ひもろぎ逍遥

lunabura.exblog.jp ブログトップ

百済の前方後円墳から考えた


百済の前方後円墳から考えた

百済の前方後円墳の流れを追っている途中だが、前回は新羅に寄り道して、
木槨墓の代表である天馬塚古墳をレポートした。
新羅の墓制はこのあと、横穴石室に変化して行く。

双円墳と見られた墳丘墓も、もともと円墳が一基あったのだが、
のちに一部削り取って新たに円墳を重ね合わせるように作った事が分かっている。
このうち古い円墳は木槨墓だったが、新しい方は横穴式石室になっていたことが判明。
夫婦や親子の墓が続けて作られたのではないかと想像されるが、
墓制の変化を反映するものとなった。

この新羅の地には前方後円墳は存在しないという。
これは百済に前方後円墳があるのと比較するのに好材料だ。

先日、九州前方後円墳研究会で発表の一部を聞いた。

百済では約30年間という短期間に十数基の前方後円墳が造られた。
各地に散らばって造営された件について、百済側による分断政策という説があったが、
最近、コンピューターによって古代の道路が再現され、
前方後円墳はその道沿いに造られているという発表があり、
前説は見直しする必要が出てきた。

また、発掘調査が周囲の集落にまで及ぶようになり、
前方後円墳を造営した人たちの村ではないかと期待されている。

まとめの段階で、百済(南朝鮮半島)の前方後円墳群は九州と関わりが強く、
考古学資料からは日本書紀に書かれている継体天皇と磐井の君の関係については、
見直しが迫られるという結論が出た。

それはこれまでの通説では考古学的な出土物の説明がつかないことを意味する。
これを聞いていて、九州王朝の存在を補強するものだと思った。

『旧唐書』にあるように、倭国と日本国が併存した時代がある。
倭国が九州の本家で、日本国が近畿の分家のような関係だと思っている。
のちに分家の方が繁栄したが、
白村江の戦いで倭国が実質滅びたのではないかと考えるようになった。
成人男性の人口激減と武器や船の壊滅のために、
残された九州の子女ではとても国を支える生産は出来なくなっただろう。

その危機の時に、分家の日本国が列島全体を統制するようになった。
その時に分家は自分の系統が本家となるように歴史の手直しをしたのだろう。

系図を切ったり貼ったりする時に、
カリスマ性の高い神功皇后と竹内宿禰を取り込むために
竹に木をつないだような改竄が行われたのではないか。
謀叛軍だった神功皇后たちが官軍になったのだから、かなりの書き換えが必要だ。
また筑紫の君・磐井についても、本末を転倒させたのではないか、
と考えるようになった。

この疑問を解明するには仲哀天皇と、応神天皇=誉田天皇の見直しが必要であり、
さらに前の時代の景行天皇の九州の動向を調べる必要があるだろうと思っている。



なんちゃって…。
早く、あちこちに出掛けたいよう…。
みなさん、近くの伝承を教えて下さいね。








ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2012-07-03 14:50 | 百済の前方後円墳 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://lunabura.exblog.jp/tb/18180660
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
line

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


by lunabura
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー