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ひもろぎ逍遥

荒船神社(2)「ふね」とは褐鉄鉱・隕石の風化地層だという


荒船神社(2)
 「ふね」とは褐鉄鉱・隕石の風化地層だという


荒船神社(2)「ふね」とは褐鉄鉱・隕石の風化地層だという_c0222861_13381885.jpg

祭神の手掛かりはないだろうか。
思いついたのは、他の荒船神社を調べてみる事でした。
そこで、ネットで見つけたのは、
--- 荒船山と古代の信仰のはなし その2 貫前神社と荒船山 ---
(略)
下仁田町の南野牧に「荒船神社」が存在します。
「經津主神」「建御名方命(たてみなかたのみこと)」の2柱を祀っています。
(略)
http://plaza.rakuten.co.jp/uchiyamawakuwaku/diary/200706020000/ 

これは長野県佐久市の神社のようです。
もともとは美女三女神を祀っていたのが、この二柱になったそうです。

「經津主神」(ふつぬし)と「建御名方命」だ。
あれ?
ちょうど『儺の国の星・拾遺』でオリオン座について調べていた時に、
「ふね」と「ふつぬち」という言葉が出ていたぞ。
こりゃまた偶然。

長いのですが、そのままの文章を書き写します。
(イイボとは蹈鞴の産物のことです。)
『儺の国の星・拾遺』p168 イイボ星 オリオン座 IC 434

陸奥出羽で砂鉄が地下に埋蔵されている地帯を船山(ふなやま)と言い、これを採掘する長者を船木という。

古事記神武紀には神八伊耳命(かむやいみみのみこと)の子孫に、陸奥(みちのく)の石城(いわき)の国造(くにのみやつこ)、伊勢の船木直(ふなきあたえ)の名がみえる。

「ふね」とは斧土(ふなつち)の略で、褐鉄鉱リモナイト(2Fe2O3・3H2O)の風化地層である。「き」とは技術者の古称であった。造る人と掘る人では別の氏族になっていた。

昔は「ふつぬち」といった。なお燃料になる亜炭泥炭を「ふるまき」といった。

陸奥北、下野結城(ゆうき)に「古間木」の名がみえる。「まき」とは薪木即ち燃料で、昔は「もえぎ」といった。わずかな火で長い時間をかけて、酸化鉄の粉末を還元するには最良の炭となった。

「ふる」とは星の古語で流星隕石のごとく、天から降る意に流用されている。隕石には年輪のごとき層を重ねた組織が多い。これが地に落ちて古間木(ふるまき)即ち石炭(いしずみ)を作ったものと祖先は信じていた。

「ふつぬち」とは神代紀には
  次に木の神名は久久能智神(くくのち)を生みたまひき。

即ち「くくぬち」であり、中世あたりから櫟(くぬぎ)、即ち窯の薪木の名となったが、筑紫では歴木(ふみき)とも書いて年輪が識別できる石炭の意に通ってきた。「櫟」の右のつくりの「楽」は銘(らく)、即ち熔鉄のことであった。

タクロを三河で設楽(しだら)という。いかにも銘を作る施設をよく表現している。戦国(1467~1568)の世に南蛮渡りの鉄砲が武器としての勢力をのばしたところは尾張春日井小牧があった。

ここも昔は流木が野原の下に埋没していた所であった。「ふるぬち」とは隕石が風化分解した赤土であった。

福岡県の南の大牟田市に「歴木」という地名があって「くぬぎ」と読みます。
この大牟田市はかつて炭坑で賑わった街なので、
この地名が「石炭」に由来するというのは大変納得です。

今回必要な情報だけ抜き出すと、
「ふね」は葦から生まれた褐鉄鉱(スズ鉄)の風化地層のこと。
「き」は技術者の古称で、「ふなき」とはスズ鉄の採掘長者をさす。
「まき」とは流木が積み重なって風化して野となった所で、
その薪はタタラ製鉄に最良のマキとなった。

最近の水害では倒木が川をふさいで氾濫するケースを目の当たりにします。
そこに土砂が流れ込んで平地を形成すると、倒木が良い燃料に変化する訳です。

山の中で出くわす思いがけない平地には、こんな成り立ちの野もあるのでしょう。
馬を放牧する平地を「牧場」というのも語源は同じなのかもしれません。

「ふね」は古くは「ふなつち」「ふつぬち」とも言った。

「ふつぬち」が「ふつぬし」と変化するのは容易です。
「ふつの御魂」とはスズ鉄で作った刀で、「ふるの御魂」とは隕鉄で作った刀でした。

隕鉄による製鉄は実は半信半疑だったのですが、
中国で斧の刃先に隕鉄の刃が作られたものが出土しています。
以下もまた眞鍋氏の文です・
記紀にある「布留の御魂」は隕鉄を精錬した剣で、「布津の御魂」は砂鉄を精錬した剣である。
昔から隕石が落ちた所には椋(むく)の木を植えて祀った。椋の木の実は羽根つきに使われる黒い実。2000年以上前には、その形が隕鉄の象徴だった。
1500年前頃には真金、即ち砂土を溶かして得た鉄を指した。

最初に掲載した長野県の荒船神社の住所をもう一度見てみましょう。
下仁田町の南野に「荒船神社」が存在します。
「經津主神」「建御名方命(たてみなかたのみこと)」の2柱を祀っています。

住所に牧が出て来ます。
この牧の地下に良質の燃料があったとすると、
製鉄のための格好の資源を渡来人たちが発見して定住したという推測が出来ます。
ここは神々の交代劇があり、渡来人たちが技術を持って来た事が書かれています。

その近辺の地図を見ると、こちらとよく似た地名が散見します。
長野といえば安曇族が行った所でもあります。
私は長野の安曇族はスズ鉄を求めて山に分け入ったのではないかという仮説を持っています。
倭人たちには金より銅より鉄が一番なのです。

さて、話を戻しましょう。
この荒船神社も社前の宝満川がかつて「あら舟川」と呼ばれていたことから、
ここは製鉄に関わる資材や製品を運搬する舟々を監視する所ではなかったのかと
いう思いが生まれました。

荒船神社(2)「ふね」とは褐鉄鉱・隕石の風化地層だという_c0222861_13374988.jpg

境内からは宝満川がよく見えます。
う~ん。ここはやっぱり船着場?
(つづく)


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by lunabura | 2012-09-03 13:41 | 神社(ア) | Comments(0)

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