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安曇と高良山と百済王子


安曇と高良山と百済王子

高良の神=竹内宿禰。
高良玉垂命=海神とそれを奉斎する安曇磯良。
として話を進めています。

『高良山雑記』には安曇のことも書かれていました。
(安曇の表記は阿曇でなく、安曇となっています)

安曇磯良と末裔たち
①干珠満珠社 
神代村安国寺境内にある。玉垂命干珠満珠を納め祭られた所と言う。社司は神代氏(高良山略記)。
神代は「くましろ」と読みます。地名でもありますが、「神代家」が存在しています。
次は以前書いた高良山の武内家の系譜。そこに神代家が出てきます。

②武内宿禰三十二代孫
美濃理麿保続―― 武良麿保義・・・・・・大祝家の祖
       - 武勢麿保続・・・・・・神代家の祖
       - 武見麿保依(隆慶)・・坐主家の祖
       - 武賀麿保通・・・・・大宮司家の祖
小祝安曇姓、権大宮司安曇姓、神官八人、乙名十二人、士分百廿、勾当五人、惣仙当、検校、鍛冶番匠等の諸役人があった。
美濃理麿保続の四兄弟が四家になった時、神代家が生じています。
他の家は神仏に関わる家ですが、神代家は筑後川から高良山に向かう湊にあって、
警護を司る家だったようです。

その神代に安国寺があり、その境内にある干珠満珠社は
玉垂命が二宝珠を納めて祀った所だと伝えていました。

ネットで見ると、安国寺は今も立派に残っていますね。
干珠満珠社が伝わっているかどうか、現地の方に教えていただければと思います。


神功皇后伝承地を並べながら、磯良の足跡を推定したルート上にこの高良山があります。
当ブログでは既に、また『神功皇后伝承を歩く』の下巻でも展開しますが、
神功皇后の誠意に心打たれた安曇磯良は皇后の船の舵取り、即ち船長となって、
新羅に赴き、帰路は皇后とは別船で風浪宮に向かいます。

ルートは長崎の西沿岸沿いです。
そして風浪宮に到り、大善寺玉垂宮に着きます。
一番の仕事は弓大将の国乳別命を送り届けることだったと思います。

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(対馬あたりは左から右へとなっているようなので、いずれ書き換えます)

大型船だった船は大善寺でストップ。
さて、磯良はそこからどのルートを辿ったかと考えた時、
三瀦族の帆掛け舟に乗って高良山に向かったと考えました。

その推測がついに神代村安国寺の干珠満珠社に繋がりました。
まさか、るなの推論の証拠が出てくるとは思わなかったです。

これで、②の「小祝安曇姓、権大宮司安曇姓」の起源は明らかですね。
安曇族の祭祀官が当地に残ったと考えらます。

るな的には、この船には竹内宿禰と妻の豊姫も乗船していただろうと思っています。
豊姫は神功皇后の影武者(ダミー)だったと考えているのです。

そして、赤司八幡宮で出産したのはこの豊姫。
だから、赤司八幡宮は「豊比咩神社」という社号だったというストーリーです。

③高良社仕人 
高良社草創以来の仕人は
丹波氏(俗体大宮司法体坐主兼宮師職、武内宿禰嫡流)、
物部氏(祝司、大祝、小祝職、武内宿禰乳母の子孫)。
安曇氏(磯良の子孫、筑前磯鹿浜の辺に住む、三韓征伐の時の梶取なり。その嫡孫は安曇氏を称す。後、三潴酒見村の風浪宮神主となる)、
百済氏(百済王子、降人)、前田氏(下宮大宮司)、草部氏(御供所、三毛郡司)等、此の外仕人多数なりしも中古に至り滅ぶ(高良山日記、千手院文書)。
高良社仕人の中に「安曇氏」が出てきました。
「磯良の子孫で、三韓征伐の時の梶取」が高良山にいる理由もこれで納得です。
そして、後に「風浪宮の神主となる」とあります。

風浪宮は筑後川~有明海を納めるのに重要拠点。
磯良の船には子供も乗っていて、当地を掌握させたと考えています。

この嫡孫たちは玉垂命の嫡孫でもあるわけですが、「九躰皇子」とは違うような気がしますね。



百済王子
さて、③には百済氏が仕人の一員として書かれています。
百済王子で、「降人」と書かれています。
秘密書では「かうじん」?と書かれているらしく、あれこれと論があるようですが、
こちらには「降人」と書かれています。降伏した人ですね。

百済氏についてはこんな話が伝わっています。


④犬の舞 
玉垂宮、毎年正月十五日社人を集め、天神地祇を奉幣、祭事を奏す。又三韓征伐の神楽を奏す。降人百済氏は犬の面を被り、三韓の王は犬となって、本朝の御門を守る役を勤める。これを犬の舞と言う。新羅、高麗の降人は御帰陣の砌(みぎり)、舟中で死す。何れも三韓の王子也(高良山日記)。
神功皇后の戦いは三韓攻撃と書かれていますが、
この時、新羅・高麗・百済の三国の王子を人質として連れて帰ったと解釈できます。

そして二人は死去。百済王子だけが高良山に連れて来られたということになります。
そうすると、当時の都は高良山にあったのでしょうか。

また、新たな謎が生まれました。


安曇から阿曇へ
⑤極楽寺の草創 
極楽寺は阿曇広麻呂が仁寿年中草創の由言い伝えているけれども、中頃退転して、元禄二己巳年草堂房舎を造る。こうして三井寺恵信僧都作の彌陀を遷す(太宰管内志)
極楽寺の場所は調べると御手洗池の下辺りにありました。
この寺を阿曇広麻呂が創建したとあるので、安曇族はずっと高良山にいたようですね。
安曇が阿曇に変わっています。
カッコイイ漢字に変わったのだろうと推測しています。





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by lunabura | 2014-05-03 19:00 | 高良下宮社と周囲・久留米市 | Trackback | Comments(0)
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