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船原古墳(5)同じものが宮地嶽古墳に奉納されていた?


船原古墳(5)

同じものが宮地嶽古墳に奉納されていた?
両古墳は同族だった?

11月1日の新聞に、船原古墳の埋納坑から出土した遺物のCTスキャン写真が掲載されました。
次は、その西日本新聞記事です。

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蛇行鉄器が3本も埋納されていたのは、オドロキ。
蛇行鉄器とは馬の鞍の後ろにつけて、旗を挿すもので、
自分の所属する部隊や、氏族などを明らかにするものでしょうから、
武人にとっては格別な意味を持つものと思われます。

それが、3本 (+_+)  多い!
るな的には、金メッキの馬具より、そちらが気になってしかたがないよ。


豪族とは安曇族である
さて、新聞記事の中で西谷正氏は被葬者に関して
「この地域の有力者・宗像氏と並ぶ豪族」と指摘されています。

この地域の豪族って言ったら、安曇族ですよね。
新宮あたりを中心に、阿曇郷があったほどですし…。

Q その安曇族と宗像氏の関係は?
A 両族は共存共栄していました。

その証しとして、荒雄の遭難事件が今でも志賀島では語り継がれています。

荒雄らを 来むか来じかと 飯盛りて 門に出て立ち 待てど来まさじ 
ほか九首                           <山上憶良>
(略)
荒雄の遭難事件は、官から対馬向けの食糧の運搬を請負った宗像部津麿が老齢を理由に志賀村の荒雄に交替を頼んだことに端を発する。荒雄は現在の長崎の五島から対馬に向け出航したのであるが、途中嵐にあって遭難、帰らぬ人となったのである。
http://www.h4.dion.ne.jp/~toso504/fukuoka_ka21.htmlより


荒雄は宗像族の代わりに対馬に向かって遭難したのですが、
安曇族と宗像族の関係がよく分かる資料です。
この話が山上憶良によって十首も歌われています。


糟屋の屯倉を統括していたのは葛子である
新聞記事に戻りますが、桃崎祐輔氏は
「糟屋屯倉の統括者の子孫ではないか」と推察されています。

糟屋屯倉を差し出して命乞いしたのは葛子です。
だから、統括者とはもともと磐井の君であり、子孫とは葛子かその一族のことです。
直接名前を言うのは、はばかられたのかな?

葛子は磐井の君の子ですが、葛子自身は糟屋郡の長者原で
「葛子長者」として語り継がれています。
その近くにも屯倉跡があるという話ですから、屯倉が統合される前には、
各地の便利な所に屯倉があったのでしょう。

磐井の敗北 528年 6世紀前半
船原古墳 6世紀後半~7世紀初め

時代的には桃崎氏の指摘のように、磐井の子孫の時代にあたりますね。

葛子は殺されずにすんだので、葛子の一族が
この地方をそのまま安堵されていた可能性は高いです。

宮地嶽神社では「葛子は安曇族だ」と伝えています。
ということは西谷氏と桃崎氏の指摘を組み合わせたものになります。
考古学的な観察と、神社伝承が一致したと言えるのではないでしょうか。


ところで、葛子は屯倉を献上したくらいで、何故殺されなかったのでしょうか。
屯倉には重要な物資が保管されていたのでしょうが、
武装解除を意味していたのだろうと考えていました。

しかし、葛子の子に関わる宮地嶽神社の北部の津屋崎を探査しているうちに、
ここは「塩、鉄、馬」という国の根幹を支える物資の生産地だと分かりました。
良港があって、異国からは珍しい文物や薬がダイレクトに入って来ていました。

葛子を殺したらどうなるでしょうか。
これらの物資を生産、管理する氏族の長を失わせれば、
物資そのものも手に入らなくなる可能性が出て来ます。
首長とは氏族の長なので、長の首をすげかえて治まるような時代ではなかったはずです。

一方、葛子長者の粕屋町の方は奴国の弥生銀座の近くにあって、
鉄や銅やガラス製品を作っていたハイテクランドでした。もちろん稲作も盛ん。
葛子は武器や装飾品などもまた掌握していたのです。

ヲホド王(継体天皇)が磐井の一族を滅ぼしてしまうと、安曇族の船運も失い、
経済活動や船での戦いも出来なくなります。
これでは磐井の一族を壊滅させる訳にはいきませんね。

「屯倉を献上する」ということは、武装解除と共に、
筑紫で生産された物を大量に継続的に朝貢することを意味していたのだろうと最近では考えています。


葛子の子「勝村・勝頼」
葛子の話に戻りますが、その子「勝村・勝頼」が宮地嶽古墳に埋葬されていると
伝えているのが、宮地嶽神社です。

その北部は先述のように、塩や鉄や馬の一大生産地でした。
ここには大国主命(大己貴命)や少彦名命信仰が広く分布していました。
蛇足ですが、元出雲だったのではないかと、最近のるなは考えています。

磐井の君はその姫と通婚して、平和裏に支配地を広げたのではないか。
そこで生まれたのが磐井の三兄弟「大名麻呂、須多田麻呂、津丸磐麻呂」だろうと考えました。
磐井の君はこの三兄弟を宮地嶽神社を守るように南北に配置しています。

磐井の君は、他に粕屋郡の豪族の姫を娶って葛子が生まれた。
葛子は宮地岳の麓に住む谷殿を娶って勝村・勝頼が生まれたと考えています。


このように宮地嶽古墳の周囲は磐井や葛子の子孫の伝承が濃厚に残っていたのです。
葛子亡きあとは、九州王朝の中心は宮地嶽神社一帯に移ったのでしょう。
だから、宮地嶽神社は「三階松」なのだと考えています。

さて、
同じものが宮地嶽古墳に奉納されていた?
これが今日の記事のサブタイトルです。
新聞に載っていなかったので、アレ?と思ったのですが、
船原古墳から出土した漆塗りの馬具は宮地嶽古墳と同じものだった、
古賀市から神社に連絡があったと聞きました。

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(宮地嶽古墳出土品)

だから、その写真が出るだろうと期待していたのです。(わくわく)

全く同じものなのか、同じタイプなのか、それを知りたかったのですが…。
載っていなくて残念。
(きっと近々比較研究の結果は発表されるでしょう)

全く同じものだとすると、るなの仮説はこうです。

船原古墳 6世紀末~7世紀初頭 被葬者は安曇族だが、葛子の直系かどうかは不明
宮地嶽古墳 7世紀前半 被葬者は安曇族で葛子の子

葛子の二兄弟、勝村・勝頼が亡くなった時に、宮地嶽古墳には多くの文物が各地から献上された。
同時に同じものが船原古墳の被葬者にも届けられたが、すでに封土されていたので、
その近くに穴を掘って埋納した。

そんな感じです。^^

話が入り組んでいて、説明が難しかったです。
文章修業、まだまだです。^^






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by lunabura | 2013-11-06 21:24 | 船原古墳・古賀市 | Trackback | Comments(0)
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