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皇后の子


皇后の子


今、宇美八幡宮や筥崎宮、大分宮を見直しています。
神功皇后の皇子を『日本書紀』では何と書いているのか、
神功皇后紀をあらためて見てみると、
「誉田天皇を筑紫でお生みになった。」とあって、
他に何と書いてあるのか探すと、誉田別皇子というのが見つかりました。

応神天皇の名前がないなあ。

そこで応神天皇紀を見てみると、タイトルは「誉田天皇」となっている。
そして、後で付け加えたのか、小さな字で「応神天皇」と書かれている。
あれ?
どうなってる。
「誉田天皇  応神天皇」という書き方。

ざっと見ると、「応神天皇」の文字が他には見当たらない。

索引を持たないので、正しい事は分からないけど、
タイトルの「誉田天皇  応神天皇」という書き方は
「誉田天皇とは応神天皇の事だぞよ。分かっているな。」
そんなニュアンスが響いてくる。

こうなると、原典を見るしかないけど、
どうなってるの?

それに加えて、古事記と日本書紀では皇后の子供の数が違っている。

まだ変だなと思うのは、
皇后が皇太后となったあとに誉田別皇子が皇太子になっている。
順番がすごく変。

中国の史書には天皇のリストに神功皇后の名前が載っている。

いやあ、『日本書紀』と筑紫の神社伝承は皇后の出産までは対応しているけど、
その後はかなり違う。

年表を書いているけど、『日本書紀』自体の中も矛盾だらけ。
どうなってるんだろ。

今日も、メモです。

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宇美八幡宮 (糟屋郡)





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by lunabura | 2013-04-16 22:03 | <神功皇后伝承を追って> | Trackback | Comments(7)
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Commented by ばってんハカタ at 2013-04-17 10:24 x
>中国の史書には天皇のリストに神功皇后の名前が載っている。
あくまでもwikipedia何で信憑性はあれなんですが、
「1926年(大正15年)10月の詔書により、歴代天皇から外された。」
ってことになってますね。
これがほんとならなんで天皇からはずされたかも不思議ですね。
Commented by 愛読者 at 2013-04-17 17:25 x
天皇には死後に贈られる美称である漢風諡号(カンプウシゴウ・神武とか天武といった漢字2字)と和風諡号(神武=神日本磐余彦とか天武=天渟中原瀛真人)があり、「応神」が漢風諡号、「誉田別・大鞆和気」が和風諡号とされている・・というのが一般的回答。(漢風諡号は8世紀淡海三船がつけたとされる)
でも、『書紀』の神功皇后が大和朝廷の皇后気長足姫に、筑紫の女王卑弥呼・壱予・玉垂命などを併せたものと考えていますので、呼び名や血族も両者が混同されているのではないかと思います。
九州の現地の神功伝承は、長い年月の中で『書紀』の内容に合うよう変化してきたが、もともと筑紫の女王の話を無理やり大和朝廷の話と合体させたのですから、相当な矛盾が残っていても当然なのでしょうね。(「大鞆和気」なんかは誉田と違いすぎるし、「大伴氏」を連想させます)
ちなみに「別・和気わけ」は九州一円の平定者景行が地方の臣下・豪族に与えたものとされますから、本当の応神(誉田別)は九州の女王傘下の近畿の豪族だったのかもしれませんね。
Commented by lunabura at 2013-04-17 20:32
ばってんハカタさんこんばんは。
確かに、WIKIでは大正時代に外されたと書いてありますね。(驚)
これまた謎です。
中国のリストには神功天皇と書いてあるのもありました。
福岡のどこかの伝承にも、そう書いてあるのがあったのですが、
そう呼んだ時代もあったという事になりますよね。
これもオドロキです。
Commented by lunabura at 2013-04-17 20:43
愛読者さん、こんばんは。
諡号について、分かりやすく説明していただいてありがとうございます。
『日本書紀』をちらりと見ると、応神天皇の文字は、記事に書いているように、題の所だけなので、驚いているんですが、如何でしょうか。
本来なら、「応神天皇紀」というのは「誉田天皇紀」と書くのが筋のように思えたのです。
『日本書紀』が神功皇后を倭の女王・卑弥呼として描きたかったので、無理な時系列を作りだしたのは、一つのポイントですね。
福岡の神功皇后伝承の中にはおっしゃるように『日本書紀』に合わせて由緒とした所もありますが、「お腹が痛くなった」とか「津古から乗船した」とか、「御子が立った」とか、歴史的にはどうでもいい伝承もかなりあって、それらが、時と場を決定する資料になったりしています。
特に大分宮から和布刈神社までは日本書紀に書かれていないので、
比較検討して皆さんにお伝えできればと思っています。
Commented by 愛読者 at 2013-04-18 18:16 x
『書紀』や『『古事記』と現地伝承の違いが大切なところで、学者は『書紀』などをきわめて重視して現地伝承を軽んじるところがあります。
しかし「真実は現地にあり」というのがあたっていると私は思っています。
Commented by 愛読者 at 2013-04-18 20:10 x
漢風諡号を考えたという淡海三船は『書紀』完成(720年)以後の人物(722年生まれ)なので、あとから「見出し」部分に漢風諡号をくっつけた、というのが一般の考えです。『書紀』完成時では和風諡号「誉田・・」だけで、「応神」はどこにも書かれてなかったということですね。
Commented by lunabura at 2013-04-18 20:30
愛読者さん、こんばんは。
そうですね。フィールドワークとは想像以上に威力がありますね。
現地の人には当たり前のことが、大きな情報だったりします。

淡海三船が書紀の完成後すぐに生まれたということは
「応神」があとで付け足されたという有力な根拠なんですね。
史料サポート、いつもありがとうございます。
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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