2015年 01月 19日
三女神 伝承の宮々(6)神々の降臨の地とオンガ様信仰圏
三女神 伝承の宮々(6)
神々の降臨の地とオンガ様信仰圏
遠賀川流域の各地の山々には、神々が降臨した伝承があります。
これだけの広範囲に配置したのは誰だろう。
どんな信仰圏の人たちだろうと、ずっと考えていました。
英彦山神宮を前回まで考察しましたが、
今回はその地図に、描きたかった神々の降臨地を落としてみます。
「三女神 伝承の宮々(5)」の地図に書き足しました。
大己貴命
大己貴は英彦山で三女神のうちの二姫神、タゴリヒメとタギツヒメを娶って、
英彦山の北嶽に住んでいましたが、天の忍穂耳が鷹となって飛んでくると、
その山を譲って許斐山へ遷宮します。
さらに北西にある楯崎神社には宗像姫と共に異敵と戦った伝承があります。
三女神
三女神は英彦山から宗像宮へと遷りますが、
途中の六ケ岳に降臨したという伝承があります。
そののち神興神社で神威をあらわして、宗像神社へと遷宮したと伝えます。
それを付け加えて書いて見ました。
黄色は神武天皇です。
①神武天皇は勅使を英彦山に出して、天の忍穂耳を祀らせます。
一方、一宮神社に磐境神籬を作って、祖神として天の忍穂耳を祀ります。
②神武天皇社では、松林の中の小さな泉で三女神を祀ります。
③日若神社では日王山越えをしようとする時に、イザナギの命の神に助けられました。
④馬を連れて迎えに来た物部氏の駒主の命の案内で
神武天皇は馬見山まで出掛けて参拝します。(祭神、イザナギ命・ニニギノ命・木花開耶姫)
ニギハヤヒ命
ニギハヤヒは笠置山に降臨しました。
三女神の一人、市杵島姫はニギハヤヒの子・天照日孫と結婚します。
以上がこれまで分かった伝承です。
オンガさま信仰圏
この遠賀川流域の中心は岡縣主・熊鰐の一族でしょうか。
熊鰐の一族は岡族・遠賀族と呼ばれていました。(オカ・オンガ)
熊鰐の祖神は大国主神と少彦名神。出雲の神々です。
つまり出雲族。
そして神武天皇の祭祀場を守り続けます。
熊鰐が出雲族だったとなると、どうして神武天皇や仲哀天皇・神功皇后を、
全力で支援するようになったのか、いきさつが分からず不思議です。
山を越えて朝倉市に出るとその麓に大己貴神社があります。
オオガ様・オンガ様と呼ばれている事から、
大己貴の信仰圏が遠賀川~筑後川流域で山を通じて繋がっているのではと
時々、つぶやきましたが、
その結合点として英彦山の伝承に手掛かりあるのが今回分かりました。
(これまでは、結合点は馬見山かと考えていた)
遠賀川流域には出雲という地名も現存していますが、
どうやら古い地層に古代出雲文化圏が眠っているように見えます。
英彦山縁起は何かのイベントのシンボルです。
「大己貴と二女神の通婚」は、筑後川や遠賀川が陸地化していく少し前の時代に、
三女神を奉斎する水沼族が大己貴信仰圏と通婚し、
お互いの流域に交流していったというシンボルで、
「鷹となった天忍穂耳の飛来」は
そんな古代筑紫に「五」の民が進出したというシンボルでしょうか。
しかも戦の匂いがあまりしない。
あれ?何だか、出雲の国譲りに似てる…。
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活字化前の原文(「英彦山勝圓坊文書」蒲池家蔵)を見たら「金光七年」の横に注書きが小さい字で「推古天皇四」と書いてありました。その「古」の字の位置がちょうど金と光の間になっていたので混同されたと考えられます。「原文確認」は大事ですね。
ありがとうございます。
注書きが本文に混入した…。
ホント、思いがけない原因だったんですね。
それにしても、原文で確認されたとは。
恐れ入ります。
厚かましいお願いですが、その本が手元にありましたら、
即時権現攀登彦山之曰、地主神北山三御前我住所権現奉譲之間
の部分に欠落がないか、見て貰えませか?
お時間があった時でけっこうです。 <(_ _)>
私の手元にあるのは知人から頂いた活字コピーの一部で、しかも大己貴の部分のみだったので。
『豊之前州彦山縁起』の原文も確認出来ますでしょうか?確か、高皇産霊命のことがあったような気がしたのですが…。
るなさん、神武天皇の勅使とは天牟良雲命ですか?
だとすると、英彦山も『高木の神さま』で繋がりそうです。
手持ちの資料だけだと手詰まりだったので、これで道が開けそうです!
天牟良雲命と高木の神さまが、真鍋氏の伝承で繋がると思います。この件は『高樹神社』にコメントしますね。
話は変わりますが…。
まず、三輪町の『オンガさま』は宇佐の匂いがするのですが…。
それと、大己貴は英彦山ではなく、隣の鷹巣山にいたのではないかな…と思うのですが。
取り敢えず、高住神社の祭神と社伝を次の記事にコメントしますね!
本か何かで『高ムレ山』のムレはハングルで『水(ムル)』ではないかと書いていたような…。ウルオボエ…で確証はないですが。
記載するの忘れてましたが、高住神社の神紋は英彦山神宮と同じ『鷹の羽』です。
宗像三女神ですが、飯塚市鹿毛馬にある嚴島神社の由緒には「三女神が宇佐嶋から宗像に遷る途中、道に迷い、烏の先導で日王山に来た」とあり、英彦山(宇佐?)→日王山→六ケ岳→許斐山という、三女神の足取りが、きちんと見え(しかもほぼ一直線!その先には沖津島)、とても興味深いです。
また、神武東征の八咫烏の話とも、何か関係がありそうで、、、
八咫烏は、世界に多くの伝承があり(エジプト・中国等々、wikiの「三足烏」)、日本も、そういった様々な影響をかなり受けていると考えています。
そのため、すんなり一つのイメージに落ちず、私の知識・力量では、、、かなり荷が重いです(^^;)
また、wikiで「八咫烏は、記・紀では三本足とは記述が無い」との話であり、足にあまり拘りすぎないことも必要かもしれません。
個人的な(浪漫重視)意見では、
①太陽信仰(黒点が三足烏) ②知恵・知識 ③方角・測量(案内・一直線にできる技術を持っている) を重視した対象と思います。また、カラスは陸上の生物なので、海人族ではなく、陸上の一族に関係していると思います(実際の案内も、海上ではなく陸上)。
そういった点から、暦・星の観測を司る人達であったのではと思います。特に、前述の嚴島神社の例で言えば、物部氏であったのでは?と思います。
また、熊野の八咫烏の牛王法印では、八十八羽記述するのが正式らしいので、やはり八の一族かも・・・。
音だけでヤタカラス→ヤハタカラスと考えれば、神武東遷も筑紫の伝承が混じっているのでは?と興味がわきます(^―^)
なるほどですね。
イメージを言語化するのは大変な作業ですが、
こうして書いていただけると、また新たなステップが踏めそうです。
私的には、方角・測量というのが興味深いです。
「八」ですもんね。
遠賀川流域では特に神武天皇伝承と神功皇后伝承の重なりが見られるので、
もう少し調べたら、実態が分かるのではないかなと希望的な観測を持っています。
何しろ、当時は母方で育ったはずで、玉依姫がありなれ川の北部流域に祭神としての分布が多いなど、
アプローチする材料はまだまだあると思っています。