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七支刀 369年説と468年説(1)


七支刀 

369年説と468年説(1)

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博多駅で旅人を迎える「卑弥呼像」です。
凛としたまなざしと、美しい色彩。

その左手に持つのは七支刀。
右手には銅鏡。(ちゃんと凸面になっている!)
三角縁神獣鏡なのか、裏を見てみたいな!
勾玉を下げ、貫頭衣を着て前後に布をまとう。
倭人伝そのまま。
しかも、その布の模様は王塚古墳の装飾文様。

作者がどれほど弥生時代に関する歴史書を読みこんだのか、よ~く伝わってきます。
そして冠はなんと新羅風。
これは卑弥呼といいながらも神功皇后のアイテムにも彩られているぞ。

卑弥呼。
人々の心をひきつけてやまない倭の女王。
本当に美しい博多人形です。



置かれている場所は改札口のちょっと手前の右の片隅なので、
気づく人はほとんどいない。
どうせなら中央のコンコースに置かれたら、
もっと多くの人の目に触れるだろうなと思うと、置き場所がもったいないなあ。


さて、今回はこの神功皇后のアイテム「七支刀の年代」についてです。

なんで七支刀が神功皇后のアイテムなのかというと、
『日本書紀』に、
神功摂政52年9月、百済のクテイらが千熊長彦に従って倭国にやってきて、
七支刀や七つ子の鏡などを献上した、と書いてあるからです。

たまたま現存する奈良県の石上神宮の七支刀の製作年から
神功皇后の時代は西暦200年+120年=320年という説が
現代では定説なのだそうです。

それを重々承知の上で、年表には200年と書いている私は
相当のへそ曲がりですな。

いろんな方が心配してコメントをくださっています。
でも、日本書紀のツギハギをチェックしないと、年代は確定できないよね。
まずは素の状態で古代の歴史を見たいというのが、るな流なんです。


製作年の不思議
奇跡的に現存する石上神宮の七支刀の銘文から、製作年は369年だと聞くけど、
模写を見たら、肝心の年号の部分は判読不明だった~ (@_@;)
かなりショックを受けたのは一年前。

年号の部分が欠字なのに369年と決まっているのは何故なんだあ?

それに加えて「神功皇后が貰った七支刀」=「石上神宮の七支刀」
と何故言えるんだ。その論理が理解できない…。

もしかしたら、七支刀が世界で一本だけしか作られなかったというのが前提になってる?
そんなの、どうやって証明できるんだろ。
鋳型で作られたと判明した以上は、銅鏡と同じように複数造られたのでは?

たまたま、奈良で一本発見されているだけかもしれないのに。
そんな思いを消すことができずにいました。


福岡県のみやま市の「こうやの宮」の神像は七支刀を持っている。
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ところが、これも石上神宮に奉納されたんだということになって、
「神功皇后が貰った七支刀」=「石上神社の七支刀」=「こうやの宮の神像の七支刀」
という論理もあったりする。
これがどうして成立するか、よく分からない。

以前書いたけど、吉田信弘氏によると、
みやま市には別の七支刀が存在していて、
戦争中に鍛冶屋が鋳直そうとしたけど、全く歯が立たなかった。
そして行方不明になった、という話を聞いていて、
七支刀というのは何本も製作されているのではないかと思ってます。
その失われた七支刀が見つからないかなあ。

でも、みやま市に鍛冶屋さんはあるだろうか、と思って確認したら、
こうやの宮のすぐ近くにあるそうで、
これから調査される可能性が出て来ました。

なにせ「こうやの宮」は「磯上物部神社」ともいうんですからね。
ずっと注目してるんです。


さて、判読不明の年号が基準になって、
神功皇后の七支刀が石上神宮に預けられた?という
仮説の上に仮説を載せて出来ている年代、369年。

いったい、どうする。
るな探偵は考えた。    (つづく)




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by lunabura | 2013-05-15 23:01 | 七支刀 | Trackback | Comments(9)
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Commented by エゾリス at 2013-05-16 22:43 x
るなさんこんばんは。
博多に行ったとき卑弥呼を見たかったです。
卑弥呼が七支刀を持っているのにはちょっと驚きまた。
韓国ドラマ「近肖古王」で七支刀が出てきましたのでそれから気になって七支刀に関する本を読んでみました。
「謎の七支刀」宮崎市定や「倭人と韓人」上垣外憲一などです。
るなさんのいうように年代の部分がよく読み取れないのになぜ近肖古王からもらったといえるか疑問ではありますが学者の方は「三国史記」や「日本書紀」に書いてあるからという理由でしょうか?

