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儺の国の星・「発刊に当たって」を読む


儺の国の星
「発刊に当たって」を読む
 

那珂川町にせっかく来たので、この町に伝わる古来の星々の名が記された
『儺の国の星』を改めて手に取りました。

行間からこぼれ出す、さんざめく星々の光。
忘れ去られた古代の日本人の暮らし。
何度読んでも、その世界に引き込まれてしまいます。
しかも私の読解は遅々としています。

真摯に古代社会を追う人々にとってはヒントに満ちているこの本の再版を
町にお願いした事は前述しましたが、再版されるかどうかはまだ分かりません。

そこで、今回はその「発刊に当たって」という一文を書写する事にしました。
これで古代の那珂川町にアプローチしてみましょう。
発刊にあたって

那珂川町の歴史は、いつから始まったものか何の文献も、これを説明する資料は全く残っておりません。

しかし、日本書紀には儺縣(なのあがた)の記事がみえ、また有名な魏志倭人伝には奴国(なのくに)の記載がありますから、既にその頃は筑紫国の玄関として大陸の文化をまともに受け入れていた所と考えられます。

日本から大陸に渡るには、必ず玄界灘の上を通らなければなりません。従って昔の舟人が、必ず星の明りを看(み)て取って、船を行ききさせていたことを思い合わせますと、那珂川には、必ず古い星の名が無数に残っていて然るべきであります。

那珂川は中世の幾度となく打ち続いた戦乱の中にも、荘園だけは祖先の素朴にして誠意ある代々変わらぬ努力の致すところ、厳然として保存され、その上料(あがりりょう)の寄進が博多と太宰府の文化を支える偉大な基盤の形成に力あったことは、隠れた事実でありました。

思ふに、昔の殿上人でなければ、心得ているはずのない上品な星の名が口伝ながら旧家に残っていたことは、誠に不思議な奇蹟でもありました。

那珂川には上古は神功皇后(201~269)、下って皇極・斉明天皇(642~644、655~661)、天智天皇(662~671)並びに後の天武天皇(673~686)、持統天皇(687~696)そして安徳天皇(1181~1185)の行宮(あんぐう)がありました。

今から54年程前に、高松宮殿下の御下命を承りて古事記の独逸語翻訳に生涯を畢(つく)した香椎宮司木下祝夫博士が、斯くの如き由緒ある土地には必ずや日本の文化を支えてきた観星の古語が残存していることと思ふので、今のうちに寸暇を工面して後世に書物を残すことを進言しておかれたのが、執筆の動機であったと聞きます。

著者真鍋大覚氏の御先祖は遠く常陸(ひたち)石岡(いしおか)の出(で)で、永く鹿島神宮の神官を勤め、慶長のあと那珂川の肥前境に帰ってきて、近世は庄屋として百姓の農事に欠かせない歳時暦の編集を維新まで毎年つづけてこられました。

特に、名文として世に知られる常陸風土記の作者なる藤原宇合(うまかい)(694~737)及び今昔物語に豪勇を讃えられた藤原保昌(958~1036)の南家の末裔でありましたがために、荘園のころの公家だけがよくこころえていた優雅な星座の名前を口伝として保存しておられました。

幸い、著者は幼少の頃、父母とともに田仕事、畑仕事、山仕事を夜遅くまで手もと、足もとが見えなくなるまで手伝っておられました。

そのときに、両親からその季節の星の色や光を一つひとつ文字通り手に取るように教え込まれ、時刻の読み方と天気の見方を教えられました。

その時の記憶はもう今から数えて50年昔のことでありますから、もう既にご記憶はかなり淡くなったと語っておられますけれども、民族学的伝承を永久保存する目的で関係方面のご同意とご協力を得て、ここに出版の運びとなりました。

本書は、広報なかがわに昭和53年4月から昭和56年3月まで「那珂川町の星紀辰位」と題して連載した分と、未掲載の聞き書きを追加した分であります。

何分にも遠い昔の伝承の回想録だけに正確な年代や出典を考証するのに多大の事実を要したものと思われまして、九州大学工学部技術官佐藤洋子氏の並々ならぬ調査並びに校正及び索引作製の御助力がありましたことをここに改めて特記しておきます。

皆様方は、この小冊子をご覧になられまして、私達の遠い祖先が夜の間に眺め、祈ってきた美しい雅やかな星の名の数々がこんなにあったのかと驚かれることと思います。

どうか、皆様方のご家庭にもまた、いくつもの別の星の話題があるかと存じますから、何かご団欒のおりの思い出の引きての一つになればと幸に存じます。

昭和57年2月吉日  那珂川町長 大久保 福義

この序文で驚くのは、まずは神功、皇極・斉明・天智・天武・持統・安徳天皇の
歴代の行宮があった事がさらりと書かれている事です。

この中で安徳天皇の行宮については「安徳台」「お迎え」という地名に残されています。
お迎え
安徳天皇に因む地名です。九州へ下向した安徳天皇が外戚であり安徳台(迹驚岡―とどろきのおか)に居館を構えた原田種直を頼り那珂川町を遡上した際、ここで原田一門や村人に迎えられたと伝えられています。

安徳天皇は迹驚岡の仮御所で体を休め、後に壇ノ浦の戦いへ挑むべく各地を渡り歩きました。」(なかがわ見聞録~文化財散策ルート~よりー町で貰えるマップ)
原田種直はNHKの大河ドラマで大宰府の長官(?)として出て来ましたね。
彼のお家は那珂川町だったんだ~。
風早神社の近くなので、武器の生産もしていたかも。

これがそのエリアです。

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これは裂田神社から眺めた裂田溝(さくたのうなで)。
左の森が安徳台です。実際に室町時代の居館あとなどが発掘されています。

さて、さらに前の時代の皇極~持統天皇の行宮と言ったら磐瀬宮という事になります。
いったいそれはどこだと伝わっているのでしょうか。
手に入る那珂川町の沢山のパンフレット類には全くその記述が見られないので、
これからのお楽しみとなりました。

また著者の眞鍋大覺氏に関しては、先祖は鹿島神宮の神官だった事、
また常陸風土記の作者の末裔だった事が書かれています。
那珂川町では庄屋として暦を作った家系なんですね。

さて、カテゴリにある<星の和名・天体>はこの本を元に、
星ごとに分類していく試みをしているものです。
誰も伝えることのなかった古代日本の星の世界へのチャレンジです。

「真鍋大覚」というタグがありますが、エキサイトブログのタグ機能は
各記事に三つしか使えないので、中途半端な分類になっています。
頭の痛い所です。


次回は『儺の国の星・拾遺』の方を紹介します。




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by lunabura | 2012-08-12 22:13 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(1)
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Commented at 2017-08-02 06:48 x
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