2012年 10月 10日
ウチ考(5)老松神社・大己貴神と少彦名神がやって来た
老松神社
おいまつ・福岡県嘉穂郡桂川町土師
大己貴神と少彦名神がやって来た
既に3年前に参拝した宮ですが、ようやく記事にする時が出来ました。
写真のストックを見ると、撮った枚数の少なさに唖然。
鳥居さえも撮ってない…(・.・;)
ずいぶん意識が違ってたんですね。
はじめの頃は神社の縁起や伝承の重要性に気づいていなかったのが自分でもよく分かります。
この老松神社の縁起の重要性が理解出来るのに3年の逍遥が必要だったということでしょう。
そっか~。
このブログもそろそろ3年になるんだ。
さて、今回はいきなり境内です。
ここは飯塚市から秋月に向かって緩やかに高度を上げていく県道66号線沿いにあって、
石段も数段ある程度の高さです。
拝殿と神殿です。(斜め…。)
主祭神は大国主神。
祭神 大物主神 事代主神 菅原神 吉祥女
境内の入口に立派な由緒書きがあります。それを読んで行きましょう。
由緒の記 (現代語訳します)
創建年代ははっきりとしない。社の記録によれば、遠く神代の昔、大己貴命・少彦名命が心を同じくして力を合わせて天下を経営された時、この西海に下って、この土師の地にしばらく滞在されたという。
のち、人皇11代・垂仁天皇の御代に、出雲の国の造・野見宿禰が埴輪を造って殉死の者の代わりとしたという功を賞して、土師臣の姓を授け、また諸国で鍛地(かち・かじち)を授ける時、当庄をもその一つに加え、宿禰に与えられた。
出雲より土師連がやって来て当庄を領有し、出雲杵築の大社に鎮座されている大国主神(大己貴命)を、神代の時にしばらく滞在されたこの地に勧請して、土師宮と称して斎き祀ったのが当社の濫觴(らんしょう・始まり)である。
その後、大物主神・事代主神を合祀したが時代ははっきりとしないという。(後略)
驚く事に、大己貴(おおなむち)命と少彦名命がこの土師の地に滞在していました。
少彦名命の名は祭神から消えていますが、前回紹介した天神社の祭神は
「スクナヒコナノミコト・オオクニヌシノミコト・菅原道真」
となっていて、距離的にも2.5キロほどしか離れていません。
どうやらこの桂川町には大己貴命の足跡が色濃く残っているようです。
福津市の渡半島の楯崎神社には「大己貴命と宗像姫の連合軍が異敵と戦った」伝承が
あった事を考え併せると、遠賀川左岸の伝承を丹念に拾って行くと
大己貴命の全体像がもう少し明らかになるかも、という予感がします。
さて次の時代になって、野見宿禰がこの地を褒賞として貰っています。
野見宿禰は殉死者の代わりに埴輪を使う事を案出した人とされています。
この宮の伝承によると、彼は「土師の姓」を与えられ、「諸国の鍛地」を与えられています。
「鍛地」についてネットで調べると「かち・かじち」という姓がありましたが、
語意は出ていませんでした。
そのまま「鍛冶地」と考えていいのでしょうか。
そうだとすると、野見宿禰は「諸国の鍛冶地」を与えられたということなので大変な褒賞です。
しかもこの土師はその一つだったというのです。
ここは鍛冶地=冶金の地だったという事になります。
野見宿禰は天穂日(あめのほひ)神の末裔で
天穂日神 → 野見宿禰 → 土師氏 → 菅原氏
という流れがあるそうです。
天穂日神は熔鉄の神だと眞鍋氏が書いています。
思い出すと、菅原道真が久留米市の袴着天満宮で、袴に着替えてまでも神を祀ったのですが、
そこの御神体石はカップ&リングという杯状穴が彫られていて、
元宮の地は隕石落下点を示す椋の木がある所でした。
出目天満宮・袴着天満宮 久留米市御井町高良山 御神体は天体石
菅原道真は太陰・星暦を守ろうとした?
