2012年 09月 22日
魏の曹操の陵墓が発見されていた
魏の曹操の陵墓が発見されていた
曹操 チャン・フォンイー
先日、レッドクリフⅡを途中から見ました。
状況が分からぬまま、釘づけになったのはその衣装や武器。
ちょうど中皇命のイラストに弩を描いた翌日だったので、
弩(ど)がどうなってるのか、一瞬の映像を目に焼き付けました。
日本で出土している弩に比べたら随分短い。
しかも、なんと10連射出来るというので、ぶったまげ。
いったいいつの話?
確か弥生時代のはずなのに。
あとで調べると赤壁の戦いは208年。
やはり弥生時代。
神功皇后が新羅戦から帰ったすぐあと。
卑弥呼もいた時代に、あれほどの船があったとは。
時代考証は大丈夫なのだろうかと心配になりました。
安曇族たちは中東へ往来するのだから、あの造船技術を知らないはずはない、
てな事になってしまう…。
日本人の作っている弥生時代のイメージってもしかしたら貧相過ぎるのだろうか?
そんな心配が生れるほど、映画の描く208年はすごかった。
甲冑姿はマントを付けていて、ローマ風。
これは、ローマ軍がシルクロードの中ほどまで行った記録があるらしいので、
その影響があった事は十分考えられる。
そんなこんな。
興奮も冷めやらぬ翌日、またもや新聞切り抜きが変な所からはらりと…。
それは魏の曹操の墓が2009年に発見されたという記事でした。
(西日本新聞)
映画を観たあとだから、イメージが作りやすいですね。
曹操の亡くなったのが220年なら、あの赤壁の戦いでは亡くならなかったんだね。
この陵墓はその後はどうなったんだろう。
後報が知りたいな。
それにしても、魏志倭人伝って、この魏が滅びた後に出来た本だったっけ。
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魏滅亡が265年、「三国志」の「魏書」成立が280~297年間、西晋の世と言いますから三国志時代後に纏められた歴史書のようですな。
早速、教えていただいてありがとうございます。
265年滅亡か。
そうすると、卑弥呼の248年というのは、比較的リアルタイムな情報なのですね。
卑弥呼たちが朝貢したのは、この曹操の子の曹丕あたりだという事なんですか?
なので248年だと曹芳、曹髦、曹奐の何れかの魏皇帝に朝貢したのかもしれませんな。
サイドバーに書いた年表の239 卑弥呼親魏倭王
の時には既に亡くなっている。
曹芳、曹髦、曹奐
名前が残っているのがすごいですね。
映画のお蔭で、時代のイメージが作りやすくなりました。
年表を調べて下さってありがとうございます。 (^-^)
曹操様のお墓発見には、私も興奮しました。
でも、中国内でも賛否両論だったんですよね?日本の邪馬台国論争みたいなもんか?
偶然にも先月買った三国志旅行エッセイ漫画の作者さんが曹操FAN魂が昂じて無理を承知で、すぐさま現地に飛び現場責任者の方にお話を伺ったり内部を少し見学させて頂いたそうです。三国志(曹操様)LOVEな気持ちが勝ったんでしょうね(>_<)凄い幸運の持ち主ですよね。
曹操様は頭痛持ちで副葬品にも石枕があったとか。石枕って…と思っていたら昔の頭痛緩和材だったとは。
蜀朝に仕官しますが、清廉な陳寿は佞臣黄哠に疎まれ左遷されます。263年に蜀は魏に滅ぼされ、その魏も265年西晋に禅譲されます。西晋では実力者で同じく清廉な張華によって重用され280年ごろ『三国志』を編纂しますが、佞臣筍勗のクーデターで張華が失脚。
筍勗生存中は日の目を見ず、289年筍勗が死に、陳寿も297年に没して後ようやく正史として採用されます。
こうした陳寿の生涯から『魏志倭人伝』がいかに時の権力におもねらず編纂されたかが分かるのではないでしょうか。
曹操のお墓はまだ未決定だったんですね。
漫画家が飛んで行って内部を見学したとは、すごい。
映画でお茶を飲みながら急に頭痛が…というのはそんなエピソードがあったんだ。
面白いお話ありがとうございます。 (^-^)
真偽の説明が面白かったです。 (^-^)