七支刀は謎だらけでとても気になります。
るなさん流に日本書紀の年代の謎をどのように解いてくれるのか首を長くして待っています。
Commented by lunabura at 2013-05-17 00:04
エゾリスさん、こんばんは。
卑弥呼像は、人が殺到する改札口の出口、右の方にあるので、
私もようやく見つけたのですよ。
卑弥呼が七支刀を持つのは、日本書紀が神功皇后=(神功+卑弥呼)にしているからかなあ。
あのアイテムを見ていると、だんだん神功皇后に見えて来ますから、不思議。

『日本書紀』の年代で一番変なのは、神功皇后のあと、応神天皇が出ているのですが、皇后の死後に応神天皇が即位したと、人々は解釈してるのかなあと思われる点です。
そうすると、応神天皇も后も70歳以上で結婚したようになって、みんなが、百歳、百歳の世界になるんです。
昔の人は大正時代に造られた皇后観が刷り込まれてしまって、うっかりと思いこんでいるような印象を持つようになりました。
るな流解釈って、出来る日が来るかなあ。
Commented by 愛読者 at 2013-05-17 10:51 x
『三国志』倭人伝、裴注所引「魏略」 に「(倭人の)俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す」とあり、これは倭人は春~秋、秋~春を各1年とかぞえる「2倍年歴」制だったことを意味するとされます。
継体天皇の年齢が『書紀(約80歳)』と『古事記(約40歳)』で2倍違いますから2倍年歴は継体天皇の辺まで続いていたと考えられます。
そうすると応神の寿命は55歳、神功は未詳ですが16歳で応神を生んだとすれば51歳となります。
そんなもんでしょうね。
Commented by lunabura at 2013-05-17 20:09
ああ、これはすっきりとしますね。
そうすると、仲哀も26歳で崩御となって、不人気となるはず。
52歳で崩御なら、それほど問題ではない。ということですよね。
神功皇后も懐妊が遅れるのはまだ幼かったからと、自然な流れになります。
そして、応神紀とますます時間が釣り合わなくなる。 (・.・;)
これもまた、私にとっては一つの壁です。
Commented by 前立腺隊じっちゃマン at 2013-05-18 00:15 x
新羅系の作為によって記紀理解は混迷を極めます。
また上代の和語に子音[h]は無いので、ヒミコという謂いは存在しません。ニッポンという発音からニホンが派生するのも、江戸中期を待たねばなりません。支那人で、ピメファならまだしも当時に近い発音じゃねえのか、と言う者がありますが、どうなんでしょ。
本題の七支刀。百済が関与するなら、同盟関係の伽耶の鋳造技術が用いられた可能性もあるのでしょうか。

とかく、国内のリソースを過大視する見解に疑問をもっています。神功時代の三韓といえば、新羅に三分割統治されていた対馬としなければならないところ、誇大珍説を散見します。鎌倉時代でも対馬人は新羅語を話したのであり、江戸期には李朝から米の供与を得て助かっていた、遣唐使だって新羅の商船をチャーターしたのだ、と教科書に明記すべきです。真説でないと、韓国語で解ける万葉集という輸入珍説を許す結果にもなります。万葉語はほぼ百済語であり、母音が21個にも増えた朝鮮語ごときが、上代のリファレンスになるはずがありません。

それと久米論文については イヒドホ・ドイチェヌン・ワカラネスミダ ということで訳書です。
Commented by lunabura at 2013-05-18 22:04
こんばんは。
コメントありがとうございます。

久米論文の「ワカラネスミダ」とは、ペンネームなんですか ?
そのドイツ人は、日本語も韓国語も分かる?
びっくりです。すごいですね。

卑弥呼の発音、そういえば、ず~と昔、弥生人の頭骨が復元されて、それで発音すると「ピンカッ」となってました。
ハヒフヘホはパピプペポ
サシスセソはチャチチュチェチョと発音していたと
認識していますが、いかがでしょうか。

それよりも、
>新羅系の作為によって記紀理解は混迷を極めます。

>万葉語はほぼ百済語であり

についてですが、新羅系と百済系と発音が違っていたのですか?
また、日本書紀などは、新羅系によって改竄されたのですか?
よかったら詳しく教えてください。
Commented by 前立腺隊じっちゃマン at 2013-05-19 01:22 x
タモリ流独朝ギャグ、くだらなくてスミマセン。私は独語に堪能でなく、かつ現今の朝鮮語なぞ知らないということでして・・。

天武が下令し元明が完成させた記紀。不整合のあらかたが新羅系、わけても皇室に利すること。この蓋然性だけで書かせていただきました。吉備と越との分断企図を示唆する人もありますが、諸氏族の家伝を抹殺した点において、結果として新羅系皇室が同族の弱体化にも成功したのは事実でしょう。

韓半島から、滅びた順に支配層が流入しています。それ以前から言語も、都度流入しています。先ず伽耶人の話すドラヴィダ語(古印度、揚子江下流域発祥)、ツングース系百済語、そして新羅語。

秦の始皇帝と漢の武帝とによって滅ぼされた国々は倭(セコいという卑字)と記録されました。海岸線を北上、遼東半島を回り込み、伽耶に落ち着きました。日本語に、その残滓をほとんど残しません。「倭」とは、時代によって居所が異なることに注意が必要でしょう。

防人の歌の中、耳慣れない言葉が含まれます。言葉が「けとば」であったり。米を、東日本でシャリと言うがごときも、新羅語であるかと。
Commented by lunabura at 2013-05-19 17:14
ジョークでしたか。失礼しました (+_+)

伽耶人がドラヴィダ語を話すとは、興味深いですね。
南インドの人たちの歌はまるで日本の演歌そっくりで、
発音は加藤茶そっくりでした。
何語がは知りませんんが。
「ね?ね?」とおねだりする子供の声は、かつての「ローズ布団、こうてえな。ね?ね?おかあちゃん」と全く同じ用法。
そんな事を思い出しました。
Commented by エルメス 鞄 メンズ at 2013-10-30 11:04 x
エルメス トゥイリー
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