http://lunabura.exblog.jp/16161071/
太宰府に左遷された道真公ですが、
この宮の伝承によって、ようやく「熔鉄神と菅原氏」の流れが理解出来ました。
道真公が左遷されたとはいえ、県内の老松神社の多さを見て、
こちらでは歓迎されたのではないかと、おぼろげに考えていたのですが、
土師氏 ⇒ 菅原氏という流れに「熔鉄神」というキーワードが存在するのが
この宮で確認出来て、このアイデアに期待が生まれました。
祭神に道真公と吉祥女の夫妻が祀られているのもその縁なのでしょう。
この夫妻が北と南に流された悲劇を土師の人たちは知っていて、
せめてここで一緒にと祀っているのでしょう。
さて、この宮を参拝したきっかけは
くるま座さんが「変わったものがある」と言って案内してくれた事だったのですが、
何が変わっていたのかすっかり忘れていました。
最近、機会があって尋ねると、「羊」の像があるのが珍しいとの事でした。
上がその写真です。
道真公の関連の宮は「牛像」がよく奉納されているのですが、確かに「羊像」は初めてです。
追加
これは境内の左の祠。御神体が丸石です。
その遠景。
広々とした境内が清々しくて、心地よかった事を覚えています。
この宮から北に3キロほど行くとあの王塚古墳があります。
赤い壁画や副葬品の馬具のヘビーな造りを思い出します。
その被葬者を支えて土器や鉄器作りをした人たちがこの宮を祀ったのでしょうか。
この桂川町の丘陵という丘陵は古墳群が沢山造られています。
王塚古墳(1)福岡県嘉穂郡桂川町寿命 感動の装飾壁画を知らなかったよ
http://lunabura.exblog.jp/15066125/
王塚古墳(2)武人は妻と共に星の下に眠るー激動の6世紀を生き抜いた男
http://lunabura.exblog.jp/15085334/
さて、次回はもう一つの老松神社へ。いよいよ内野です。
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>最近、機会があって尋ねると、「羊」の像があるのが珍しいとの事でした。 上がその写真です。 道真公の関連の宮は「牛像」がよく奉納されているのですが、確かに「羊像」は初めてです。
・・・本当に珍しいですね。
写真を拝見すると、台座は新しいのに羊の石像は古い感じですね。
私は直感的に羊の石像で、菅原道真公の御霊を押さえつけようとしているような意思を感じたのですが。
(別に私は霊能者ではありません)
というのも、十二支を時計の文字盤に当てはめると、子(ね)が12時なら、丑(うし)は1時で未(ひつじ)は7時になり、ちょうど羊が180度真逆の位置に来るからです。
十二支。なるほどですね。
よく考えると山羊は福岡には居ても、羊は見られませんよね。
怨霊鎮め、羊さんでは可愛らしすぎるけど、180度なら、ありかなあ。
他に例がないか、気を付けてみます。
台座の年代は昭和12年です。牛より高くした所なんか、気になってきました。
追加でUP写真を掲載しておきます。
以前から更新を楽しみにブログを読ませていただいています。
単にネット上で検索しただけですが、
羊という語句関係で検索したところ
羊神社・羊太夫
ttp://nire.main.jp/rouman/ubu/hituji.htm
ttp://www.chichibu.co.jp/~wado/wadokaichin/hitsuji.htm
ひつじ→ひげの牛(ひ→ひげ、つ→の、 じ→うし )
など関係あるのかなぁと思ってしまいました。
あとは、ペルシャ絨毯(羊毛が原料の一部)と王塚古墳壁画の色使いが何か似ているものがあるなぁということでした。
全て根拠のない勝手な妄想ですが・・
早速紹介された記事を見て来ました。
興味深い内容で、後でじっくり読みたいと思います。
妄想大歓迎です。
どこで何が繋がっているか、思いがけない所から見えたりしますから。
気楽におしゃべりのつもりでどうぞ。 (^-^)
王塚古墳の色使いは素敵ですよね。
ルーツを求めれば案外いい線行くかも知れませんよ。