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安曇族と志賀島(9)呉から来た安曇族・九州王朝の場所を伝えていた


安曇族と志賀島(9)

呉から来た安曇族
九州王朝の場所を伝えていた

蒙古塚の話です。
金印公園のすぐ北にある蒙古塚ですが、もともと「クビキレ」という地名でした。
元寇の船が一艘着岸したので、乗組員を殺したところです。
しかし、呉の乗組員だけは助けたそうです。
何故なら安曇族が呉から来た民であり、乗組員の言葉で呉人かどうか分かったからだそうです。

安曇族は呉から来た民なので漢字を知っていたそうです。
それは当然だと思います。

鉄や銅を作る事の出来る人たちは、グラムやキロに相当する言葉を持ち、
故郷からその単語と共にやって来ます。
船を造る事の出来る人たちは、センチやメートルに相当する単語を持ち、
のこぎりや斧で木を測って切ったり削ったりしました。
それらの言葉は倭語になって、意味不明ながらも使われているものもあるでしょう。

真鍋大覚はさらに中東の言葉に遡って説明しています。
安曇族は中東から呉を経由して倭国に辿り着いたことになります。

通説では漢字や仏教の渡来の話になると、
突然『日本書紀』の記事がまかり通るのが不思議でならないのですが、
筑紫の状況から見ると、正史に取り上げられない文化交流が早くからあり、
直接、半島や大陸と文物をやりとりしていているのは明らかです。

金印の時代だって、30国近くがそれぞれに中国を目指したのですから、
朝貢品を数えて記載するのに漢数字などを使わずにどうして目録を作れるでしょうか。

歴史の真実を調べて行くと、通説とは違う世界が広がるのは仕方がないですね。
(志賀島の方々も通説では説明できないことがあって困っているみたい)

安曇族は漢字を知っていたので、文書が読み書きできて通訳もできる。
船に乗って国境のない世界を自由に駆け巡るようなスケールの大きな海の民だでした。



さて、呉について思い出すのは「倭人は呉の太伯の子孫」と中国で倭人が自ら言ったという話です。
安曇族が呉の末裔だということは歴史を捉えなおす大きな手がかりとなると思います。

ずっと気になっていたのが、「志賀皇神」という名称です。
「皇神」ということは、天皇家の祖という意味があるはずですよね。

確かに豊玉姫の子と玉依姫が結ばれて、神武天皇が生まれたのですから、
安曇族の血が濃く入っています。

通い婚の時代ですから、本来、神武天皇は安曇族の長として育てられるべきものだったのかも知れません。

中東から呉を経て、対馬を拠点としていた安曇族は豊玉彦の時代に
志免町から須恵町あたりを本拠地として王宮殿を築き、名島に離宮を造った。

そんな聖洲さんの話がだんだん真実味を帯びて来ました。

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(これは地名から建物群を推測した画 王子八幡宮・竈門神社に詳細)

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(名島神社に詳細)


日守神社(ひまもり)の近くに志賀神社があるのは、
そこまで安曇の船が入っていたからと鹿さんも話します。
かつての志賀郷というエリアはかなり広いのです。

ウガヤフキアエズが安曇の母・豊玉姫から生まれ、その妹を玉依姫を妻としたのは
安曇族の血の濃さが必然だったのでしょうか。
安曇族の祖神に志賀「皇神」として「良し」としたのは余程のことです。

そうすると、あの勝馬の元宮まで天皇たちが次々に訪れたのも納得できます。


「天孫族は武器を持ってきた」と鹿さんが言いました。
その言葉は安曇族と山幸彦の社会がかなり異なっていた事を暗示しています。

山幸彦の執拗な攻撃による海幸彦の不幸を見ると、
不合理な事件が起こったのではないかと胸を痛めます。
海幸彦と山幸彦は兄弟となっていますが、
「海の民」と「山の民」のシンボルに読み変える必要があるかもしれません。

しかし、安曇族はさまざまの辛苦を呑みながらも泰然として歴史を育んで行った。

その歴史の中には香椎宮を仲哀天皇に提供するということも含まれていたでしょう。
深い縁があるから仲哀天皇と神功皇后は見知らぬ香椎宮に手ぶらでやって来れた。

羽白熊鷲や田油津姫の討伐後に香椎宮からの疎開先である久山町の斎宮を提供したのも、
やはり安曇族ということになるでしょう。
安曇族こそ奴国を建国した民でしょう。

それから時代が変わり、奴国が高良山に退避したという話があるのも、
戦いが海の向こうから絶えずやってきていたから。
高良大社にはすでに玉垂命(安曇の海神)が祀ってあったので、
入城に混乱はなかったと思われます。

