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別所神社(1)中大兄皇子は麻氐良社から女神を分けて祀った


別所神社(1)

中大兄皇子は麻氐良社から女神を分けて祀った

斉明天皇と中大兄皇子の名を伝える別所神社。
朝倉市須川のバス停(名前不明)から路地に入った所にありました。


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新緑の季節でした。桜でしょうか。春はピンクで溢れ返るのでしょうね。


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拝殿前に松の木。



説明板から。
所在地 福岡県朝倉町大字須川字下須川3197-2
祭神 事解男命(ことさかお)伊弉冊尊(いざなみ)速玉男命(はやたまのお)



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イザナミ尊が祀られていましたが、夫神のイザナギ尊の名は見当たりませんでした。
その代わり、事解男命と速玉男命が祀られています。


説明板の続きを読みましょう。
 
西暦661年、斉明天皇は百済救済のため、中大兄皇子ら文武百官を従え「朝倉橘広庭宮」(あさくらのたちばなのひろにわみや)に入られた。ほどなく病にかかられたため、中大兄皇子は麻氐良山の朝倉社の祭神「伊弉冊尊」を別けて祀り、斉明天皇の御病気平癒を祈願されたのがこの別所神社である。

 昔は須川村の氏神として祀られ、百年前までは、ここより南のお旅所(宮野幼稚園北側)まで御神幸が行われていた。
なんと麻氐良山!(まてら)が出てきました。
中大兄皇子はそこから伊弉冊尊だけ分けて祀った!

斉明天皇の葬儀を見た神はイザナミ尊だったの????
まさか。

確認のため、斉明天皇について訳した『古事記の神々』の該当部分を抜き出します。
(前後はサイドバーから入って読んでくださいな)
『日本書紀』の口語訳です。

3月25日に御船は航路に戻って那の大津に着きました。磐瀬行宮(いわせのかりみや)に住みました。天皇は名を改めて長津宮とされました。

夏4月に百済の福信が使者を派遣し、手紙をたてまつって、百済の王子・余豊璋を返してほしいと願いました。(ある本には4月に天皇は朝倉の宮に遷宮されたといいます。)

5月9日に天皇は朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)に遷宮されました。この時に朝倉神社の木を切り払って広庭宮を作ったために、神の怒りにふれて雷が落ちて、御殿を壊してしまいました。

また、この宮の中に鬼火が現れました。このせいで大舎人(とねり)や色々な近侍たちが大勢病気になって死にました。
23日に耽羅(たむら)国(済州島)が初めて王子アハギたちを人質として差し出しました。
6月に伊勢王(いせのおおきみ)が亡くなりました。
秋7月の24日に斉明天皇は朝倉宮で崩御されました。(68歳)

8月1日に皇太子・中大兄皇子は天皇の御遺体を磐瀬宮に移しました。この夜、朝倉山の上に鬼が出て、大笠を付けて喪儀を見ていました。人々は怪しみました。
橘広庭宮の造営のために朝倉神社の木を切り取っています。
そのせいで神の怒りに触れて雷が落ちて御殿が壊れました。

それから人々が次々に亡くなり、斉明天皇まで亡くなってしまいます。
天皇の葬儀の時には「朝倉山」の上に鬼が出て大笠を付けて見ていたと書かれています。

この「朝倉山」こそ、地元では「麻氐良山」だと言われているのです。

別所神社のイザナミ尊が「斉明天皇の御病気平癒を祈願」するために麻氐良社から分祀されたのなら、
葬儀を見ていた鬼とはイザナミ尊を暗示している可能性も出てきました。

中大兄皇子は何故、イザナミ尊だけ格別に祀ったのか。

それはイザナミ尊の両脇に祀られる事解男命(ことさかを)速玉男命(はやたまのを)の神にヒントがありそうです。
この三神で思い出すのは、イザナミ尊とイザナギ尊との哀しい別れのシーンです。

イザナギ命は亡くなったイザナミ命に会いたくて黄泉の国まで行ったのですが、
絶対見ないで、と言われたのに覗いてしまい、腐りつつある遺骸を見て逃げ出します。

『古事記』から。
 最後に、イザナミの命がみずから追いかけて来ました。
そこで、イザナギの命は千引(ちびき)の岩をその黄泉比良坂(よもつひらさか)に引いて塞いで、その岩を間に置いて、互いに向かい合って立ち、イザナギの命が絶縁の言葉を言い渡しました。

すると、イザナミの命は、「いとしいあなた。こんな事をするなら、あなたの国の人々を一日に千人、くびり殺します。」と言いました。

そこで、イザナギの命が言いました。
「いとしいわが妻よ、そなたがそんな事をするなら、私は一日に千五百の産屋を建てよう。」

こういう事から、一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生まれるようになりました。
黄泉の国まで探しに来てくれた愛しい夫が、約束を破った上に逃げて行き、
自分との間に岩を置いて道を断った。

女性から見ると、とても哀しいシーンです。

この時、愛は憎しみに変わり、イザナミ命は「一日に千人殺す」と宣言しました。
そして、イザナミ命は死の女神となってしまいました。

『古事記』では上記のようになっていますが、『日本書紀』にもいくつか別伝が書かれていて、
その中に事解男命と速玉男命が出てきます。

そこではイザナキ尊は「離婚しよう」と言った時、その誓いとして唾を吐きます。
唾を吐くのは約束を固めるしるしで、「唾(つは)く神」を速玉之男、
「掃う神」を泉津事解之男(よもつことさかのを)と名付けたと書かれています。

死の女神と、縁を断つ二柱の男神。

中大兄皇子は「死の女神の言霊の実現」を封じ込めるために
事解男命と速玉男命を??で固めたのではないでしょうか。

そのために「別の所」にわざわざ祀ったと思われるのです。

宮殿は落雷で破壊され、官僚や王族たちが続々と死に、ついに病の床に伏した母帝。

何としても死の女神を鎮めたい。

緊迫した祈りの様子がひしひしと伝わって来ます。
(つづく)


斉明天皇七年(661) 
5月9日 朝倉に遷幸。
○月○日 斉明帝、藤原鎌足に命じて宮野神社を創建する。
○月○日 中大兄皇子 天皇の病気平癒のために別所神社を創建する。
7月24日 崩御。68歳。
8月1日 遺骸を橘広庭宮から木の丸殿に移す。中大兄皇子は12日間服喪。御陵山。恵蘇八幡宮



別所神社 麻氐良山







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by lunabura | 2014-05-14 18:51 | (ハ行)神社 | Trackback | Comments(4)
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Commented by dostoev at 2014-05-15 05:29
興味深い話でした。天智天皇が何故大津に都を造ったのかは、伊弉冉に関係するかもしれませんね。もちろん多賀大社もありますが、琵琶湖は黄泉の国と通じてるという言い伝えもありますから。
Commented by lunabura at 2014-05-15 22:13
そうなんですか。
筑紫での出来事が影響を及ぼしたという観点で見れば、何か発見を促すかもしれませんね。
仲哀天皇の突然の崩御とも重ね合わせられている気配があるので、
もう少し調べてみようと思っています。
Commented at 2014-05-18 01:30 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by lunabura at 2014-05-18 20:15
そうですか。病とは言え、真実は分からないですよね。
面白い話、ありがとうございます^^
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