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船原古墳(4)「ふなばる」を考えた


船原古墳(4)

 「ふなばる」を考えた


古墳の名前「ふなばる」がどういう経緯で付けられたのかは分かりませんが、
「ふね」「ふな」について、今回は考察したいと思います。

「船原」の字で最初に連想したのは、
「船が泊まるような湊でもあった」のかなという事でした。

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地形を見ると古墳時代に海が迫っていたとは思えませんね。

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これは古墳の近くの川。
この上流にある愛鷹神社の伝承に「社前に川あり。古賀村にて海に入る」とあるので、
この川を小舟で下って海に出たのでしょうね。
という事で湊説はさっさと棄却。


次に考えたのは、造船でもしていたのだろうかということでした。
でも工房を作るには、もっと海のそばがいいのでは?
和船を作る時、完成したら一度海水に沈没させて、隙間を防ぐと聞いたことがあります。
この場所ではやはり不便ですね。
と言う事でこれもまた却下。

さて、この日、古墳を後にして小山田斎宮に行ったのですが、
その摂社を見てちょっと驚きました。

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本殿の裏に並んでいたのですが、
左から鳴瀧神社、志賀三神社、菅原神社、猿田彦神社があったのです。

鳴滝神社は山の上にあるものを合祀したとのことですが、
志賀三神という綿津見の三神が祀られている事から、
この小山田斎宮を守っているは、安曇族と関連した人たちなのだろうかと
ちょっと思ったのです。

そして、菅原神と言えば、冶金の神です。(サイドバー 出目袴着八幡神社)
次に猿田彦の神は道案内の神ですが、
冶金の関係では「猿」を祀るという話を思い出しました。


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それから古賀市歴史資料館で貰った地図を広げていると、
東の谷の薬王寺の裏に銅山と書いてあるのを見つけました。

その南の大目配山には神功皇后が登ったという伝承があります。
そして、ここが愛鷹神社の古宮です。

さらに南に行くと、伊野天照皇大神宮に出てしまうのです。
その途中に遠見岳があります。

伊野天照皇大神宮の方ではこの遠見岳に
神功皇后と仲哀天皇が登ったという伝承があります。

遠見岳と大目配山の距離は2キロほど。
同じ山域に登ったのを西と東でそれぞれに伝えているということになります。
この稜線は現代も歩いて行けるそうです。

伊野天照皇大神宮の社伝の中に
山の上に銅山があって水が汚染された話が載っていました。

そうすると、この山域には銅山があり、
神功皇后の時代から知られていたのではないか。
そんな仮説を立てるようになりました。
さらに、東に行くと犬鳴山です。そこは砂鉄で製鉄をしていました。

銅山や製鉄所に関わる人たちが菅原神や猿田彦の神を祀り、
その運搬などに安曇族が関わったのかも。
と妄想は止まりません。

でも、これと「ふね」と関係ないよなあ。

ちょうどそんな時、牛島さんから荒船神社の所にコメントが入りました。
そう「あらふね神社」。
読み返してみると、「ふね」について延々と書いているではありませんか。
いったい誰がこんなに長々と。
(すっかり忘れていた…。
これからこのブログは「るなの知らなかったあ」から
「るなの忘れとったあ」に変更しなきゃ…)

ということで、同じ記事ですが、再掲します。

(イイボとは蹈鞴の産物のことです。)
『儺の国の星・拾遺』p168 イイボ星 オリオン座 IC 434

陸奥出羽で砂鉄が地下に埋蔵されている地帯を船山(ふなやま)と言い、これを採掘する長者を船木という。

古事記神武紀には神八伊耳命(かむやいみみのみこと)の子孫に、陸奥(みちのく)の石城(いわき)の国造(くにのみやつこ)、伊勢の船木直(ふなきあたえ)の名がみえる。

「ふね」とは斧土(ふなつち)の略で、褐鉄鉱リモナイト(2Fe2O3・3H2O)の風化地層である。「き」とは技術者の古称であった。造る人と掘る人では別の氏族になっていた。

昔は「ふつぬち」といった。なお燃料になる亜炭泥炭を「ふるまき」といった。

陸奥北、下野結城(ゆうき)に「古間木」の名がみえる。「まき」とは薪木即ち燃料で、昔は「もえぎ」といった。わずかな火で長い時間をかけて、酸化鉄の粉末を還元するには最良の炭となった。

「ふる」とは星の古語で流星隕石のごとく、天から降る意に流用されている。隕石には年輪のごとき層を重ねた組織が多い。これが地に落ちて古間木(ふるまき)即ち石炭(いしずみ)を作ったものと祖先は信じていた。

「ふつぬち」とは神代紀には
  次に木の神名は久久能智神(くくのち)を生みたまひき。

即ち「くくぬち」であり、中世あたりから櫟(くぬぎ)、即ち窯の薪木の名となったが、筑紫では歴木(ふみき)とも書いて年輪が識別できる石炭の意に通ってきた。「櫟」の右のつくりの「楽」は銘(らく)、即ち熔鉄のことであった。