そして鹿さんは思いがけない言葉を一言。
「安曇族は九州王朝にも物資を運んでいました」
「え?九州王朝?  そ、それは何処ですか?」
「八女だと聞いています」

八女か…。
盲点だった。
八女といえば磐井の根拠地ではないか。
そこなら安全で豊かな土地だ。
八女もまた島のつく地名が多く、昔は海が来ていたといいます。

また、大川の風浪宮の宮司さんから伺った大川と八女の深い関わりを思い出しました。
風浪宮もまた安曇族でしたね。

榎津(えのきづ)という湊がその近くにあって、神功皇后もそこから上陸したのですが、
国際港でもあり、古代の異国の地図にもその名が書かれています。

安曇族は志賀島から八女までどうやって物資を運んだのでしょうか。
それは筑紫の北と南を貫流して流れる「ありなれ川」の存在が説明してくれます。
志賀島から小舟で針摺の瀬戸を越えて宝満川、筑後川と下って行けばいいのです。

安曇族は北の叶の浜(志賀島)と南の榎津(有明海)という筑紫の国際港を
二つとも掌握していたことになります。
その財力と航海力で各地の美人を擁していたそうですよ。

九州王朝が八女にあったのはいつのことでしょうか。
都は北から南に移動して行ったのではないかと考えています。


王子八幡宮・竈門神社
http://lunabura.exblog.jp/16413004/

福岡県粕屋郡志免町南里宝満山
地名から推測された那国本宮の地
応神天皇出生地であり、玉依姫の陵墓なのか?

名島神社
http://lunabura.exblog.jp/i21

名島神社(6)倭国の将士たちはここで名乗りを挙げた
名島神社(1) 豊臣秀吉が御座所を設けた
名島神社(2)ここには「那の国」の宮殿があったという
名島神社(3)三笠宮とオリエント文化研究
名島神社(4)君が代の歌のルーツがあった
名島神社(5)昭和の頃 竹藪に覆われていた・竜巻と鯖・ムーダン


地図 蒙古塚





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by lunabura | 2013-07-26 21:44 | 安曇族と志賀島 | Trackback | Comments(6)
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Commented by 愛読者 at 2013-07-27 21:57 x
今日「ガイアの森」を大阪府立大学I-siteなんばライブラリーに寄贈してきました。表紙を見せてきれいに飾ってくれていました。
大勢のみなさんが読んでくれればいいですね
Commented by lunabura at 2013-07-28 20:41
愛読者さん、ありがとうございます (^-^)
若い方々に届けられるのはとても嬉しいです。

昨日から宇佐神宮周辺を廻って来て、返事が遅れました。
これからレポートを作成します。
お楽しみに。(と、言えるほどのものでもありませんが…) (^-^)
Commented by 筑後国造 at 2013-07-29 19:28 x
広川町の志賀海神社や、気長足姫神社も関係あるのでしょうか。
神社名だけの判断ですが・・・
両神社とも由緒書きが無いので、詳細はわかりません。
志賀海神社は狛犬ではなく、鹿がおり、幣殿には鹿の角などが飾られています。
Commented by lunabura at 2013-07-29 21:27
広川町に志賀海神社があるのですか !!!
「海」までついているとは超オドロキです。
当然ながら帰港地があるはずなので、間違いないのでは?
地図に出て来ますか?
住所が知りたいです。
気長足姫神社がどう関係するのか、行ってみたら分かるかも知れませんね。
Commented by 筑後国造 at 2013-07-30 05:05 x
広川町の志賀海神社は、八女市との境、扇島公民館のそばで、八女市の岩戸山古墳の北東500mほどのところです。
Commented by lunabura at 2013-07-30 21:18
地図で確認できました。
すごい場所にあるんですね!!
岩戸山古墳は今はどうなっているのでしょうか。
また行きたいですね。
(行くべきところが山積みになりました…。フクオカは広い…)
教えていただいてありがとうございます。
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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