2012年 10月 22日
ウチ考(6)老松神社1・内野・羽白熊鷲のもう一つの終焉地を探して
老松神社(1)
福岡県飯塚市内野
羽白熊鷲のもう一つの終焉地を探して
前回の土師の老松神社を通って王塚古墳方面に下り、「出雲」の交差点に向かいました。
山越えのルートが土砂災害の為に通れないので、
遠賀川方面から内野宿に向かうことになります。
土師の老松神社は泉河内川沿いにありましたが、
内野の老松神社は穂波川水系の奥にあります。
道は200号線。長崎街道が並行して走っています。
「阿恵」の信号です。「阿恵」は「北」という意味ですが、朝鮮語だとも聞きました。
(本当かどうか知ってる方、教えてね。)
ここが「北」なら「南」があるだろうし、「中央」もあるのではないか。
そう考えて南を見ると弥山岳(377m)があり、さらに南には前々回の天神社のある内山田があります。
「中央」にふさわしい所は見当たらないなあ。
これから向かう「内野宿」は、南西方面になります。
大まかに見て、この「内野宿」あたりが「中央」になるのかも…。
「阿恵」を過ぎて「内野宿」方面へ。穂波川を遡って行く形になります。
この地の標高は200m弱で、正面の山々は400m級。
穂波川沿いに発達した穏やかな平野の奥に、目指す内野宿があります。
その先は「冷水峠」。トンネルが出来る前は急カーブの連続で、
冷や汗をかくから着いた名前かなと幼な心に思っていましたが、
冷水が湧く事から付いた名前だと『筑前国続風土記』に書かれていました。
上の写真では長崎街道は道の右を走っていて、左の方に穂波川が流れています。
古代人が住むとしたら、山あり川ありで、出入口の防衛もしやすい良地です。
合併前の地図を見ると、穂波・筑穂・嘉穂・稲築(ほなみ・ちくほ・かほ・いなつき)
と古代鉄に関するかもしれない名前がずらりと並びます。
「ホの一族」と名付けた一族をふと思い出しました。
あの頃は暗闇の古代史を手探りで歩く状態で、却って大胆な事を書いていたなあ。(汗)
サイドバー → 馬見神社 (うまみじんじゃ)
さて、今回、目指すのは「内野の老松神社」です。
それはここに羽白熊鷲の終焉地があるという話をネットで見かけたからです。
「羽白熊鷲の墓」が「甘木の寺内ダムの施設内」にあって、伝承も残っているのは紹介済みですが、
この老松神社に逃げ込んだ話を見かけたのです。
記憶が曖昧なので確認したくてネットでもう一度探しましたが、見つかりませんでした。
(なんと私のブログばかりがヒットする…。(大汗)検索の得意な方、情報をお願いします。)
老松神社は内野宿の近くなので、まずは内野宿を目指したのですが、
どこかな、とキョロキョロするうちにあっという間に通り過ぎて、冷水峠にたどり着きそうになりました。
慌てて、Uターン。
あ、大根地神社の鳥居がある!!
でも、今日はパス。行ったら、満足して、そのまま帰ってしまいそう。
今日は老松神社なのだ。
内野宿の奥まった位置に老松神社はありました。
この左には天満神社の鳥居もあって、
どちらから入っても、境内は一緒です。
老松神社といえば道真公ゆかりと聞くし、天満宮もまた道真公ゆかり。
いったいどうして二つの宮が共存している?
合祀したのかな…・
こちらは老松神社。やはり祭神は菅原神。
右脇には珍しい子を抱いた狛犬。
左脇の狛犬。ユニークな表情ですな。元祖ゆるキャラ?
その左に鎮座する天満神社の拝殿。祭神は同じく菅原神。
一番右に鎮座する大神社。祭神は大日靈命。(おおひるめ)
天照大御神の別名と言われています。
さて「福岡県神社誌」を訳しながら写しましょう。
村社 老松神社 嘉穂郡内野村大字内野字関屋後深草天皇(1243-1304)は鎌倉時代の天皇。
祭神 菅原神
由緒 不詳 明治5年11月3日に被定。
社説に曰く、後深草天皇・宝治2年の創建で、昔太宰府の神領だった事からここに勧請されたと伝えている。
元字古宮という所に鎮座されていたのを、天正元年現在地にお遷しした。神宝に古鏡が8面ある。また宝永2年、藩主黒田綱政公が寄進した絵馬が1扁、及び天保8年藤原義実公が奉納した額が一面ある。
この時代に大宰府の領地だったという縁で勧請されたのが、現在地に遷宮したという事です。
これを見ると比較的新しい時代の創建だけど、これまでの逍遥から考えると、
創建とは、縁もゆかりもない所に唐突に神社が造られたのではなく、
もともと古代からの祠などの祭祀があったのにかぶせて、
正式に神社として建築したというニュアンスがあるように感じています。
ここもまた羽白熊鷲の伝承があるとしたら、
ずっと古代の土蜘蛛たち?の史跡の上に建ったのかも知れないという気持ちが拭いきれず、
とにかく宮司さんに話を聞きたいと、やって来たのに、
出会った氏子さんが何かただならぬ様子。
お話を伺うと宮司さんの初盆だと…。
一年、いや半年遅かった…。
氏子さんに熊鷲伝承がないか尋ねましたが、やはり耳にした事はないようす。
もう羽白熊鷲の飯塚側での伝承はこれで永遠に消えてしまうかも知れない。
そんな後悔の念を抱きながら、墓か石があるかも知れないと境内を廻りました。
これは宮中で行われる新嘗祭の斎田として穂波町が指定されて、
奉仕した記念碑です。
道真公ゆかりらしい狛牛。
屋根が作られて大事にされている石。
一番左には梵字らしき跡。
拝殿前から見た境内の様子。しっとりとした美しい山里です。
羽白熊鷲の事はあきらめました。
最後に通りかかった内野宿の資料館を訪ねる事にしました。
雨がまた降り出しました。
もう一つ、心に残ったのは大根地神社の鳥居。
思いがけず、ここから近い所にあったけど…。 (つづく)
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これだと思います。
筑穂町の老松神社としたら、内野ではないですよね。
合併したら、地名が分からなくなって苦労します。
稲荷は当然鉄生産でしょう。あの記事とは違う見解です。
こちらの方がるなさんが見たッポイかも。
アドレスは今は分かりませんが、古田氏と大根地神社宮司さんのやりとりが似たモノでした。多分、亡くなられた老松神社の宮司さんと同じかただと思いますが。
大根地山が終焉の地と書かれていたような?後日、アドレス送りますね。
早速訪問したところ、あの方のページではないですか。
昨年お会いしました。
やはり、内野の老松神社の宮司さんの話だったのですね。
残念です。
調べて下さってありがとうございます。 (^-^)
やはり御縁というものはあるんですね。
お元気な頃の宮司さんをこちらで「大根地神社」を検索すればお会いできます。
http://www.fukuokayokatoko.com/?MN_disp_start=1
「福岡よかとこ.com」
です。