タクロを三河で設楽(しだら)という。いかにも銘を作る施設をよく表現している。戦国(1467~1568)の世に南蛮渡りの鉄砲が武器としての勢力をのばしたところは尾張春日井小牧があった。

ここも昔は流木が野原の下に埋没していた所であった。「ふるぬち」とは隕石が風化分解した赤土であった。


福岡県の南の大牟田市に「歴木」という地名があって「くぬぎ」と読みます。
この大牟田市はかつて炭坑で賑わった街なので、
この地名が「石炭」に由来するというのは大変納得です。

今回必要な情報だけ抜き出すと、
「ふね」は葦から生まれた褐鉄鉱(スズ鉄)の風化地層のこと。
「き」は技術者の古称で、「ふなき」とはスズ鉄の採掘長者をさす。
「まき」とは流木が積み重なって風化して野となった所で、
その薪はタタラ製鉄に最良のマキとなった。

最近の水害では倒木が川をふさいで氾濫するケースを目の当たりにします。
そこに土砂が流れ込んで平地を形成すると、倒木が良い燃料に変化する訳です。

山の中で出くわす思いがけない平地には、こんな成り立ちの野もあるのでしょう。
馬を放牧する平地を「牧場」というのも語源は同じなのかもしれません。

「ふね」は古くは「ふなつち」「ふつぬち」とも言った。
________________________________________


以上、一部ですが、自分でもよう調べたなあと…。
(うん、だからこうして日記に書いとかないと忘れるんじゃわい)
(ベンガラはFe2O3)

安曇族についてもこの時触れていて、
この「ふね」を求めて長野に行ったのではないかと仮説を立てているのですが、
長野の安曇では安曇族が土木工事をして現代の礎になって感謝しているといった話が
志賀島の冊子に載っていました。

さて、現場に戻りましょう。
この地形から、かつては広大な葦原があったのかも知れないなと思いました。
それが「ふな原」。
そしてこの船原古墳の被葬者は銅山や葦の製鉄で財力を蓄えていた。
その財力で新羅攻撃の為の軍事援助をしたので、
亡くなったあと、その功績を讃えて最高級の馬具が贈られた。
古墳の蓋をしてしまったあとなので、手前に追葬した。

今日の妄想はこんな感じです。

でも、来目皇子のように客死した人の可能性もあるな
とも思ったりするのでした。

全体が掘り上げられたら、また推理を楽しみましょ。






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by lunabura | 2013-04-25 22:19 | 船原古墳・古賀市 | Trackback | Comments(13)
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Commented by 愛読者 at 2013-04-26 10:54 x
斧土(ふなつち)が「ふつぬち」といったんですか?
「ふつぬち」の「ぬ」は「の」、「ち」は大穴牟遲(おおなむち)「大日孁貴」(おおひるめむち)足名椎(あしなづち)八俣遠呂智(やまたのおろち)に見るように、「神」を表す言素ですから、語幹は「ふつ」。
従って「ふつぬち」は「ふつ(の)神」となります。
それなら経津主神(ふつぬしのかみ)や布都御魂(ふつのみたま)と関係するかもしれません。
経津主は刀剣・武具と関連するといわれ、布都御魂を祀る石上神は物部の武器庫ですから、いずれも「斧(ふつ)=武器」と繋がります。
そして武器は当然金属(銅・鉄)で、「ふつ」は金属(精錬)を意味するのとなり、るなさんの推測は当たっていることになりますね。
Commented by lunabura at 2013-04-26 20:31
愛読者さん、こんばんは。
昔の言葉は甲乙の問題もありますが、それ以外に、訛ったような変化をするケースが多いんだなとこの頃思うようになりました。
「ふなつち」も何度も言っている内に「ふつぬち」か「ふなつち」か
ごっちゃになるケースとか、
現代でも、古代でもあったのではないかと。
異族の言葉を聞き取るのは、結構難しかっただろうなとか。

「ふつ」と「ふる」の話は、「ふつの御魂」は砂鉄製、「ふるの御魂」は隕鉄製と、真鍋氏は分けています。
鞍手郡の「ふるもの神社」は石上神社の元宮ではないかと考えています。
もちろん、物部氏の里です。
サイドバー 古物神社をよかったらご覧ください。
Commented by 前立腺隊じっちゃマン at 2013-06-08 21:57 x
るな様、こんばんは。
今日、現地周辺を歩きながら思い出したことがありました。
福間・祥雲寺住職であった町田氏が、戦前まで寺の後背地に銅の採掘坑があったようだ、と言っていました。「くろがね」も「あかがね」も、この周辺にあったのですね。

古墳周辺の地形、以前から眼前の九州道沿いに横たわる微高地が気になっていました。宇佐神宮の海側を見たときの風景と同じなのです。
聖母屋敷を山懐で包み、前面に防御線があり、花鶴山を防衛起点とする、そんな布陣に思えます。庶民の住まいは、花鶴上流で経済基盤となる谷山地区だけでなく、背後を衝かれないように、菰野・米多比など谷戸地形の入口にも配されていたように想像します。

