2014年 05月 26日
「水城」は磐井がひらいた
「水城」は磐井がひらいた
水城(みずき)。
天智天皇が作って水を貯えさせたという。
今でもグーグルアースにくっきりと写る土塁。
本当に防衛の為に作られたのでしょうか。
川を堰きとめた土塁で軍事的にどんな作戦が可能なのか、いまだに理解が出来ません。
次は大野城市のホームページから。
水城の名前の由来
日本書紀に「天智(てんち)三年(664) 対馬嶋(つしまのしま)、壱岐嶋(いきのしま)、筑紫国(つくしのくに)などに防(さきもり)と烽(とぶひ)を置く。また、筑紫(つくし)に、大堤(おおつつみ)を築きて水を貯えしむ。名づけて水城という。』とあります。その意味は対馬、壱岐、筑紫の国などに防衛のために兵士を派遣し、通信手段のためにのろし台を設置した。また、筑紫に大きな堤防を築いて、水を貯えさせた。水城という名をつけた。となります。
水城の堤防は、大城山麓(おおきさんろく)から下大利(しもおおり)に至り、全長約1.2キロメートル、幅80メートル、高さ13メートルの人工の盛土(もりつち)による土塁(どるい)で、博多側には幅60メートルの濠(ほり)がありました。現在では「水」という文字を使うのか疑問に感じる人も多いでしょうが、当時は満々と水を貯えた濠と見上げるような大きさの土塁があったのです。
(筑紫は「ちくし」と思われますが、そのままにしています) この水城に関しては、過去記事で真鍋大覚の記述をまとめて、その一部を
「針摺の瀬戸と水城 古代、玄界灘と有明海はつながっていた」
http://lunabura.exblog.jp/16018354
というタイトルで既に紹介しています。
今回はその記事の観点を変えて、水城を造ったのは磐井であって、天智天皇ではないこと。
天智天皇は水城の改修工事を行ったことを確認したいと思います。
200年頃 太宰府の北西にあたる四王寺山(535m)は昔は潮路見山(しおじみやま)、或いは四明山(しみょうざん)と呼ばれた。麓の別院が安楽寺で、今は天満宮になっている。ここで南と北の潮目の満ち引きをみる安楽人の望楼観亭があったと伝えられている。(高良大社の絵巻物がこれを語る)
473年 ありなれ川で大洪水大氾濫が起こる。このころ、筑紫の東島(あかりのしま)と西島(いりのしま)が針摺で繋がれた。筑紫国造磐井は曽我稲目と共に洪水を修め、473年から523年の間に、水城の築堤工事を開始したと伝えられる。
現在の石堂川を中にして粕屋一体を灌漑して百姓を潤す目的であった。曽我稲目は怡土郡と那珂郡の間に新開の土地・早良郡を開いていた。
この頃は神功皇后が作った裂田(さくたの)溝(うなで)の水の勢いが新開の那珂・板付あたりでは減少していた。これを補給して、大洪水で干潟が進展した事に対処するためである。
527年 磐井の乱
573年 夏5月の台風で水城は徹底的に壊滅した。筥崎の砂浜の下に堆積している博多の家屋や調度の破片から推定すると、2万戸~10万戸が被害に遭って、玄界灘に漂没した。箸、下駄、椀が出土。瀦水塘が却って被害を大きくしたことから、この時から遺跡が急に陰をひそめる。
594~661皇極帝の御代に、磁鉄鉱で作った巨大な皇極が献上された。天智帝はこれを見て、指南車なる真方位補正済みの磁石を創案したと伝えられる。その磁石を水城に設置して、舟人にもその航法を授けられたと聞く。
659年と663年 新羅にて大地震が起こる。新羅の都慶州を震撼させた大地震の余波は玄界灘を渡って那の津を揺らせた。早良郡田隈野芥では津波高潮で倒壊漂没した家屋が出土している。斉明天皇(659)或いは天智天皇(663)年の頃に建てられた校倉である。天智天皇(626~671)は斉明天皇(594~661)と共に筑紫の長洲宮にあった。行宮の場所は那珂郡安徳村梶原。
天智天皇は磐井がひらいた水城(瀦水塘)を、玄界灘から有明海に疎水式に船を通す湖に切りかえる大工事を完成した。都府楼に自ら開発した時計を据え、玄界灘と有明海の潮時をみはからって、水城の上を往来する舟人に太陽暦の時鐘を響かせた。
後にこれは御母斉明帝の菩提寺・観世音寺に移されたとも聞く。
(参考 698年京都妙心寺に同型の梵鐘 粕屋の評・舂米(つくしね)連広国が鋳造。 鴻盧館に8世紀の鐘の鋳造あとが出土。)
かつて、博多湾と有明海がそれぞれ深く湾入して、互いに繋がっていたころ、
その川を「ありなれ川」と呼ぶ人たちがいました。
「ありなれ川」とは「広い川」という意味でもあり、
天にあっては「天の川」を指していました。
南北の海がが繋がっていた場所は「針摺」(はりずり)ですが、現在はもちろん埋まっています。
早岐(はいき)・針尾・針摺は同じような地形に付けられ地名で、
原型を残す「早岐瀬戸」をユーチューブで見ると、往時の「針摺の瀬戸」の様子も想像できます。
http://www.youtube.com/watch?v=d6qEGnI9--o
針摺では、時には博多湾の水が狭い水路を超えて、
蘆木川~千年川(筑後川)へ流れ込むこともあったといいます。
安曇族たちが九州王朝へ物資を運ぶのはこの水路を通っていたわけです。
しかし、473年の大水害で針摺瀬戸が埋まってしまい、船で運航することが出来なくなりました。
そこで筑紫君磐井は蘇我稲目と共に治水工事をしました。
ダムを造って、灌漑用水も確保したというのです。
土手の中に木樋による導管がある謎も
水の管理をしていたことを考慮すれば理解できると思います。
しかし、川を堰き止めたのですから、洪水で決壊すれば被害は甚大です。
実際、573年に大水害が起こっています。
そして、天智天皇の時代に疏水の工事をしたと伝えています。
天智天皇が「筑紫に大きな堤防を築いて、水を貯えさせた。水城という名をつけた。」(大野城HP)
というのは、磐井がひらいた水城が壊れたため、天智天皇が疏水式にしたということになります。
観世音寺の鐘はもともと水城の側で「玄界灘と有明海の潮時をみはからって、
水城の上を往来する舟人に太陽暦の時鐘を響かせ」るために利用されたものだと言います。
深く湾入していた当時の川は潮の満ち引きがあったので、
それを利用して川を遡ったりしていたそうですが、
月を見れば満ち引きの時刻まで船人たちは把握していました。
が、太陽暦はまた別物だったので、船人の利便を図って鐘を設置したのでしょう。
この疏水では通行税がちゃんと取られて、観世音寺の運営費に充てられたそうです。
水城が唐に対する軍事目的で造られたのでなく、
博多湾と筑後川を船で運航するための内政的なものだと観点を変えれば、
その不思議な形状への研究が進むのではないでしょうか。
水城
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