、全容を早く知りたいなあ。
誰か既に論文書いてないかなあ…。ズボラしたいよ。
公開日記に書くには問題が大きすぎますよね。


さてさて、話は全く変わりますが、ここに描かれた倭人のファッションが気になります。
人々は裸足で、ひと幅の布で身体の前後を覆っている

これは庶民の格好の話ですが、いったいどんな格好?

c0222861_23563574.jpg

この写真の中央の人は「貫頭衣に一枚の布を前後に覆った」格好です。
左の人は貫頭衣だけ。右の人は貫頭衣の上から一枚の布を肩で結んでいます。
「顔が濃い人たち」が着ると「弥生人の貫頭衣」とは全く違うように見えますが…。
どうみても貫頭衣です。

c0222861_01459.jpg

阿部寛さん以外は現地のローマ人。似た人、ご近所にいませんか?

貴人は錦織の帽子をかぶり、一般人は椎髷(さいづちのようなマゲ)で、冠や帯は付けていない。

c0222861_23573033.jpg男子でも身分が高くなると帽子をかぶり、
一般人は「さいづちのようなマゲ」を結っています。
才槌は木の槌ですから、こんな感じかな?
これは『三国志』(180~280)の髪型です。日本では弥生時代ですね。
竹内宿禰が軍勢にこの髪型にさせて、弓の弦を隠させたのを思い出します。
ということは彼らは普段は違う髪型だった訳ですが。

c0222861_23574666.jpg

参考までに同じ『三国志』の冠や甲のようすです。
倭国の王族アマ氏は毎年、唐に朝貢していたというのですから、
このような服装の影響を受けていただろうとも思えるのですが。
いったいどんな格好をしていたんでしょうね。
c0222861_2358574.jpg

上は竹原古墳の壁画の武人。ブーツはいてるね。

婦人は単色のスカートに丈の長い襦袢を着て、髪の毛は後ろで束ねて、25センチほどの銀の花を左右に数枝ずつ挿して、その数で貴賤が分かるようにしている。衣服の制(つくり)は新羅にとても似ている。

c0222861_23584585.jpg身分の高い女性はスカートに襦袢です。
襦袢(じゅばん)の語源はアラビア語の「ジュッパ」がポルトガル語「ジヴァン」に変化して、漢字をあてたものだそうです。
高松塚古墳(700年前後)の壁画の女性たちは後ろで髪を束ねてスカートを履いて、襦袢を着ています。
壁画のスカートはカラフルですが、倭国の場合は単色でした。
ヘアースタイルはトップは少し逆毛を立てて、あとは後で束ねています。
銀の花の髪飾りを揺らすにはもう少し上の方で結った方が良さそう。




c0222861_2359730.jpg良く似ているという新羅の女性の服装です。
こっちの方が銀の花の髪飾りが似合いそう。
倭国の婦人たち。どんなファッションだったのでしょうね。

次は同じ『旧唐書』の「日本伝」を読んでみましょう。

(つづく)










ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2012-05-23 00:05 | 百済の前方後円墳 | Trackback | Comments(21)
トラックバックURL : http://lunabura.exblog.jp/tb/18002412
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
Commented by くみりん at 2012-05-24 18:15 x
こんにちわ(^^ゞ
倭国と日本の話、おもしろいですね。
私は何にもわからないのですが、私の住んでるとこが
アマ〇〇でしょう?
文中に『倭国(奴国)の王の姓は代々アマ・アメと書いてあります。』と
あったので、おっ♪と思いましたが…地域が違いますよね…。
でも、なんだかワクワク感がありました。
画が入っているのでわかりやすかったです(*^^)v
Commented by lunabura at 2012-05-24 18:30
おもしろいですか?それは嬉しいです。
出来るだけ楽しめるように、写真をいっぱい貼り付けました。

そういえば、アマ〇〇でしたね !
漢字を変えたら、阿毎〇〇? 
でも、あの丘陵地帯は確かに豪族が住むのによさそう。
アマ族の出張所があったかも。
遺跡が出ていませんか?

つづきを訳し始めていますが、おかしくて一人で笑っています。
ぼちぼち参ります。
Commented by ばってんハカタ at 2012-05-24 19:49 x
ルナさんこんにちは。

古代の服装もなんだかイメージできて楽しいですね。

ところで”「倭国とはいにしえの倭の奴国だ。」”
の部分ですが原文はどうなってますか?

