2013年 11月 29日
安曇族と志賀島(11)安曇連の城さがし 3 ついに来た
安曇族と志賀島(11)
安曇連の城さがし 3
ついに来た
前回の天神社から移動すると、思いがけない平地がありました。
正面のピークが二つある丘の左のピークに天神社があります。
写真を撮って振り返ると、鹿さんがじっと立っていました。
「ここに割れた土器が沢山出て来たんです。畑を作るのに邪魔だったらしいです。」
電柱がある辺りを指し示しながら、「祭祀があっていたんじゃないですかね」とも。
言われて見回せばフラットな地形で、何らかの施設と集落があってもよい広さでした。
当然ながら、壱岐対馬や朝鮮半島に向かう船は志賀島を通っていきます。
そして、ここは船を出せるかどうか、最終判断をする場所なので、
航海の安全を祈る施設があって当然です。
海を見ながら綿津見の神々に祈った後、土器を割った情景が目に浮かびそうです。
現在は家があって、ここからは海は見えません。
浪が高ければ何日も日和待ちをしたでしょう。
のちの時代には、その人たちの為の宿泊施設があったかもしれません。
というのは、空海の伝承がここにあるからです。
「向こうの山の右手には空海が休んだという瀧があります」
写真の正面の三角形の山の右手にその瀧があり、川となって脇を流れていました。
遣唐船もまた、ここで出港のタイミングを計り、その間、空海たちも下船して過ごしたのでしょう。
空海はこの時、31歳。
体力気力ともに充実した年代だったんですね。
空海のゆかりの滝は砂防ダムとなっていました。
そばに御堂があり、4月29日には参拝客で賑わうそうです。
これは前回作成した地図。
「『ミヤカタ』『ブクデン』は志賀海神社の神田だったそうです」と鹿さんが調べていてくれました。
そうすると、漢字は「宮方」「奉供田」でしょうか。
そして、滝に向かう山野が るなが想定する安曇城。
崖の上に出ると、フラットな地形がありました。海が見えます!
位置的には大濱の砦の上あたりでしょうか。
「ここは『城山』ともいったそうです」
「そうですか!」
「あの二階建ての家がある所はかつて小山があったんです。
それを崩して地盤を整えるのに使っています」
「それじゃあ、きっとその丘の上に見晴らし台があったんでしょうね!」
この写真の右奥に病院の施設がありました。
かつてはコカコーラの施設だったそうです。
グーグルで見て、城を想定した場所です。
そこはいかにも城を作るのにふさわしい地形でした。
崖の下の弘の漁港は古代から使われていて、
もともと安曇族のプライベート湊だったのではないかと思っています。
船から上がれば少し高台の所に集落があって祭祀施設が造られ、
さらに高くなった所に安曇の長の城。
そして、もう一つ、高くなった所に見晴らし台と砦がある。
そんな想像をしました。
城として理想的な場所です。
ここを発掘すれば、倭奴国~奴国の古い時代の安曇城跡が発見されるのではないでしょうか。
それに対して、もう一つの湊は金印公園辺り。
外敵や病気から城を守るために国際港とし、そこで荷を検査して金印で封泥をした。
だから、金印はそこにあっても不思議ではない。
そんな思いをいだきました。
鹿さん、お世話になりました。ありがとうございます。
安曇族と志賀島 過去記事はこちら
http://lunabura.exblog.jp/i214/
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