2012年 07月 14日
大宰府コメント6 白村江の戦い
さて、「倭国」と「日本国」について、白村江の戦い の話題になりました。
――ところでFさんが、
「白村江の戦いは、九州勢が戦ったのであって、近畿勢は九州勢を見殺しにした」と怒ってました。
これは倭国と日本国が連合軍だった事を示しているのではないかと思ったのですが。
いかがですか?
ここが一番わからないところです。
ハッキリ言って大和の軍勢は船いくさに不向きな印象が(遣唐使船の沈没率を見るにつけ) 私にはあるので、
筑紫の軍船で一緒に連れていってもらえたのかどうかが解らないのです。
白村江の戦い以降の航海術の未熟さを想うと
大和軍は自力で朝鮮半島まで軍勢を渡海させる能力がなかったと思うので。
白村江の戦いをwikiで調べると、
白村江の戦い
年月日:663年10月4日(天智天皇2年8月27日)-10月5日(8月28日)
場所:白村江(現: 錦江近郊)
結果:唐・新羅連合軍の勝利
交戦勢力:唐 新羅 vs倭国 百済遺民勢力
指揮官:劉仁軌、文武王
上毛野君稚子、阿倍比羅夫、扶余豊璋
戦力:唐軍 7,000人 唐船舶 170余隻 新羅軍 5,000人
倭国軍 :42,000人 倭国船舶 800余隻 百済軍 5,000人
損害: 唐・新羅連合 、不明(倭国・百済連合 軍の被害よりは小規模)
倭国・百済遺民軍 船舶 400隻、兵 10,000 人、馬 1,000頭
とあります。
後世に生きる私たちは歴史を知っているので
大唐帝国に倭国が負けて当たり前という印象を持ちやすいのですが、
戦略としては朝鮮戦争時にプサン近くまで攻められた韓国軍を救う為に
マッカーサーが北朝鮮軍を押し返すべく行った仁川上陸作戦と同じ発想です。
結果はコインの裏表でしたが・・・。
シビアに戦力を比較すれば、
唐と新羅の計12000人に対して、
倭と百済の計47000人の兵力です。
これだけの兵力差ですから、
倭国が4倍の兵力で唐・新羅連合軍に勝つ気満々だったことがうかがえます。
(結果は赤壁の戦いのように火計で大敗でした・・・)
上陸を無事に果たし、制海権さえ失わなければ、日清戦争のように
互角以上の戦いができたはずです。逆にいうと、これだけの兵力を失った訳ですから、
筑紫王朝が傾くのもうなずけます。
問題は、この倭軍の中にどれだけの大和軍が編入されていたのかが解らないのです。
大和軍は船戦は不得手でも、上陸してしまえば帰国の船は筑紫水軍が乗船させないかぎり
死ぬまで半島で陸戦を続けるしかないでしょうから、
生殺与奪の権を握る筑紫勢としては、陸の戦働きとしての大和勢は(海上はともかく)
陸上戦力として十分期待できる存在となるのです。
ただ、下手をすれば海の向こうで見殺しもあり得ると解っている大和勢が、
帰路の保証のない渡海軍船にどれだけ乗ったかどうか。
大和勢として絶対に乗りたくない船でしょうから、
あとは、筑紫と大和の力関係で決まる筈です。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の折に、渡海を拒んだ徳川家康ほどの力を
当時の大和政権が持っていたかどうかにかかってきます。
私は、おそらく大和の軍勢は筑紫の軍船に乗らなかったと考えます。
そして、白村江の戦い以後に、朝鮮半島に軍勢を送らなかった東軍・大和勢と、
半島侵攻に失敗した西軍・倭国との間に 古代の関ケ原的な戦いがあり
雌雄を決したものと推察します。
ですから、 白村江の戦いは九州勢のみが戦ったのであって、近畿勢が見殺しにしたというよりも、
①近畿勢は自分の身を守る為に渡海の船に乗らず(たぶん、断るだけの発言力はあった。※ちょっぴり自信がありませんが。)
②結果、筑紫勢が敗れた。
③近畿勢としては不敗の筑紫が敗れたことは予想外だったが、このチャンスを最大限に活かすことした。
④古代の関ケ原的な戦闘の後に、
⑤筑紫の国譲りが強制された。
⑥王城神社が大城山より移転し、
⑦恵比寿像を太宰府で見掛ける今に至る。
これが私の推察というか妄想ですが如何でしょうか。
いやあ、ダイナミックに戦況を説明して下さってありがとうございます。
この辺りは全く不得手だったので、有り難いです。
船の問題は謎解きの手掛かりになりそうですね。
瀬戸内海で活躍する住吉族の船は玄界灘を越えるようには出来ていなかったでしょうし、
玄海灘の海の道を知らないので、近畿勢が具体的にどう軍備をしたのか、
面白い課題ですね。
天武天皇が宗像徳善の娘を娶ったのも、手掛かりになりそうです。
以上、きりんさんと、るな のやりとりでした。
私信ではありますが公開して、皆さんのアドバイスを期待したいと思います。
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