製鉄関連の記事、スゴイ! 日置氏や千竃氏などにも深く関わっているんでしょうけど、とりあえず知己の柊木(くのき)氏に、「くぬぎ」に由来するかもしれんゾと教えてあげます。
Commented by 前立腺隊じっちゃマン at 2013-06-09 10:05 x
るな様、再度。
最近のテレビ放映で、かつて安来のメーカーの依頼でたたら製鉄を再現した方が、リモナイト地層を歩いていました。ボロボロと崩れる危険な崖地に見えました。
河川・海浜の砂鉄回収では、その3倍以上(3対10であったような・・・)の面積の森を薪炭として必要とする、また芦の根が吸引する砂鉄を回収する技法もあった、と書かれた本の、タイトル・著者ともに忘れました。

亜炭については、釧路湿原の露天掘りのような自然地形のみがふさわしいように思います。当地の約15メートル下には風化した大理石の岩盤。分水嶺の近い当地の水系では、礫の堆積が顕著であろうと思っていました。AEON北方、西郷川右岸の発掘も、そのように見受けました。

たぶん、とても御多忙と拝察。生真面目な応答御無用。私も、多忙時を避けて、気ままに書かせていただいています。
Commented by lunabura at 2013-06-09 20:33
前立腺隊じっちゃマンさん、こんばんは。
現地を歩かれたのですね。宇佐の風景に近いとは面白いですね。
弓や農具まで発見されたので、いよいよ現地の人が被葬者のようです。
花鶴浜から新宮にかけて、仲哀天皇の時代には船の軍事訓練。陸上では騎馬戦の訓練など、をしているので、往時の組織が継続していると考えています。
記事にしていませんが、鹿部(ししぶ)やチチブという地名は製鉄の地だそうです。
地形も風を利用できる地形だというのを確認しています。

山の方の銅山もまた往時から採掘していたのではないかと推測しています。
反対側の久山では、鉱害による水の汚染があったのでしょう、竹内宿禰が井戸を掘っています。
ところで、西郷川右岸の発掘とは、どのようなものですか?

Commented by 前立腺隊じっちゃマン at 2013-06-09 21:50 x
るな様、こんばんは。
昨年、水交会病院の約2百メートルほど海側、百坪ほどの発掘を見学しました。現在の地面から礫と砂の交じる約3メートルの層の下、水路と掘立柱跡が確認できました。学芸員が居なかったので、該当する時代、施設の目的、当時の花鶴川の位置を知ることはできませんでした。
新しくても、領主河津氏の時代を、はるかに遡る気がしました。対岸に「うかみ(雨冠の下に霞)神社」があって、それが海に浮いて見えるほど海浜であったなら、様々な態様を想像できます。

以前、草野の発心城を調べていて、耳納連山の鉄犀の話に出くわしました。古賀の西斜面でも発見されているのでしょうか。

船合戦について、古賀の砂浜では小早程度の軍船なら達着できますが、神湊では、浮き桟橋を並べて集結したのだ、とは地元の古老のお話です。
Commented by lunabura at 2013-06-09 22:57
耳納連山で鉄滓が発見されていたのですか。
鹿部山は発見されていないと思います。
ししぶ・ちちぶの説は眞鍋大覺氏の伝承ですから。
三山のうち二つが昭和になって崩されて、完全消滅です。
花鶴浜では最澄の船が到着しているので、在る程度の大型船が着岸できる湊があったのかも。

西郷川はある人が、奴国の境界線に比定しているので、注目しています。
Commented by 前立腺隊じっちゃマン at 2013-06-10 01:58 x
先程から、未検出の官道のことを考えていました。西郷川を、どこで渡るか。
青柳・今木を通る赤間街道より山側の、菰野・舎利蔵・本木のほうが古道のように思われます。その場合、先般の発掘地など、河川路・海路の基点として、機能が明確になる気がします。
そして宗像の環濠集落(現宗像高校)へのルートとは別に、海上ネットワークの所産として、新原・奴山古墳群が形成されたのではないでしょうか。
中世、山田の白山城・手光・福間のルートが主要道ですが、古代、手光は海浜グループに属すると思っています。

西郷川までが、確かに新原・奴山グループの領域南限を感じさせますね。

上流に「モトキ」「イマキ」が並ぶこと、不穏です。どちらも必要な勾配のある地形で、灌漑技術の巧劣にも関係が無さそうです。穏やかな住み分けで始まったのか、「イマキ」による圧迫があったのか・・・
古道を守ったのが「モトキ」、赤間街道を新しく守ったのが「イマキ」なのかな???
Commented by lunabura at 2013-06-10 21:06
興味深い話ですね。
たしか、秀吉の進軍ルートが話題にされた辺りは不明になっていませんでしたか?
「イマキ」と「モトキ」も面白いですね。
ちょっと地図を見てみます。
Commented by ラルフローレン at 2013-09-22 21:32 x
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Commented by 男性 ファッション at 2013-09-22 21:32 x
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Commented by miu miu 店舗 at 2013-09-25 18:41 x
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