2014年 04月 29日
竹内宿禰と高良山
竹内宿禰と高良山
『高良山雑記』には竹内宿禰のことも書かれていました。
るなと同じ説を発見!
① 下宮と上宮
玉垂宮は下宮が先に祭られ、上宮は後に祭られたもので、中古より玉垂宮を武内宿禰とするのは誤りである。
民部省図帳残編に「天平年中、武内宿禰・荒木田襲津彦を祭って相殿とす」とあり、山城八幡にも「上の高良、下の高良」の二社がある。上高良は玉垂、下の高良は武内宿禰といえば別神であること疑いなし(矢野一貞説)。
おっ、また矢野一貞さん。気が合いますね。
「高良玉垂命と高良の神は別神なり」という、るな説と同じです。
るな的手法は、志式神社(福岡市)の神楽と高良大社の縁起を比較したもので、
その結果、「高良玉垂命」とは「海神とそれを奉斎する安曇磯良神」で、
「高良の神」とは「竹内宿禰」となりました。
そして、下宮社のかつての祭神が「高良玉垂命・武内宿禰・物部胆咋命」
となって、「高良玉垂命」と「武内宿禰」は別存在となっていることが、
その証しだとガイドブックでも述べています。
本当の気持ちを言えば、玉垂命には「海神・豊玉彦」の名も入れたかったのですが、
今回は見送りました。
安曇族の祀る神には「綿津見の神、豊玉彦、磯良神」が含まれています。
実は「豊玉彦」とは隠された神ではないかという思いがずっとしています。
糸島辺りを逍遥した時、それに触れた思いがしたのですが、その時に取り上げなかったので、
そのサインは「うたかた」のように消えてしまいました。
豊玉彦と豊玉姫の親子神。
いったいどうして隠されているのだろう。
ここに、陸に上がった安曇族が放浪する謎が隠されているように思われるのです。
神武天皇よりさらに遡った時代なので、見えにくいです。
でも、神功皇后の時代があれほどクリアに捉えられるとは思っていなかったので、
豊玉彦の時代も、もしかしたら、少しは描き出せる日が来るかもしれませんね。
さて、竹内宿禰に話題を戻しましょう。
竹内宿禰の墓所
『高良山雑記』にはその墓のことが書かれていました。
②武内宿禰の墓
武内宿禰の墓は大和葛城郡室という所に在り、武内の墓の傍に一つ倍塚があり「猫塚」と言う。これは武内宿禰が弟の讒言(ざんげん)に遭った時、身代りに死んだ壱岐の真猫の墓であろうと思う。云々(増田于信氏説)。 真猫の墓は早良郡生松原にも在り、猫塚と称す、そこに祀ったのが猫天神である。
高良山毘沙門に在る古墓は宿禰の墓と伝ふ(久留米志)。
二つの墓が書かれています。
一つは大和葛城軍室。ネットで調べると出てきました。
室大墓古墳(むろのおおばかこふん)は、奈良県御所市大字室に所在する古墳時代
中期前半の前方後円墳である。「宮山(みややま)古墳」、「室宮山古墳」ともいう。1921
年(大正10年)3月3日国の史跡に指定される。(wikipedia)
被葬者の候補に葛城襲津彦や竹内宿禰の名が出ています。
②の増田于信氏の説はこれを指しているのでしょう。
倍塚はあるのでしょうか。「真猫」って真根子のこととはビックリ。 (@_@;)
竹内宿禰の墓の二つ目の説は高良山の毘沙門にある墓だそうです。
毘沙門堂は奥の院にあるそうですから、そこに竹内宿禰の墓があるということでしょうか。
御霊(みたま)を祀る所
③本体所大祝家の邸宅内にその御霊が祀られていました。
「大祝家の宅地内に武内宿禰の霊を斉き祭る所を本体所と言う」と、高良玉垂神社々伝に在ると言う。
当家は竹内宿禰の末裔だと言っていましたね。
今は高速道路の下。
その後、どうなったでしょうか。
④御廟と御本体
御廟は高良神の尾靴を埋め、御本体には装束を埋めたとの説あり。又、大臣は美濃山を通行して大和に上られたとの説あり。
「高良神」も「大臣」も竹内宿禰のことですね。
これによると、墓には靴を、本体所には装束を埋めて、「しるし」としたのかも知れません。
美濃山とは耳納山のことでしょう。豊前方面に出て近畿に行ったということでしょうか。
宗像の織幡神社に和魂(にぎみたま)と荒魂が祀られていることも追記しておきましょう。
もちろん、高良大社の祭神は江戸時代より武内宿禰となっています。
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