中国で7年遊んでいた者の意見ですので、
絶対正確とはいえませんが”倭の奴国”
と訳をよく見かけますが、やっぱり違和感を感じます。

”倭の奴国”と表記するのなら”倭的奴国”
と単純に表記するように思うのですが…

われわれ日本人と違い中国には漢字以外の
表記方法がありませんので、外人の名前・地名など
漢字の意味をまったく無視した音だけ重視の当て字を使いますので、
倭奴という国という可能性はないでしょうか?
Commented by lunabura at 2012-05-24 21:46
ええ?中国に7年も?すごいですね~。
御指摘の部分。

「倭國者古倭奴國也。」です。
ついでに、「日本伝」。(次回の分)
「日本國者倭國之別種也。」です。
使用した本は「倭国伝」講談社学術文庫です。

おっしゃるとおり、「倭奴」です。
こうなると、どうなるんですか?
アドバイスお願いします (^-^)/
Commented by ばってんハカタ at 2012-05-25 14:43 x
ルナさんこんにちは

7年いたといっても学校にはほとんど行かずに、
外で遊んでばかりいた適当漢語ですので、
そのつもりで聞いてくださいねw

"倭國者古倭奴國也"と"日本國者倭國之別種也"ですが、
なんだか日本人が書いた漢語っぽいなぁと思いました。

意味は文字通りの解釈で問題ないと思います。

"倭國者古倭奴國也"は倭國はむかしの倭奴國なり

"日本國者倭國之別種也"は日本國は倭國とは別種なり

"倭奴"ですが、すみません勉強不足でなんと発音したのか
分かりません。今度友達に聞いておきます。
Commented by くみりん at 2012-05-25 22:58 x
そういえば…私の住んでるあたりは、少し大きめの建物を建てる時、必ずと言っていいほど、遺跡がでて工事が中断しましたね。
長い時はたしか…何カ月か工期が延びたことがありましたよ。
どんな遺跡がでていたのかは、わかりませんけど(^^ゞ
Commented by lunabura at 2012-05-25 22:59
ばってんハカタさん。こんばんは。
中国語もプートンファ(漢字忘れた)さえ隅々まで通用しないそうですね。やはり広~い国なんだ。
現地の人の発音、楽しみにしています。

「者」の字って、漢文の時間に出てきたような気がします。(遠い昔を思い出す。)
苦手な分野なのでよろしくお願いします。^^
Commented by lunabura at 2012-05-25 23:01
くみりんさん。こんばんは。
やはり出て来ていますか? (*^^)v
すぐ近くには超有名な貝塚もあるし。
きっと、すごいのがありそうですね。 (-。-)y-゜゜゜
Commented by hurutakaimasaki at 2012-05-26 19:38 x
志賀島の金印に見える「漢委奴国王」の委は、「したがう、すなお、おだやか」、その反対が「匈=たけだけしい、さわがしい」で、匈奴の匈です。漢に従わず戦に明け暮れた民族が「匈奴」、漢の光武帝に「自ら」帰服してきた東方の民が「委奴」。匈奴に与えた印が「匈奴単于璽」で、「匈の奴の単于の璽」とは絶対読みません。「匈奴の単于の璽」ですよね(璽は御名御璽の璽で最高の印。服属しなかったから「漢」は無し)。帰服した倭人に与えられたのは「漢委奴国王」印で、「漢の委奴の国王」と読む、これが印文の読み方のルールのはずです。「倭国とは(古え光武帝が金印を与えた)委奴国である」というのが『旧唐書』の言わんとするところでしょう。(なお倭の上代の読みは「い」で倭=委です
Commented by lunabura at 2012-05-26 20:57
なるほどですね。単純明快ですね。

ところで、原典を当たった訳ではないのですが、今回の『旧唐書』の場合は「倭奴」と書いてあるので、「委奴」とは別物ではないかとも思ったのですが。いかがでしょうか。
金印の字と似ているのですが、同じでもないので、別の物として考えました。
何人もいろんなサイトを紹介してくださって、関心が高い所だなと思っています。
「弁辰楽奴国」(三国志・韓)という国があり、ここは「べんしんらくぬこく」と、同じ訳者が「奴」について別の読み方を当てています。(倭国伝・講談社)
いったいどうなっているのでしょう。
と思いつつ、諸兄の意見が聞けたらありがたいです。
Commented at 2012-05-26 22:14 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2012-05-26 22:41 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by lunabura at 2012-05-26 22:52
なるほどですね。鍵付きで、私だけが読むのはもったいないです (^-^)
奴国か。「儺の縣」は「なのあがた」。

少し話がずれるのですが、ずっと気になってるのが、
紀伊の国は基肆と同じ「キイ」で、佐賀県にあること。
景行天皇の所の紀伊の国を基肆の国で解釈して行くと、地理がうまくいきそうなのです。

そこが竹内宿禰の母と関係があるみたいで。
竹内宿禰の伝承地は幡織りの話がよく出て来て、秦氏と関係がありそうだし、
弓月の君たちを助けるために子供の葛木ソツビコを送る
…そこらがよく整理できないのです。
竹内宿禰は秦氏なのでしょうか。
すると父親が秦氏なのでしょうか。
ここらへんに来ると頭がまっしろになって分からなくなるのです。

それがヘブライ語の委奴と関係ある?

Commented by hurutakaimasaki at 2012-05-26 23:35 x
簡単に言えば「奴」の音は2通りあり、漢音でド、呉音でヌです。「匈」は「きょう」と「く」ですから、匈奴を漢音でよめば「きょうど」、呉音で読めば「くぬ」でしょうか。
委はどちらも「ゐ」ですから「ゐど」か「ゐぬ」になろうかと。
ただ、漢代の漢人は匈奴・鮮卑の侵略で南に逃れ南朝(東晋)を作っていますから、南朝の「呉音」の方が彼らの音を残していると考えられています。一方匈奴・鮮卑は北朝を作り、自らの音を「漢音」と呼んだので、漢の光武帝が「きょうど」と言ったのかは疑問です。タイムマシンでもあれば・・・(温泉に飛び込めば漢代に行けますかね?)
Commented at 2012-05-27 00:03 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by Kino at 2012-05-27 03:40 x
松野連系図に委奴の文字が見えますね。
http://ameblo.jp/hokuba/theme-10042624711.html
...「松野連系図」から、平野雅曠がこの流れが山門から博多湾岸に至り、金印国家・委奴国を創始したとするのを、系図に鈴木真年が公子忌に続く順に「居于委奴」と注記し
Commented at 2012-05-27 17:16 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by lunabura at 2012-05-27 22:26
文中『大将軍紀某』は肥前基肄郡基肄(きい)の将軍、『巨勢某』は肥前佐嘉郡巨勢の将軍、『葛城某』は肥前三根郡葛木の将軍と思われ、いずれも肥前である...

これは有り難い資料ですね。
ここらあたりは五十猛命を祀る神社もネットワークがある気配なので、
これから調べようとしているテーマです。
なにせ現地にいかないと閃かないので、もう少し先延ばしです。

まさか、百済の道草がこんなに長くなるとは思っていなくて…。 (^-^)
Commented by lunabura at 2012-05-28 08:50
hurutakaimasakiさん。
>簡単に言えば「奴」の音は2通りあり、漢音でド、呉音でヌです。「匈」は「きょう」と「く」ですから、匈奴を漢音でよめば「きょうど」、呉音で読めば「くぬ」でしょうか。
委はどちらも「ゐ」ですから「ゐど」か「ゐぬ」になろうかと。

ー分かりやすく教えていただいてありがとうございます。漢音と呉音の違いとは、思いもしませんでした。
ところで、その倭奴国はどこに想定されているのですか?
怡土国なのでしょうか?
それとも金印の埋納されていた奴国 でしょうか。
(金印も、対岸の神社の宝物だったという話もあるようですが)
Commented by hurutakaimasaki at 2012-05-28 11:06 x
委奴国とは倭国を構成する小国ではなく、倭人国全体を指し、金印はこれを統合する大王に下賜されたと考えます。
『後漢書』に、倭人の国は三十余国で、各国皆王を称していたが「大倭王」は「邪馬臺國」にいたとあり、漢が大倭王を「飛ばして」、その臣下の王に金印を与える事はないからです。世々女王国に統属していた怡土国を指すものでは無いと思われます。
邪馬臺(壹)國が何処か、奴が那(ナ)と読めるかは別としても、金印は志賀島から出たとされるのですから、筑紫・それも北部博多湾近郊に王はいたと推定されますね。
(金印は志賀島ではなく「前原市の細石神社の宝物だった」との亡くなられた前の宮司徳安正彦さんの証言があります。福岡市の志賀島の遺跡調査もこれを裏付けており、本当のようですよ)
Commented by lunabura at 2012-05-29 15:41
合理的な説明ありがとうございます。
たしかに広さが東西五か月とあるので、統合された全体を考えるのが適当ですね。
そして、あの朴氏のいう北部九州に出土する百済の宝物の分布がその理解を助けてくれるのでしょう。

金印の神社は細石神社だったのですね。
それはそれとして、志賀島の金印出土地の近くは安曇の磯良の住まいがあった所の近くのようです。
地図をさかさにすると分かるのですが、倭国の北部沿岸の全体を見回せるような立地です。
まだまだ調査の余地があるので、これも早く取り掛かりたいのですが。
あちこち気になる所ばかりで、温泉に飛び込んでぱっと出現できたらいいんですけど。(^-^)
line

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


by lunabura
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー